夕闇に紅をひく

青森ほたる

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休業日

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 隆文はそれから毎日昼の二時ちょうどになると起こしにきて着替えさせると、お腹がすいたとねだる前に食堂からご飯とクロのご飯を運んでくる。

「おはようございます」から「おやすみなさい」まで、文字通りべったりで、どこへでも付いてくる。

ただシャワーを浴びる時だけは、初日以来僕が何も言わずとも扉の外で待っていた。

「今日は、月に一度の休業日だそうですね。なにをされるつもりですか?」

 いつものように布団の上でご飯を食べていたら、隆文が話しかけてくる。そういえばそんなことを昨日、龍也が言っていた気がする。

「特に予定はないけど……」

 休業日は龍也に許可をもらって外出する人が多いらしいけど、僕には行きたい場所もない。わざわざ自分の足で出かけるのは面倒だ。

「そうですか。それなら、もしよければ憐さんに化粧の方法を……」

 暇だし、またなにか甘いものでも買いに行かせようか、と思いを巡らせていて僕は、隆文が喋っている内容を聞き逃してしまったが、いきなり「秋彦」という名前が聞こえた気がして反応する。

「秋彦? 秋彦が、どうしたって?」

「はい、直接お姿は見てないのですが、今朝からここへ来られてお仕事をされているとお聞きし……」

「秋彦が来てるの? 本当に? それなら、早く教えてよっ」

 食べかけのお椀を放り出して立ち上がる。引き出しから、お客にもらったお札の束を数週間分貯めていた封筒を取り出し「クロにご飯、あげといて」と、隆文に言い捨てて駆け出す。

秋彦が休業日に来るなんて珍しい。軽い足取りで、廊下をぱたぱたと走る。

渡り廊下にでると太陽の光がまぶしく雲ひとつない青い空が見えたが、わざわざ外へ出かける気持ちなんてこれっぽっちも理解できない。

今日は一日中、秋彦と一緒にいられるのかもしれないのだ。

「お姫ちゃん、秋彦の仕事の邪魔はすんなよ」

 執務室の前で、ちょうど後ろ手に扉を閉めて部屋から出てきた龍也が、走ってきた僕に呆れたような笑顔をむけてくる。

「分かってるって」

 目の前に立つ龍也を押しのけるときに噛み付くように睨んでしまったが、扉を開ける瞬間にはまた頬が緩んだ。

「秋彦っ」

 焦げ茶色のスーツを着た秋彦が執務机についていて、僕の声に顔をあげた。

「憐。何の用だ?」
「用って……別に、秋彦が来てるって聞いたから会いに来ただけ」

 お客に見せれば骨抜きにできる笑顔をつくったが、秋彦は小さくため息をついて手元のノートに視線をもどす。

ふわふわの絨毯の上を歩いていって、部屋の中を見回し僕ら二人だけなのを確認する。そのまま僕の腰より高い執務机の上に両手をつき身体をもちあげて腰掛ける。

「机の上に座るんじゃな……」
「ね、これ。この間会ったときから、昨日までの分のお金」

 抱えてきた封筒を秋彦の胸に押し付けるように渡す。秋彦は頷いて封筒の中身をちらりとも見ずに机の端に寄せて置く。

僕はその間に、机の上に膝をついて歩いていくと、そこから秋彦の膝の上に降りて身体に抱きついた。

ワイシャツに顔を埋めて、秋彦の匂いを吸いこむ。

「憐」

 秋彦が僕の腰を掴んで身体を抱えあげようとしてくるので、僕は秋彦の首にしがみついた。

「少しの間でいいから」
「もう子どもじゃないんだ。いい加減にしなさい」

 低い声で言われたが、本気で怒っているふうでもなくただ呆れているような声で、安心して抱きつく腕に力をこめる。

「まったく……」

 秋彦が僕の腰から手を離し、僕ごしに机の上のノートに手を伸ばしてまた読み始めた。

僕は腕をゆるめ秋彦の膝の上に座り直して、秋彦の読んでいるページを眺めたが文章ばかりで面白いものじゃなかった。それでも仕事をしている秋彦を見ているのは嫌いじゃない。

