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9話

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「あ、ぶつかる」

 のんきな男の声。
 ぐんぐん近づく黒い影。
 そういえば、奥に行けとノクスは言っていたではないか。
 だが、セレネは不測の事態でまだ窓の近くに立ったまま。

 ぶつかるというのは、間違いなく自分とノクスが正面衝突するという事で――とても痛い未来を想像し、セレネははたまらず目をつむる。

 ――だが、想像していた衝撃はいつまでもこなかった。
 かわりに、なんだか温かいものに包まれていて、不思議に思う。

「姫は意外と鈍くさいな」

 ノクスの声が、かなり近くで聞こえたことで、セレネはぎょっとして目を開けた。

「きゃあ!」

 思わず悲鳴が口からついて出た。

「人の顔を見るなり悲鳴をあげるなんて……ちょっと傷つくぞ」
「だ、だって、貴方、どうして」
「どうしてって、あんたが逃げないから、ぶつかる所だっただろ。怪我をさせるのは嫌だから、こうして抱き留めたんじゃないか。――褒めてもいいぞ?」
「離して!」
「なぜ?」

 至近距離でセレネを見下ろす男は、顔をしかめた。
 それはセレネの叫び声がうるさかったから――ではなく、離せと言われた事に対する不満の表れのようだ。
 現に、腕の力は緩むどころか、強くなっている。

「今あんたを離したら、そのままズルッと床に落ちて頭を打つぞ。そしたら、痛いだろ、だから、離さない」
「頭なんて打ちません!」
「あんたが鈍くさいってことは、数秒前に判明してる。見栄を張るのはかまわないが、俺しかいないのに、強がる必要はないだろう。あと、早く褒めろ」
「だから、顔を近づけてこないで!」

 この男、目つきは悪いが顔の造作は非常に整っている。
 元々、他人とふれあう機会が薄かったセレネだ。
 異性と、息もかかるような至近距離ともなれば、もはや焦りと混乱で、セレネは必死に押しのけようともがいた。

「……そんなに嫌か?」

 間近に迫った顔が、置いてけぼりを食らった子どものように寂しそうな表情を浮かべた。

「あんたが、心底嫌だというのなら、命令しろ。そしたら、オレは今すぐあんたを離す」
「……嫌、というか……。ただ、少し離れて欲しいだけで……」
「嫌じゃないのか?」
「そうやって、ぐいぐい顔を近づけてくるのはやめて下さい!」

 少し迷いを見せれば、パッと顔を明るくして迫ってくるノクスに、セレネは再度悲鳴を上げる。
 すると、ノクスはようやく止まった。

「そうか。顔を近づけなければ良いのか!」
「……あと、もう自分の足で立てるので、手も離してください」
「オレの支えがあった方が、危なくないぞ」
「子どもではないのですから、平気です」

 セレネが言うと、ノクスは不思議そうに首を傾げた。

「これは子ども扱いじゃないぞ。お姫さま扱いだ」

 ともすれば、歯が浮くようなキザな台詞だ。しかし、相手は真面目に言っているのだろう。だからこそ、質が悪いとセレネは頭を抱えたくなる。

「あんたは姫だ。たったひとりのお姫さま。――だから、大事に扱うのが当然だろう」
「……それも、あの方の……陛下のご命令ですか?」

 思わず口をついて出た言葉は、自分の想像していたよりもずっと、冷たく響いた。
 現に、ノクスが目を丸くしている。
 しまったと思っても、もう取り消せない失態だ。セレネは思わず顔を背けた。

「……おかしなことを聞いてしまって、ごめんなさい。答える必要はありません」

 ノクスは王の使者として、自分をエルド島から連れ出そうとしている相手だ。
 命令以外の、何があるのだと自嘲したくなる。

「答える必要はない、か――それは、命令か?」
「え? いえ、そんなつもりでは」
「それなら、助かる。命令ならオレは口を噤まなくてはならないところだった。――姫、ひとつ、ハッキリさせておこう」

 近づくなと言ったはずなのに、整った顔が先程よりもずっと近くになる。
 鼻先が触れるほどの位置で、ノクスが口を開いた。

「オレに命令できるのは、世界でたったひとりだけだ」
「……存じています」

 王命を果たすため、彼はここに来たのだ。
 どこまで真実を語っているのかは分からないが、少なくとも「王に命じられた」ことだけは確かだろう。

 ノクスに命令を下すことが出来るのは――彼を動かすことが出来るのは、遠き王都にいるセレネの父のみ。
 命令を果たすために、ただの小娘である自分のご機嫌取りに終始しなければいけないのかと思い至ったセレネは、ノクスの真っ直ぐな視線から逃れるように目を伏せた。

「本当に分かっているのか?」
「はい、充分過ぎるほど」
「そうか! それならば、安心した」

 パッと笑ったノクスが離れていく。同時に、しっかりと回されていた腕も解かれる。

「あんたが、ちゃんと理解してくれているのなら、言うことなしだ」

 晴れやかな笑み。
 それは、煩わしさが減ったことへ対する喜びだろうか。

「どうか、忘れてくれるなよ、姫」

 ――姫。
 懐かしい呼称は、上滑りしていた自身を戒めるように、セレネの心に突き刺さった。
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