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第6章 不敗神話
カスティリヤ内乱
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エドワードが思わぬ客の訪問を受けたのは、その年一三六六年の九月のことであった。客の名は、ペドロ一世。イベリア半島に存在するカスティリヤ王国の国王である。
もっとも、国王と言っても、その実権はないに等しい。先日、フランスと組んだエンリケにより国を奪われ、彼は亡命の身となっていたのだ。
「このような次第で、心ならずも力及ばず、私はこちらに逃げてきたわけであります」
ペドロは無念の文字を顔に貼り付けた状態で話し続ける。彼は頭髪がかなり薄くなっており、実年齢よりもかなり老けた印象を、見ている者に与えた。
「まことエンリケのやることは、いちいち癪に障りました。小生は、なんとかそれを耐えようとしたのですが、彼は一向に手を緩める様子はありません。ついには私を殺害しようとしました。私は知略のあらんかぎりを尽くし――――」
ペドロはこれまでの自分がいかに不遇であったか、それに対してどのように抵抗してきたかを長々と語り続ける。エドワードは黙って事の顛末を聞いていたが、やがてペドロが話し終わると、おもむろに口を開いた。
「不運でしたな。それで、私に何をせよとおっしゃるのですか?」
喋り方は丁寧だが、倣岸不遜な質問であった。言外に、おまえの愚痴など聞いている暇はない、という態度が見て取れる。
このあたり、彼は必ずしも優秀な政治家ではなかった。優秀な政治家なら、腹にどのような思惑を抱えていようとも、表面上は穏やかにかつ丁寧に接しただろう。やはりエドワードには、軍人としての本質があるようだった。
「は、はい。殿下には、ぜひ私に力を貸していただきたいので」
エドワードはその言葉を聞き、さらに確信を強めた。この男は、人柄はともかく、頭の回転は良くない。単刀直入に言えばよいのに、ここに至ってまだ抽象的な物言いをする。
「力ですか。力にも色々ありますが」
「私はいま、兵力をほとんど持たぬ身です。是非とも、エンリケを打ち破り、カスティリヤ王国を我が手に取り戻していただきたく存じます」
ペドロは深々と頭を下げる。頭頂部の薄い部分が突き出されるような格好となり、エドワードにはむしろその姿が滑稽に思えた。
その日は風が強く、空気を切り裂く音とともに、窓がその身体を揺らしていた。ときおり黄味がかった木の葉が舞ってきて、窓に当たっては地面に落ちる。
それで我が軍に何の得があるのか、と率直に聞きたいのをこらえて、エドワードは遠まわしな物言いをする。
「わかりました。ではこの件は、会議にかけさせていただきましょう。よい結論が出るとの保証は出来ませんが、善処することをお約束します」
その言葉に、ペドロは神の天啓でも受けたかのように心地よく笑った。あくまで純粋な笑みだった。
「こういうわけだ。カスティリヤに遠征すべきか否か、皆の意見を聞きたい」
翌日の午後、エドワードは宮殿で軍議を開いていた。楕円形の卓には、ウォリック伯、チャンドス、グライーといつものメンツが顔を並べている。きつい意見が予想されるこの卓には、ペドロは在席させていない。
「あまり賛成は出来ませんな。こう言ってはなんですが、どうもそのペドロ殿を国王にするためのみに遠征するようなものではありませんか」
最初に慎重論を唱えたのは、ウォリック伯であった。彼は軍議においては、沈黙するのが常であったので、一座は彼の顔を凝視した。
この発言は、彼の気まぐれによりなされたものではなかった。彼は、近頃慎重論を唱える者がほとんどいないのを憂慮して、自らその役割を担おうとしたのである。チャンドスと同じく、彼もまたそのことに気づいていたのであった。
「しかし、フランスがそのエンリケに味方しているというのであれば、これを叩くのもまたイングランドの役目というべきであろう」
ウォリック伯と反対の意見を放ったのは、チャンドスである。歴戦の武人は、老いてなおその眼光を衰えさせてはいなかった。隻眼から発せられる光は、猛獣をもひるませるに足りるであろう。
エンリケとは、前王の庶子にあたる、三十三歳の男だった。ペドロより一つ年上のエンリケは、前王の嫡子たるペドロの即位に異を唱え、カスティリヤの王位を主張して挙兵したのである。
――――というのは表向きで、フランス王シャルル五世が後ろで糸を引いているのは明白だった。シャルル五世はよほど介入が好きと見えて、ブルターニュ継承戦争のときも、彼が背後からブロワ伯を後押ししていたのだ。
そして今回も、フランス軍の総大将は、かのベルトラン=デュ=ゲクランであった。継承戦争で大敗しても、ゲクランに対するシャルル五世の信頼は一向に衰えていなかった。