「ここ最近の憐は、ずいぶん真面目に働いているようじゃないか」

 胸に深く寄りかかってちょうど秋彦のまつ毛を見上げているとき、秋彦から話しかけてきた。

「真面目にって、そうかな?」
「時間通りに店に出て、客を待たせることもないと」

「それなら隆文が、すごくうるさいんだもん。時間になったら無理やり着物を着せられるんだよ。僕が自分でやるって言っても聞かないし。朝だって、寝ぼけてる間に着替えさせられるし、他にも」

 ぶつぶつと隆文に対する不平をならべていると、秋彦がノートを机の上に戻し、右手で僕の髪を梳かすように頭を撫でる。

「お前が……新しい世話役にかなり甘えているようだと龍也が言っていたが」
「そんなんじゃ…」

 含みのある秋彦の声に、身体をおこして反論する。

「ただ隆文が、僕に何もさせてくれないだけだから」

 秋彦はこちらを見つめてしばらく黙っていたが「そうか」と短く呟くように言って「あまりワガママばかり言うなよ」と、釘をさされる。子どもじゃない、と言うくせに子ども扱いするのはどっちだか。頬を膨らまし、勢いをつけて秋彦の膝から飛び降りる。

ソファに横になろうとしたらローテーブルの上に、蓋が開いた状態で置かれたクッキー缶を発見する。

「このクッキー、食べてもいい?」

 聞きながら手を伸ばして一枚手にとって口に運ぶ。ほんのりあまいバター味が口の中に広がった。

「憐。座って食べなさい」

 鋭い声が飛んできて、大人しくソファに横向きに足を投げ出して座る。

秋彦は甘いお菓子を一切食べないので、このクッキーは椿のものだと想像がついた。何枚食べても、椿なら怒ることはない。

クッキーに手をのばし、秋彦が鳴り響いた電話をとって低い声で話し始めたので物音をたてないように肘掛に頭を乗せて、秋彦の声に耳を傾ける。

誰と話しているのかはわからないが、秋彦はいつも通りの威圧的な命令口調だ。

秋彦が長い電話を話している間に、廊下側の扉が開いて椿が姿をみせる。今日はピンク色の口紅をひき、長い髪を二つにわけて三つ編みにしている。

両手に抱えてきた手紙の束を、執務机に重ねるとちょうど秋彦も電話をおえて「ありがとう、椿」と、声をかける。椿は鈴を鳴らしながら頷いて、それから僕と向かい合うようにソファに腰掛けた。

長い三つ編みは膝まで垂れるほど長いが、毛の量が少なく三つ編みが細くて綺麗に見えるのが羨ましい。椿は口紅とお揃いのピンク色のマニキュアを塗った指で、クッキーをつまんで口に運ぶ。

「そういえばこの間、隆文がね、僕の字がとても綺麗だって」
「それはいい」

 椿の持ってきた手紙を読み始めた秋彦が、顔をあげて返事を返してくれる。口いっぱいにクッキーを詰め込んだ椿も、目が合うとこくんと頷く。

「送られてきた手紙に返事を書くだけじゃなく、最近いらっしゃっていないお客様にも便りを出しているか?」

 せっかく良いことを報告したのに、余計な質問をされて黙る。もっと褒めてくれても良いのに。

字が上手に書けなかったときは二人して散々叱ったくせに。椿には無理やりペンの持ち方をなおされ、秋彦にはこんな字では読めないとせっかく書いた手紙を捨てられた。椿が赤いペンで書いたお手本をなぞったり、細かいマスに自分の名前ばかり延々と書かされたりするのも、他の稽古より地味だし面倒で嫌いだった。

一人でむくれていたら「そうだ、憐」と、秋彦が思い出したように切り出す。

「ちょうどお前には話があったんだ。こっちへ来い。椿、準備したものを」

「なになに?」

 秋彦から話があるなんて珍しい。

部屋の奥の、秋彦が寝室として使っている部屋に駆けていく椿の後ろ姿を見ながら、執務机の前に立つ。

秋彦は机の上に広げた便箋を集め、端を揃えて裏返して置くと机に肘をついて僕を見つめる。

「憐はお客様の相手をするようになって何年になる?」
「今年でちょうど十年だけど」

 僕は口角をあげて可愛く小首をかしげたが、秋彦はいつもの冷たい目のまま眉ひとつ動かさない。

「十年間一度も、二人以上のお客様を同時にとったことはないな?」

「一晩で同時にお客様の部屋を回るってこと? だってそれは僕が嫌だって言ったら、龍也がしなくていいって。部屋をまわって複数人のお客様から稼ぐ男娼より、僕のほうが稼いでるからって」

