夕闇に紅をひく

青森ほたる

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憐の過去

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 指先、足先が凍っているみたいに冷たくて感覚がない。全身が重く、ずきずき痛む。目の前が真っ暗で、何も見えない。

「憐さん……憐さん」

 僕を呼ぶ声が遠ざかっていくような気がする。

「やだっ、やだ、一人にしないでッ」

 声を出したつもりだったが、闇に吸い込まれて消えていく。手を伸ばそうと腕を持ち上げたいのに、指一つ動かせない。

暗いのは、怖い。
一人も、怖い。

「置いていかないで…っ」

 暗い部屋に一人でいたら、自分がそのまま消えてしまいそうな気持ちになる。天井が低い部屋にいくつも並んだ硬いベッドで、隣に寝ていた女の子が、お母さんがいつか迎えに来てくれる、と寝る前にいつもつぶやいた。

それなら……母親の顔も父親の顔も知らない僕は、一人で死ぬんだと思った。

誰にも見つけられずに、一人きりで死んでいくんだ……。

 その日は雨が降っていた。雨の所為で施設の狭い建物の中で遊ぶしかない子どもたちの走り回る足音と、騒がしい声。

僕は施設長から呼び出され、暖房の効きすぎた部屋でソファの上に膝を抱えて座っていた。

この部屋だけは夏は涼しくて、冬は暖かい。ほつれたセーターの袖をいじっていると、部屋の扉をノックする音がした。

ようこそいらっしゃいました、だの、遠いところわざわざ、だの、甲高い声で施設長のおばさんが出迎えたのは、焦げ茶色のスーツを着た背の高い男の人だった。

「ご希望の子は、そこに」と、施設長が僕を指差して、男の鋭い視線とぶつかって目をそらす。

「ずいぶん、小さいようだが、本当に十歳か」と尋ねる男の低い声に、明らかに動揺したような声色で「勿論です」と繰り返す施設長の声がかぶさる。

僕は自分の歳だけは正確に覚えている。親の顔もどこで産まれたのかも知らず、教えられたのは赤ん坊だった僕がここの施設に捨てられていた日だけ、その日が誕生日だ。

五歳までは、年少組扱いで、ご飯の量が今よりもっと少なかった。十歳になると年長組扱いで、今よりちょっとだけご飯が増えるはずだ。

「僕、七歳だけど」

 僕が呟いたら、施設長がさらに慌てたように騒がしくなった。もしかしたらマズいことを言ったのではと思ったがどうすることもできず、ただ施設長の捲し立てるような声を聞いているのが辛くて、俯いて両手で耳を塞いでいた。

 目の前が影になって顔をあげると、男の人が僕を見下ろして立っていた。

切れ長の黒い目と、男の人なのに束ねて前に流した長い黒髪。「立て」と、その人に命じられて、ふらふらと立ち上がる。

「ついてこい」と、歩き出した男の人の後ろを慌てて追いかけた。

細い廊下を時々男の人は立ち止まり。ついてきているか確かめるように振り返ったが、歩幅の狭い僕にしびれを切らしたように途中で僕を膝から抱き上げた。

いきなり抱え上げられ驚いて声も出なかった。自分の記憶にあるかぎり、誰かに抱いてもらったのはそれが初めてだった。

「椿、このまま車を私の家まで。龍也のところへは明日連れて行く」

 雨の中施設の門を抜けて、道路に停めてあった黒い車に乗せられた。僕を抱き上げていた男は僕の隣に座り、運転席からは鈴の音がして車は走り出した。

雨粒のつたう窓ガラスの先の灰色の施設の建物が、どんどん小さくなってじきに見えなくなった。

 大きなお屋敷に僕を連れて帰った男の人は、まず僕をお風呂に突っ込み、自分も泡だらけになりながら僕の身体を洗ってくれた。

そして今まで着たことのない柔らかい生地の和柄の浴衣に着替えさせたが、両手がすっぽり隠れるほど大きく、裾を引きずるほどだったので男の人は僕に歩かせることを諦めて、家の中もずっと荷物を担ぐように肩に抱き上げていた。

「お前の名前は今日から憐だ。私の名前は、秋彦。お前の雇用者だ」

 秋彦はそれから硬い口調で話し始めたが、僕には難しすぎて途中から瞼が重くなりいつの間にか眠ってしまう。

目が覚めると施設のものとは比べものにならないほど大きくて広いベッドの上に運ばれていた。

朝ご飯はクッションをいくつも重ねた椅子に座らせられて、次から次に運ばれてくる料理を黙々と食べた。

それから僕はまた車で、今度は別の大きなお屋敷に連れて行かれたが、そこは大人がいっぱいで騒がしく、辺りには建物の木の匂いと花のようなお菓子のような甘い匂いが充満していた。

「憐ちゃん、はじめまして」

 と、若い男は白い歯の見える笑顔で話しかけてきたが、周りを沢山の大人に囲まれていた僕はただひたすらに怖くて、隣に立っていた秋彦の後ろに回って足にしがみついた。

周りの大人がどっと笑い声をあげて、余計に怖くなってしがみつく腕に力をこめる。「憐はこれからここで龍也たちに面倒をみてもらうんだ」と、秋彦が僕を無理やり引きはがそうとする。

秋彦から離れるのが嫌で大声で泣き始めた僕を、周りがなだめるように話しかけてきたが耳に入ってこなかった。

「手のかかる子どもだ」と、秋彦が呆れたように言って僕を抱き上げ、背中を撫でながらゆっくりと揺らして、やっと落ち着く。

それから僕はまた、朝目覚めた屋敷にそのまま連れて帰られることになった。


 「秋彦、秋彦」と、僕は秋彦にいつもくっついて回った。

秋彦の言うことなら、なんでも聞いた。自分には秋彦しかいない。秋彦以外は知らない人間。

綺麗なお辞儀の仕方、座り方、言葉遣い……お仕事のためだといって、お尻に玩具を挿れて一日を過ごすように言われたときも素直に従った。

秋彦は怒りっぽくて、秋彦の痛いお仕置きは嫌いだったけど、でも僕のことをどうでもいい存在なんかじゃなく、ちゃんと見ていてくれている思うと安心した。

それに、僕のお尻を真っ赤になるまで叩くのと同じ手で、時には「憐は、いい子だな」と頭を撫でて、褒めてくれることもあった。

秋彦は怖いけど優しい。

秋彦の屋敷には僕専用の部屋もベッドもあったが、僕はいつも秋彦の寝室のベッドに潜り込んだ。秋彦の背中にくっついて眠るとあったかくて気持ちがいい。


 秋彦は僕に初めてを沢山くれた人。初めて抱きあげられ、頭を撫でられ、怒られ、褒められ、隣で眠ってくれた。

初めて自分が一人じゃないと思わせてくれた人。
そして一人じゃなくなった僕は今度、一人になるのが怖くなった。

怖い、置いていかれるのは怖い。捨てられるのが怖い。
一人で死ぬのが怖い……。

「憐さん、憐さん」

 耳元で優しい声がする。暗闇で一人ぼっちの僕の手を握って、ゆっくり揺らす。

「憐さん。秋彦さまがいらっしゃいましたよ」
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