上 下
4 / 6

親の均衡

しおりを挟む
 


 カード差し込み口にカードを差し込むと、最初のドアが開く。

「おはよう、エコー」

 ここで彼女に挨拶をしないと通してくれない。拗ねるわけではない、そういう仕様なのだ。

 《おはようございます、今里光司管理官。Pカード、声紋、チップを認証しました》
 
 エコーは養育義務遂行施設の全般を取り締まる中枢AIだ。一部の業界を覗いて、官民問わずAIの経営導入は広く行われている。

 《本日は、浦島担当官は奥様が発熱されたためお休みです。相澤理子(あいざわりこ)担当官が育児休暇から復職します。挨拶、昨日申請した矯正官への報告のため、矯正官室へ移動してください》

 仕事に揉まれて相澤担当官の存在をすっかり忘れていた。最少人数で以て管理経営していく功利主義的監獄・養育義務遂行施設パノプティコン。だからこそ仕事や問題ごとが積み重なったとき、AIの力を借りてもなお人材不足を訴えたくなるが、それはパノプティコンの概念とは反する。

「相澤担当官は」

 《7分前に矯正官室に到着しております》

 相澤担当官が復職してくれるのはでかい。事務的な説明はできるが、彼女の復職によって男性に恐怖心を抱いている女性や子どもは彼女に任せられるだろう。ずっと男所帯だったから助かる。タブレット端末のフォルダーを確認して俺は矯正官室のドアをノックした。

「どーぞ」

「おはようございます。というかあなたの部屋じゃないんですよ」

 真っ白な長い髪を、その白髪で括った相澤が紙袋を持って「えへへ」と笑う。この手の髪型は相談者でも見るが、どういう仕組みなのだろう。髪留めさえ買えないから自分の髪で留めるのか、逆にコストや手間はかかるのか、さっぱりわからない。

「久しぶり、ワンオペならぬマンオペありがとうございました。これからママ、バリバリ頑張りますぉ」

 と紙袋を渡す。ガトーショコラがワンホール入っているくらい重い。めいと楓は喜ぶはずだ。

「髪色戻さなかったんですか」

 彼女は娘を出産したとき、一気に髪が白くなった。出産報告の写真を見たときには髪色はすでに明るく、日光か照明のせいだと思ったが、今は老婆のように真っ白だ。

「矯正官に叱られたら染める。まぁ、娘は髪色しっかりしているし、どうせ年とったら白くなるし、『娘のためにこの髪色になった』って苦労感出せば、相談者からも同情票もらえるかな、って」

「出馬するみたいな言い方ですね」

「家庭とのバランス取れなくなったら辞めるかも。そのときはまたマンオペお願いします」

「勘弁してください」

 《藤原(ふじわら)矯正官が30秒後にお越しになります。整列してください》

「おっと」

 30秒後、ドアが開いた。

「「おはようございます」」

「おはよう、相澤君もおかえり」

 藤原矯正官は逆に髪は染めたてで、黒々と艶めいている。

「体はもう大丈夫なのかな」

「はい、ばっちりです。長らく休暇いただきありがとうございます。娘の抱っこで筋トレも怠っていません。これ、娘の美波(みなみ)のプロマイド集とお菓子です。お菓子は娘が選びました。是非今後ともよろしくお願いします」

 どうりで重いと思ったら娘のプロマイド集が入っているのか。自分の娘のめいの可愛がられぶりを見て売り込みを試みたのだろう。藤原矯正官はにこにこしながら菓子の種類の確認より、プロマイド集を見て笑う。

「ははは、かわいいなぁ。口許は相澤君に似ている。今日、帰ったら家内にも見せよう。黄色い声をあげて喜ぶ」

 矯正官夫妻に成人した息子はいるが、非婚主義で孫がいない。だが矯正官も奥様も子供好きで、その代わりなのか、めいや浦島担当官の息子たちを疑似的な孫として可愛がり、手製のセーターをくれたり、ホームパーティーに呼んだり、祖父母のように接する。相澤の娘もねだればランドセルさえ買ってくれるかもしれない。めいの世界も今後広くなる。今度はその疑似孫に相澤の娘、美波が代わるのだろう。

