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15話「死に至らなかった病」

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              中村なかむら 和樹かずき 二十七歳



 後三時間で俺は死ぬ。

 思っていたより、ずいぶんと早かった。

 俺は自分が死ぬことを事前に知っていた。

 誰だっていつかは死ぬ。人生の終わりはどう足掻いても、死によって締めくくるしかない。それなのに、多くの人がその事実から目を背けて生きている。誰もが明日が訪れることを信じて疑わず、未来を見据えて今を消費していく。

 そんな者たちが得意顔で言う。

「止まない雨はない。明けない夜はない」

 それはきっと事実だろう。でも雨が止んだとき、夜が明けたそのとき……俺がまだ生きているとは限らない。

 それに気づいたとき、俺は希望を捨てた。未来に夢を見るのは諦めた。そしてもっと別の選択をした。俺は風の強い雨の日も、暗い夜も楽しんでやることにしたんだ。

 だから今、世界の終りに俺は考える。

 残りの三時間でどう死ぬのかではなく、どう生きるのかを。この三時間をどうやって楽しんでやろうかと。

 俺がこう考えるようになったのには理由がある。

 俺は不治の病に侵されていた。ALS、筋萎縮性側索硬化症。少しずつ筋肉が衰えていき、最後は呼吸筋麻痺によって死に至る、発祥する理由も治療法もまだ見つかっていない病だ。

 体の異変に気がついたのは社会人三年目、二十五歳のときだった。

 その日俺は仕事から帰ってきて、自宅の玄関の段差で転んだ。その出来事だけを切り取ってみれば、たいしたことではなかったかもしれない。しかし俺にとってそれは明らかな、目に見える異変だった。

 数ヶ月前から右足に小さな違和感があった。力が入りづらいというか、反応が少し鈍い。そんな感じだった。営業マンだった俺は外回りで遠出することも多く、疲れが溜まっているだけだと思っていた。そう考えて休みを取ったり、マッサージをしたりといろいろやってみた。しかし右足はいっこうによくならなかった。それどころかその違和感は日に日に大きくなっていった。それでも痛みを感じるわけではなかったので、さほど気にはしていなかった。

 しかし段差で転んだとき、ことの重大性に気づいた。俺は右足を動かすとき意識していた。段差を上るとき「さあ、右足を踏み出すぞ」と、そう強く意識して一歩踏み出したのだ。それなのに、俺の右足は望んだ場所に届かなかった。

 病院に行くことにした。初めに行ったのは近所の整形外科。しかし特に問題は見当たらず、次は神経内科のある少し大きな総合病院へ。その後もいくつか病院を転々とした後、やっと俺についた病名がALS。

 病名を知ったとき、俺は自分の境遇を呪った。とても珍しい病だ。なぜその病は、よりによって俺を選んだのか……自分の運命を嘆いた。

 そしていつか訪れる死を恐れた。

 ALSは治療法のみつかっていない、必ず死に至る病だ。進行速度は様々で発症から二年で死んでしまう人もいれば、十年以上かけてゆっくりと進行し、死に至る人もいる。しかしこの病が直接俺を殺すわけではない。ALSは俺から奪っていくのだ。生きる力を……少しずつ。

 まず俺が奪われたのは右足の自由。そして次に右手。そうやってこの病は少しずつ、俺から身体の自由を奪っていった。そうしていつの日か俺は全身動かせなくなり、喋ることすら叶わなくなる。そして最期は呼吸する力まで失って死に至る。そのことを想像すると、恐ろしくてたまらなかった。日々が過ぎていくことが、恐怖でしかなかった。いつからか朝目覚めると、自分の体が動くか確かめるのが日課になっていた。

 未来は真っ暗な闇に閉ざされていて、希望なんてなかった。俺に出来ることは、着実に近づいてくる死へと向かって進んでいくことだけだった。

 そんな状態だった俺は、とりあえず仕事を辞めることにした。未練なんてこれっぽっちもなかった。元々望んで就いた仕事ではない。本当は本が好きで出版社で働きたかった。しかし就職活動はうまくいかず、やっと内定をもらえたのは小さな印刷会社。しかも本の印刷はやっておらず、請負っているのは広告やチラシのようなものばかりだった。

 俺は社長に病気のことを話して退職願を出した。社長はすごく親身になって俺の話を聞いてくれた。そして言ってくれた。

「もし他にやりたいことがあって辞めるならそれでいい。こんな状況で仕事なんかやってられるかって、辞めるならそれでいいんだ。でももし、私たちに迷惑がかかるからだとか、今までと同じように仕事がこなせないから辞めようっていうんだったら、その必要はない。うちは小さな会社だ。私は君の採用を決めたとき、新しい社員として君を雇い入れたというよりも、新しい家族として向かい入れたつもりだ。家族は助け合うものだよ。君は君が出来る範囲でうちに貢献してくれればそれでいい」

 結局俺は、仕事を辞めなかった。今日まで出来る範囲で続けてきた。

 俺がALSになったことを家族に伝えると、母はすぐに実家を売り払って、俺が住んでいるマンションに引っ越して来てくれた。社会人になってからほとんど連絡をとっていなかった姉と兄も頻繁に会いに来てくれた。

 家族だけじゃない。地元の友達もこっちで出来た友達も、みんなが優しくしてくれた。

 俺は病気になってしまったけど、たくさんの優しさに包まれて幸せだった。でもこの幸せは病気になったから手にすることが出来たものじゃない。俺は病気になる前からこの幸せを持っていたんだ。病気になって、初めてそれに気がつくことが出来た。

 それはまるで大好きな青い鳥の物語みたいだった。

 青い鳥……それは幼い兄妹が幸せを授けてくれるという青い鳥を求めて旅に出る物語。兄妹は様々な世界を旅するが、青い鳥を持ち帰ることは出来なかった。しかし家に帰ると、そこに青い鳥はいた。兄妹は互いに顔を見合わせると、笑顔を浮かべて言った。「幸せの青い鳥は、僕たちの家にいたんだ」幸せを求めて旅をし、幸せはもうこの手の中にあったことに気づく、そんな物語だ。

 物語と同じだった。初めから幸せは俺の手の中にあった。幸せの中で生きていたから、それが当たり前で気づかなかっただけだった。だから俺は未来に幸せを求めることを止めて、今ある幸せをめいっぱい享受してやることにした。

 俺はそうやって今日まで生きてきた。ALSになって二年。俺はもう自分の力だけでは歩くことが出来ない。それでも幸せだった。

 そしてもうすぐ世界は終わるという。結局俺は病で死ぬことはなかった。それどころか俺だけが特別に不運に見舞われたと思っていたのに、死は平等に全ての人に降りかかる。

 俺は逆に運がよかったのかもしれない。俺だけが特別に早くから死と向かい合う時間を与えられた。皆はたった三時間で自分の死を受け入れなくてはならないのに、俺には二年もあった。とっくに死の覚悟は出来ている。おかげで俺は、この最後の三時間も可能な限り楽しむことが出来る。

 そうはいってもたった三時間だ。やれることはあまり多くない。驚くほど前向きでマイペースな母は世界が終わることを知ってすぐ、俺のことなんかそっちのけで先日届いたばかりの大好きな海外ドラマのDVDの続きを見始めた。後四話で終わるので三時間あればぎりぎり見終わる算段だ。

 俺も続きが気になっていたし、母に付き合うことにしよう。世界が終わるからといって、特別なことをする必要なんてない。

 ただ、目の前にある今を楽しめば、それでいい。
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