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鬱金の章

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気おされるな、名ばかりとは言え、私が総大将なんだから。
引き連れた軍兵の命は、ひとつたりとも消してはならない。

「悪かった、もう大丈夫」

帰蝶は言って、傍らの薙刀を握る。
程なく現れた使者は、黒い頭巾ですっぽりと顔を隠していた。敵陣に乗り込んでいるというのに、緊張感というものが微塵も感じられない。さらに不気味なことに、悠然とこちらに歩いてくると、寸分の迷いなく帰蝶を見据えた。

「へえ、女が総大将か」

隣に松永が居る状況で、なぜそれを見抜いたのか。気味の悪さを隠し、帰蝶も堂々と答える。

「いかにも……お主が織田の使者と言うのは誠か」

男が薄く笑った。かと思うと、腰の刀を投げてよこす。

「人払いを」

丸腰になるから、サシで話をさせろという意味だろう。大胆不敵な行動に、松永でさえ驚いて言葉を失っている。
危険は承知だった。だがこの男の話しを聞かねば、なにも始まらない。

「松永、下がって」
「危険すぎます」
「いいから」
「なりませぬ、私もお傍に」
「松永……これは命令です」

引くわけにはいかない。戦地に赴いてしまっているのだから。
誰も死なせない……絶対に。
帰蝶は心に固く誓って、もういちど低くつぶやいた。

「……下がれと言っている」

鬼気迫る表情。それは間違いなく、斎藤を率いる大将のものだった。
松永がぐっと唇を噛み、頭を下げる。

「なにかあれば、すぐに飛び込みます」

使者を一睨した松永が立ち去ってから、使者は地面に片膝を立てた格好で腰を下ろした。
手にした薙刀の柄を握りなおす帰蝶。

しばしの沈黙の後、使者は頭巾を一気に剥ぎ取った。

「なっ……お主」

まさか――こんな事があるのだろうか。
帰蝶の心臓は、落雷を受けたように衝撃を受ける。

目の前で、挑むようにこちらを見つめる男。帰蝶はその容姿と伝え聞いた記憶を、必死にすり合わせた。
頭上で無造作に結ばれた伸び放題の髪、切れ長で目尻の下がった意志の強い瞳、薄く引き締まった唇、そして上背の高さ。この男……噂に聞く信長の特徴そのものではないか。

「……もしや上総介殿か」

帰蝶の掠れ声に答え、男が口の端を上げて頷いた。

主君である信長が、敵陣にたったひとりで乗り込むなど、常軌を逸している。なにを考えているのだ。尾張統一を目前に、今、切られれば全てが終わりではないか。

「上総介殿は、本物の大うつけか」

帰蝶の言葉に、信長が声を立てて笑った。

「夫に向かってうつけとは、聞き捨てならんな」

そして捕らえた獲物を甚振るような目をした信長は、ゆっくりと続けた。

「ようやく逢えたな、帰蝶」


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