「何かあれば遠慮なく言ってくれ。ここは家族と自身のバランスが取れなくなった人間が来る場所だ。務める職員がバランスを崩されては元も子もない」

「ありがとうございます」

 藤原矯正官は席に着いた。

「これで、矯正官の私に次いで、事実上説得力を持つのは、副矯正官ではなく、君たちになった。家族は家族、仕事は仕事、どんなに悲しい相手に対しても自分は自分なのだと意識して、しっかり臨んでくれ」

「はい」

「で、今里君、昨日私に報告申請をしたらしいな。内容は何だい」

「M0021、姫野慎一(ひめのしんいち)が勤務先の職員にパワハラを行ったため勤務先から自宅謹慎からの減給を言い渡されました。これによって姫野は辞職及びSNS動画配信収入業の着手を申請しています」

 パノプティコンは子どもの生活を金で償い、保証させるための施設だが、建築モデルをそうしただけで、外には出られる。入所の際に埋め込むオリジナルチップに加えて両足の電子足輪、骨電動イヤホン型電力拘束具をつけることで、社会での労働が可能だ。

 SNSは登録端末に改造されて受信は自由だ。個人的なやり取りも自由である。対世界発信規制はかけられているが、筋トレ指導やイラスト投稿などの動画配信収入業も許可されている。金になるときは金になる。懲役刑の仕事、木工や鋳鉄産業を馬鹿にするわけではないが、ここは稼ぐための施設だ。制約をつけてでも使えるキャリアや能力はバンバン使って稼いだほうがいい。社会に揉まれることによって能力の向上や価値観のアップデートも目的にしている。



 ただ家族といい関係が築けなかった人間が、他人といい関係が築けないことは少なくない。特にDV、モラハラなど警察を介して入所した強制入所者はそのタイプの人間が多くいる。



「21番は古参だな。支払いは?」

「入所5年目です。支払い計画は項目支払い、公立限定教育費及び住宅のローンで、現在22歳、19歳、15歳の娘がおります。学校内教育費支払いですが、女性蔑視思考に反骨して娘たちは自主的に勉学や教養に熱心に取り組んでおり、支払額は計算できません。長女は大学院を目指しております。また防犯カメラ及びレーザー遮蔽罰金、担当抗弁罰金も100万を超える可能性もあります」

 養育費には月額払いのほかに、項目払いというやりかたもある。月額払いだと親権者の生活費や雑費も混合され、親権者の養育費不正受給に繋がりやすいが、学費、医療費といった項目支払いとなるときっちり子どものための支払いとして、親権者側と非親権者側の話し合いが円滑に進む。教育機関からの請求書、病院からの請求書や領収書を提出すれば養育費はもらえる。だが人生は山あり谷ありで、病気にもかかれば、受験にも落ちる。夢も変わる。計算がしにくい。支払年数は子どもの成長と同じだけかかる。

 教育費とは学校教育費だけでなく、部活などの学校内活動費、塾や家庭教師といった学校外教育費、また留学や検定試験料といった学校外活動費、それらに必要な道具費なども含まれる場合がある。離婚調停で公立学校教育費限定まで持ち込んだのはかなり踏ん張ったほうだ。

 姫野の離婚そのものや離婚原因のモラハラは、犯罪や社内不倫とは違い、仕事に影響はなかった。離婚時に勤めていた企業に在籍していて大人しく仕事に励み、生活をしていたならもっと出所は早かったはずだ。というか養育義務遂行施設に入ることさえなかっただろう。だが、その企業もパワハラを原因に降格され、処遇に不満を覚えた姫野は退職届を叩きつけた。自宅謹慎・減給を言い渡した職場は姫野のキャリアを最大限生かせるはずと期待し、探し出した2件目だ。