「それに関しては、それでいいと私から龍也に言っておいたんだ」
「じゃあ、何の話?」

 寝室から戻ってきた椿が、机の上にチョコレートが入っていそうな平たくて大きな黒い箱を乗せる。

箱の中をのぞいた瞬間、一目で用途の想像がつくものが並んでいて嫌な予感に顔がこわばる。

リアルな男性器を模したシリコンの柔らかいものから金属製の硬いディルド、細いものから太いもの形が歪なものまで、アナル拡張用の性具と、ローションのチューブ。

「二輪挿しは経験がないだろ。3Pができるように馴らして…」
「二輪挿しって、同時に二本挿れるってこと?そんなの、絶対嫌!」

 二本同時になんて…考えただけで悪寒がする。なんで僕がそんな頑張らなきゃいけないわけ。売れない男娼じゃあるまいし。なんで今さら……。

「前々から、3Pをしたいというお客様からの要望の手紙はあったが、お前の身体がまだ子どもだったからという理由で断っていた。お前ももう大人になったし、もう働き始めて十年で初心者じゃないんだ」

 唇を噛んで箱の中に並んだ性具を睨めつける。

「秋彦が手伝ってくれるならやってもいい…昔みたいに」

 僕としてはかなり譲歩して返事した。本当は、そんな痛くて辛そうなことやりたくないけど…秋彦にだったら。

ただ返ってきた言葉は冷淡だった。

「お前には世話役がいるだろ。手伝いなら隆文にさせればいい」
「やだ。秋彦じゃないと、嫌だ」

 秋彦が背もたれに寄りかかりながら、口元だけの笑みを僕にみせる。秋彦が怒っているサインだが、こっちだって引く気はない。

「憐。私は忙しいんだ」

 普段は絶対使わない、わざとらしく言い聞かせるような声。

「お前はいつまでも新人の姫気分でいないで、そろそろお客様を自分から喜ばせる努力をしろ」

「僕、気持ち悪い客の変態趣味に付き合うようなこと絶対、したくない」

 僕が大声で言った瞬間、椅子から立ち上がった秋彦が僕の襟元を勢いよく掴かみ、身体が乱暴に引きあげられる。腹が机の端に食いこみ、足がわずかに浮いて喉がしまった。

「そんな口を聞くなんて、ずいぶん悪い子だな」

 身体の芯まで凍りついてしまいそうな秋彦の声。

襟元を掴んでいた手が離れて、地面に足がついた瞬間、秋彦が右腕を振り上げたのが目に入る。

パシィンッ、と左頬を打たれ軽くよろめくと、間髪入れずにバシィィンッと硬い手の甲で思いきり右頬を打たれて、今度は絨毯の上に倒れこむ。

大きく咳きこみ、両目に涙が浮かんできた。『お客様』の悪口を言えば、秋彦を確実に怒らせると分かっていたのに、思わず口走ってしまった。絨毯に這いつくばった僕のところへ秋彦が歩み寄ってきて蹴り飛ばされると目をつむったが、秋彦は僕の髪を無造作に掴んで上へ強く引っ張った。

「……ぃ、た…っ、」
「憐。ごめんなさい、はどうした?」

 多分、ここで謝らなければ、余計に怒らせることになる。分かっているけど絶対に、ごめんなさいなんて言うもんか。

今日は折角、一日秋彦と一緒にゆっくり過ごせると思ったのに。沢山、甘えられると思ったのに。なんでこんなことになっちゃったんだろう。

全部、秋彦のせいだ。

折角のお休みの日に、久しぶりに会ったのに、嫌なお仕事の話をするから…っ。

きゅっと両手を握って、引っ張られる髪の痛みに耐える。

「そうか。素直になれないのなら、お仕置きだな」


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