「元パートナーからの教育虐待や不正受給の可能性は?」

「子どもの話を聞いたソーシャルワーカーの報告からそれはないと考えられます」

「ローン対象の住宅に親子は在住しているか」

「はい」

「動画のコンセプトは?」

「養育義務遂行施設パノプティコンの実態です。書面で企画書が提出されましたので、画像に落とし込み、矯正官のタブレットと共有しています」

「前に似たような申請者がいたな」

「あれは自身の文字媒体エッセイ、実質は日記です。姫野の動画には、他の入所者の事情や感情のインタビューを取り入れたいと企画書にありました」

「なら却下だ。姫野やそのインタビュー相手の元パートナーが一所懸命に振り切ろうとしているものを思い出させることは許さん」

 あの女はそんな男とくっついたから、子どもが不幸になっている。特定やセカンドレイプに繋がりかねない。

「了解しました。姫野に伝えます」

「姫野は現在どうしている?」

「木工作業場に移動させ、端材の継ぎ合わせ作業をさせています」

 強制入所者は結局懲役刑受刑者と同じ道を辿ることが多い。外には出せない。継ぎ合わせた端材は成形され、内装材や調度品の素材になる。それで作った調度品、机や椅子を矯正展に出しても、指導員の指示に従った所詮素人のDIYだ。大した値段設定にはできない。

「本日取り掛かるべき新案件がないなら、今里君は姫野の面接を、相澤君は監視官との引継ぎと女性入所状況の確認、入所者の購入履歴、相談予定案件があれば今里君と調整をよろしく。以上」

「「了解しました」」



 *



「姫ちゃん、まだいるんだね」

「長い付き合いになりますよ、あれは」

 姫野の態度や娘の進路次第では終身刑にもなりかねない。現在の女性入所者のリストを相澤に送る。女性の入所者はそもそも少ないし、強制入所者はもっと少ない。割り切りができるからすぐ養育費振込実績が達成できる。仮出所が早い。羨ましい。

「総理大臣が女性なのに、ああいう女性蔑視は消えないね」

「女性だって男性蔑視するじゃないですか。下半身で物を考える、とか、夫という字をひっくり返したら¥だとか。代わっていただけるなら代わってほしいです」

 実際相談者から飲み物と一緒に投げつけられた言葉だ。そのときは女性のソーシャルワーカーが同席していて錯乱した女性パートナーをなだめてくれたから、とりあえず対岸の火事だと流せたが、妻の楓に言われたなら自分は職場の夜勤室で寝て、しばらく家に帰らないだろう。

「その手の女性は私が担当するからさ、私は姫ちゃんの相手はできないからさ」

 フィジカルか、それとも歴史か。制度はたくさん変わったのに、ニホンオオカミよりも人間のメスのほうがまだ生き残っているのに、どうしてこうもバランスがとれないのだろう。自分が、妻の楓が年上だったり、同僚の相澤が年上の女性だったりと、自分と同等かつ上位的女性に絡むことが多いだけか。

「実情半官半民な側としては、警察が噛んでいるなら強制入所者は刑務所に行ってくれないですかね」

「それな。じゃ私は監視員の皆さんに愛娘の布教にいってきまぁす」

 困ったときはお互い様だ。それこそ家族や子どもを持つ身なら。

 養育義務遂行施設は日本に4か所あるが、最小限の人数で回されるパノプティコン業界で所帯持ちはごくわずかだ。陰で変態とすら呼ばれる。皆、入所者を監視しているうちに結婚と子を持つ結末に希望が持てなくなるからだ。娘の布教が終わったあと、出産のために髪の色が抜け、顔つきの変わった相澤担当官は「よくやるわ」と嗤われるだろう。

 だが、結婚して子供を持ち一歩間違えれば入所者になるその変態にしか、担当官は務まらない。


 *


 大きな円形に繋がっている廊下を歩いていると、カンガルーのロボットが3体並んで、体毛と同じ色のワゴンを押しながら滑るようにやってきた。

 《おつかれさま》

 《たんとおたべよ》

 《おいしいよ》

 養育義務施設に食堂はない。食事を行う場はレーザーと監視員の目が光る各居室だ。皆が皆、それぞれのライフサイクルで食べて寝て稼いでいる。そのため食事の時間もまちまちで、ウェイターロボットが巡回している。カンガルーの巡回販売ロボットの口調はたどたどしく威圧感を一切感じさせない。ワゴンの中には様々な種類の弁当や飲料、ちょっとした菓子などが入っていて、各部屋で、Pカードで支払いをして栄養補給をする。養育義務遂行施設が刑務所ならざる所以のひとつだ。

 ここは養育費を稼ぐための施設で、どんな仕事をしていようが収入の半分は養育費として差し押さえられる。自由に使える金額はそのもう半分だ。気が塞いで働かないのは結構だが、それでは食い扶持も入れられない。餓死したくなければ結局働かなくてはならない。実情、餓死寸前までいけば税金で仕入れた輸液を施すのだが。

 どこの作業場もいつも金属音がうるさい。外で働く気概があり、精神が安定している人間は外で、内で働ける人間は内で働く。内なら農耕、木工、鉄工、洋裁、とりあえず最初は入所者自身で選べるが、監視官や指導官、エコー、担当官はいつも勤務態度や適不適を視ている。

 姫野慎一、49歳、入所5年目。年齢からして退職届を出せば、外部での再就職は難しい。元妻はスーパーの総菜部門でフルタイムパート。女性蔑視の日常的発言、性行為の強要。また子どもの前で3子連続して女児を産んだことへの叱責、家事に粗があれば2時間正座させて説教。ストレスによって難聴症状を感じた妻はメニエール病の診断を受け、子ども3人を連れて、妻の実家に逃亡する。姫野慎一は妻の実家に押しかけ、近所宅にまで加害し、器物損壊罪、恐喝罪、脅迫罪で警察に逮捕された。その後、離婚協議が行われ、弁護士と警察の依頼によって、強制入所となる。面接はなし。接近禁止命令あり。

 パワフルだな、と思う。妻へのモラハラも職場でのパワハラも、直接的暴力ではなく、暴言や威圧的なふるまいだ。こういううるさい場所で作業に打ち込むのが彼の適職なのかもしれない。木を切ったり、鎚で木材を叩きはめ込んだりするのはストレスの置換発散にもいいだろう。

 休憩の号令が発されて、姫野へと近づく。

「姫野さん、動画配信収入業の企画を申し出たが、却下されました」

「ちゃんと伝えたんですか」

 汗をタオルで拭いながら、不服そうに睨みつけた。

「企画書は画像ファイルで共有しています。面接に応じてくれれば却下要因も教えますし、代替案や今後の考え方について話を聞きます。次の休憩まで働きますか?」

「いや、集中できそうにない。ここで中断する」

「わかりました。指導官に挨拶をしてください。面接室へ移動しましょう」

 木工は集中を欠けば事故になりかねない。本人がそう言うならそうしよう。姫野は指導官に退勤の挨拶をすると、指導官に金属探知機で体を精査され、解放された。

 面接室に通すと不遜に椅子に座った。

「で、何が悪かった?」

「他の入所者の事情や感情のインタビューは、そのインタビュー相手の元パートナーや子どもに迷惑をかけます。こういう場所ですから吐き出したいものや共有したいことはあるでしょうが、他人を巻き込むのなら認可はできません。自身の入所経験をルポルタージュとして文字媒体で発行した前例はあります。そのやりかたは嫌ですか?」

「嫌だね」

「動画にこだわるなら出所後に配信をすることをお勧めします。やり切った後なら動画にも称賛の声で溢れるでしょう」

 姫野はあてつけがましく舌打ちをした。動画収入での一発ホームランが叶わないなら自分が出所できる自信がないのだろう。

「養育義務遂行施設の紹介特集はテレビの報道や、今では社会の授業でも性教育をし、その一項目として養育義務遂行施設を取り上げています」

 かつて性教育は保健体育の授業で行われていた。それが性交は家庭と大きくつながるものとし家庭科で、現在は社会でも養育義務の紹介とともに性教育を行っている。

「弁護士に問い合わせたり、ネットで調べたりすれば施設の入所の流れやシステムはわかるし、役所でも矯正展でも資料の配布をしています。それ以外の何を伝えたいんですか」

「テレビの報道や、あんたらが発信していることなんて社会ウケのする上澄みだけだろう。そんな偏った情報じゃなくて、ここは人類が作った地獄で、そこで理不尽に苦しんでいる雄がいるっていう汚泥の部分を俺は発信したいんだ」

 女性で経験の浅い相澤担当官では相手はできなかった。ただ養育費とローンを生真面目に払うか、もっと遡れば妻と娘に礼節を払い、大事にすればよかっただけの話だろう。

「理不尽だと思いますか。女性の入所者もいらっしゃいます。ここに入所される女性は優秀ですよ。物事を割り切ってすぐに稼いでくれます」

「ただ考えることをやめて、社会に従っているだけだろ」

「それが入所するということで、出所するための最短ルートなんです」

「ずっと俺の世話も感謝もない、嫁と娘に搾取され続けるなんて地獄以外の何物でもない。『結婚が人生の墓場』とは昔の人もよく言ったもんだ。金を稼いでも半分取られて何のために稼いでいるかわけわからねぇっての」

 シャルル=ピエール・ボードレールの『悪の華』の一説だ。だがあれは「伴侶と死ぬまで添い遂げる」という意味で、「結婚したが最後、幸せになれない」という意味ではない。フランス人は宗教的に結婚に意味を重く置いている。

「何のためって、養育費と家のローンでしょう。外で暮らしている妻子持ちも同じことをしています。ここにいる理由と期間は刑務所より明確です。あなたは警察を介して入ってきた強制入所者です。刑務所じゃ半分も残らないし、懲罰だってある」

 姫野は喉をかきむしる。

「姫野さん、態度を改めてください。担当抗弁やレーザー遮蔽もそうですが、勤勉に稼がないとここを出られない。養育義務遂行制度は国民すべてを責任ある社会人とみなし、社会福祉に目を向けた資本主義に、いたって忠実な制度なんです」

 養育義務遂行施設の設立とその内容が発表されたときは、女性層から多くの支持を得たが、男性からは反感を買った。その多くが非婚主義者及び結婚活動を行っている若い独身の男性だった。「結婚して一人前」から「結婚したほうがいい」、「結婚したい」という結婚に対する価値観を更に大きく変化させるポイントとなった。

「その搾取先と、更なる搾取先である子どもを作ったのは、他でもないあなたなんですよ」

「あいつらは俺の子じゃない、あのクソ女がよそで作ったんだ」

「DNA鑑定が姫野さんと娘さんを生物的に親子と保証しています」

「フェミニズムに侵された日本が、アンチな俺を閉じ込めようとしているんだ!」

 と姫野は左手をまた首許へやり搔きむしる。

 否認の次は陰謀論か。右手もまた首に近づいた途端、ぶしゅっと血が噴き出した。



「え」

 首の右側に刺さっていたのは鉛筆だった。




 なんで、金属探知機が作動しなかったのに。

「緊急通報、緊急通報!今すぐ救急にかけてくれ!」

 がぷっ、と姫野の口から血がこぼれた。この杭を抜いたら死ぬ。金属探知機と、自分が攻撃される可能性はまだ考えていたが、どうして気づけなかった。

「姫野、絶対抜くな、絶対抜くなよ」

 と姫野の手ごと押さえつける。

 《はい、119番消防です。火事ですか、救急ですか》

「救急車をお願いします。千葉の養育義務遂行施設までお願いします」

 《意識・呼吸はありますか》

「意識・呼吸あります」

 《病気ですか?怪我ですか?》

「男性49歳が自分で鉛筆を首許に刺しました。首の傷と口から出血しています。すぐに救急車をお願いします」

 《お話はできそうですか》

「こっちの声は聞き取れるようですが、向こうが話すのは難しそうです」

 《かかりつけの病院はありますか》

「ありません!」

 消防とのやりとりの羅列が煩わしい。

 衣服での首吊による獄中死は何度も見たことがあるが、それらはすべて死後で、目の前での自殺は初めてだ。そうだ、ここは地獄だ。だがそれは解釈の問題で、努力すれば出られる施設だ。どうして今死ぬ必要がある。

 扉が開く音がして、来るには早すぎると、手に力を込めたまま、振り返った。

 そこにいたのは矯正官だった。

「おつかれさま、今里君」

「申し訳ありません。姫野が自殺を図りました。今、救急車の到着を待っている状態です」

「うん、知っている。話の流れも。君の仕事を信用しなかったわけではないけれど、カメラと音声で覗いてはいたんだ。だってここはパノプティコンだからね。みんなずっと視ているよ。救急車が来たら正門に配置した監視官がすぐ案内してくれるから」

 そう言って血だまりに革靴の足を踏み込み近づく。

「M0021姫野が君か。入所以来の後にも何度か会っているね。君が言う地獄の獄卒の一人だ。企画書見せてもらったよ。話せるようになったらまた詳しく教えてほしいんだが、君が言う『パノプティコンの実態』とは何かな。ジェレミ・ベンサムが考案した監獄のモデルのことか、それともそのモデルを養育費未払者に当て嵌めながら『刑務所ではない』と言い張っていることか?カンガルーロボットが上げ膳や日用品の供給をしてくれることか?」

 藤原矯正官は慌てることなくしゃがみ穏やかに問いかける。

「前者なら、社会学の本を漁れば済むことだし、後者ならそれこそ今里君が言ったように役所か矯正展で問い合わせればいい。だが、まぁせっかく興味を持ってくれたならもう少しだけ話をしよう」

 姫野の瞳孔がぐりぐり動く。矯正官の声は聞こえているようだ。

「昔、ある国会議員が、政治家専用のクラブに連れていかれてね、随分と若いキャストをあてがわれたらしい。未成年くらいに若く、接客はこまやかだったが、帰り際に体と金の関係を持ち出された。週刊誌のハニートラップか他党の差し金かと、とりあえず断ったが、話だけは聞いてみた。女手一つで幼い息子を育てなくてはいけない、という当時ならどこにでも転がっていそうな話だ。父親はどうしたのか、と訊くと、強盗事件を3件起こしたらしい」

 被害具合や容疑者の背景にもよるが、強盗3件ならそれこそ刑期10年前後か。

「でも奇妙で不公平だと思わないか。なんだか勿体ないと思わないか。刑期という長い時間を確保されているのに、被害者や遺族への償いは確定された刑罰として、身内に対する適切な償いがされていない。無罪で社会を歩く男はどうだ。どうして人生というもっと長い余命があるのに適切な償いを怠るのか」

 ぐぷ、ぐぷと血がこぼれる。救急車はまだ来ないのか。どうして矯正官はこんな話を滔々と聞かせている。

「2020年に国内初で明石市男性市長が不払養育費立替事業を始めた。それでもたかが一自治体の事業だ。母子家庭の7割が養育費未払という問題にぶつかっていた。すぐ後に大きな感染症が流行って、そのクラブもなくなってキャストは行方知らずになったが、その国会議員は『迫害された者』として男女問わず同じ境遇の人間のために、法律を考え続けた。その議員が『養育義務遂行制度』にゴーサインを出した3代前の内閣総理大臣である沖謙太(おきけんた)、今の内閣の総理大臣、沖一華(おきいちか)の父だ」

 沖謙太の政策は、女性サポートより男性サポートのほうが手厚かった。男性保護シェルターの確立、セクシャルハラスメントの男性用窓口。男性を擁護する施策が次々行われた沖謙太内閣は最初女性からの非難のほうが大きかったくらいだ。男性優遇政治だと言われていた。

 その娘、沖一華が総裁選に臨んだとき、他の2世3世議員は先代の威光や応援演説を行うのを避ける中で、政治家としては年若い沖一華の場合、積極的に父が前に出た。

 私は一華に、人として、また政治家として、私が持ちうるすべてを叩き込みました。だが、まだ一華はこの国の幸せのために、国民の皆様とともに学ぶことが多くあるでしょう。

 学習中のAIみたいな売り文句で応援される彼女は、父の傀儡、そもそも人間ではないのではないか、とも噂されたこともあった。だが沖一華は女だ。男たる沖謙太が男性優遇政治をしたのなら、沖一華は女性に優しい政治をする、と公言した。実現してくれるのかもしれない、女性初の総理大臣は女性の社会進出を促してくれるかもしれないという期待が膨らんだ。そして沖謙太の娘が総裁選に勝利した。

「もう養育義務遂行制度が確立して5年経つ。それが染み込んだ今だから、現代をこの地獄を作ったのは『女の女による女のための社会』と『情報弱者』に勘違いされているが、踏み切ったのは、実は、皆、男だ」

 情報弱者という単語をあえて強く発し、藤原矯正官は首に刺さった鉛筆を指でつついた。

「もうね、男性とか女性とかでくくらない時代なんだよ。男も女も皆弱い。だから強くなったものが、賢くなったものが、事を成し遂げ生き残る。私は沖一華にお会いしたよ。彼女は正真正銘、沖謙太が持ちうる全てを注ぎ込んだ人間、沖謙太の上位互換だ。ここに沖一華がいたら君は彼女を殺せるよ。だがその前に君が死ぬか、彼女が正当防衛として君を殺す。彼女は空手の黒帯持ちだ。首に鉛筆が刺さった死にかけの君が、彼女に、この国に何ができる?」

 姫野がぐるんと白目をむいた。その問いかけに姫野は答えなかった。呼吸も止まり、瞳孔は開いている。脈もない。

 今度は勢いよく扉が開いた。

「救急です!救急要請者はどこですか!」

 襟首を藤原矯正官に引き掴まれ、ようやく血だまりから抜け出せた。それでも靴が床に血を引きずり、スーツは血だらけで楓にクリーニングに持っていかせるのは申し訳ない。

「3日間休暇を与える」

 今日が火曜日だから水木金と休んで土日を合せて5日間の連休になる。

「----自宅待機命令ですか?」

「有給消化だ。相澤君も帰ってきたし。病院に行ったところ浦島君のパートナーは熱も落ち着いたらしい。出勤禁止感染症ではなかったらしいから、明日からは出てこれると連絡がきた。避けられるに越したことはないけれど、担当官なら辿る道だ。姫野といい私といい、身勝手な男の話を聞くのは疲れただろう」

「すみません」

「とりあえず姫野が鉛筆を刺す前、陰謀論を訴えるまでの映像と音声データを君に渡した。そこまでの報告書を仕上げてくれ。今日文章に起こさないと防衛機制で歪んで忘れてしまう。それができれば直帰していい。そこから先のデータは私が警察と上部に直接提出する」

 監視官にシャワー室へ着替えを用意させておくから、と言われ、血塗れのスーツのまま、タブレットを確認した。面談の映像のラストが陰謀論を訴えるところで終わっている。仕事が早い。

「なぁ、君の面接からここまでの一連を動画にしたら金になると思うかい?」

 噴き出す血で、規定により動画は消去される可能性が高い。

「---いいえ」

「なら却下の判断は正しかったな。君がシャワーを浴びて、仕事を終え、家に帰り着く強さがある人間だと信じているよ」


 *


「パパ、おかえり、私よりも早いのめずらしいね」

「ああ、おかえり。----手を洗ってうがいをしたら、藤原のおじいちゃんから、科学の、元素の図鑑をもらったことがあるだろ。ちょっと貸してくれないか」

「水平リーベみたいなやつ?」

「よく覚えたな」

 めいは手洗い場に行くと言ったことを済ませ、しばらくして厚い図鑑を2冊持ってきた。そのうちのビジュアル性の高い図鑑をめくる。

 グラファイト、黒鉛。炭素の成分を持つ鉱物。通電性、金属光沢をもつが、金属ではなく、硬度はダイヤモンドを10とすると1~2に相当する。

 弱い。でもそうじゃないと鋭利に、好まれる形に削れない。

「金属じゃ、なかったのか」

 金属偏がついた名前だから金属だとずっと勘違いしていた。入所者のほとんどは入所期間の差はあれど、生きて外に出る。それは家族を抜けた親の責任を果たしたということだ。

「勘違い、だったかな」


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ワイルド・ソルジャー

アサシン工房
SF
時は199X年。世界各地で戦争が行われ、終戦を迎えようとしていた。 世界は荒廃し、辺りは無法者で溢れかえっていた。 主人公のマティアス・マッカーサーは、かつては裕福な家庭で育ったが、戦争に巻き込まれて両親と弟を失い、その後傭兵となって生きてきた。 旅の途中、人間離れした強さを持つ大柄な軍人ハンニバル・クルーガーにスカウトされ、マティアスは軍人として活動することになる。 ハンニバルと共に任務をこなしていくうちに、冷徹で利己主義だったマティアスは利害を超えた友情を覚えていく。 世紀末の荒廃したアメリカを舞台にしたバトルファンタジー。 他の小説サイトにも投稿しています。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

ビキニに恋した男

廣瀬純一
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...