ゲクランの行軍は、その信頼に応えたか、まさに快進撃と呼ぶにふさわしいものだった。わずか半月あまりで王都ブルゴスをはじめとするカスティリヤの諸都市を落とし、ペドロ一世を追放し、エンリケを王位につけたのである。
「よろしいか。フランスの自由にさせておくわけにはいかぬ。シャルル五世に、一泡吹かせてやりましょうぞ」
カスティリヤがフランスの手に落ちると、困るのはイングランドである。海軍力が増強されるだけならまだしも、エドワードの治めるフランス南部のアキテーヌ公領は、カスティリヤと領土を接しており、悪くすると挟撃される恐れがあるのだ。チャンドスの強攻策は、理由のないものではなかった。
しかし一方のウォリック伯も、彼にしては珍しく、一歩も退く様子がなかった。論議はますます白熱してくる。
「それならば、いっそフランスの都市を攻撃したがよろしい。なにもカスティリヤまで遠征する必要はありますまい」
「大義名分が必要だろう。今、フランスの都市を攻める口実はない。そこへ行くと、こちらはカスティリヤの王位継承者たるペドロ殿が応援を求めてきておられるのだ。助けねば騎士道に背くというものだ」
「それでは本末転倒でしょう。口実は口実に過ぎない。ないとなればいくらでも作り出せるし、あるとしてもそのために戦争を行う道理はないでしょう」
徐々に、道筋がずれつつあった。カスティリヤ遠征の是非を問うはずが、次第に抽象論へと移行しようとしている。それを現実に引き戻したのは、グライーであった。
「そんなことよりさ、殿下はカスティリヤに遠征して、勝ち目があると思ってるのかい? そこのところを聞きたいね」
背を椅子に深く預けたふてぶてしい姿勢でグライーが言うと、熱を帯びた座が静かになった。エドワードの発言を、出席者全員が耳を象のようにして聞き逃すまいとしていた。
「遠征すれば、勝てなくはない」
彼の第一声はそれであった。
「だが、必ず勝てるというものでもない。まず五分というところだろう」
エドワードにしては曖昧な発言に、一座は頭の中でいくつもの思考を繰り広げていた。これは謎かけなのだろうか、あるいはブルターニュ継承戦争のときのように、さらなる主戦論を待っているのか。それとも単に自分で考えろということなのだろうか。
しかし実際のところは、エドワードは本音を語っただけのことだった。ポワティエやクレシーのときと異なり、不確定要素が多すぎた。戦う場所はイングランドでもフランスでもないし、戦う相手もゲクランという、戦巧者で知られた男だ。
そして何よりも、入ってくる情報が少なすぎた。ニールならば、という思考法を抜きにしても、ゴードンが手に入れてきた情報は、状況を正確に把握するに充分な量とはとても言えなかった。
突き詰めて本音を言えば、本質的に軍人たるエドワードは、戦いたくて仕方がないのだ。だが、勝てない戦を仕掛けるわけにはいかないし、そのためには軍資金もいる。戦うためだけに戦いを起こすわけにはいかないのであった。
エドワードがそんな風だから、他の者たちがいくら話し合ったところで、結論など出るわけもない。会議は結局、物別れに終わった。
エドワードが会議後にとった行動といえば、ペドロ一世と同盟関係を結んだのみであった。同盟というと強固に思えるが、実際には「あなたを追放したりはしません」という程度の意味しかない。少なくともフランスの支援を得て王位についたエンリケがイングランドを支持することはないであろうから、その対立候補を擁しておくに越したことはないだろうということであった。
遠征か、無視か。決めかねているままに、時が過ぎてゆく。そして年が明け、一三六七年になった。
さらに三月になり、ボルドーにも春が訪れようとしていた。平原にはパンジーの花が咲き乱れ、鳥たちは空の上で人生の春を謳歌している。雪はすっかり溶けて、増量した河の水は勢いよく下流へと泥を洗い流している。人間たちの気分も雪の重圧から解放されて、植物が光を求めるように、明るい報せを求めていた。
そんな中、エドワードは窓際の椅子に腰掛け、物思いに耽っていた。彼が思い出していたのは、クレシーの戦いの直後のことであった。ちょうどあの頃、キャロラインと出会ったのだ。白い羽根の紋章を作ったのもあの頃だった。
当時のエドワードは恐れを知らない若者で、どのような敵が立ちふさがろうと、すべて撃破してゆけるものと思っていた。その気持ちには今も変わりがないが、最近はどこか自分に頼りなさを感じる。それは、自分が弱くなったからであろうか。それとも、彼をしっかりと支えてくれる者がいないからであろうか。
あの頃は、若さのせいであろう、世界が輝いて見えた。ニール、ジョアン、キャロライン、ウォリック伯、チャンドス。彼の周りの人間は皆、彼の世界を輝かせてくれていた。そのうちの半数はいまだ生存しているが、近頃の世界は少し暗く見える。この二十年で、何が変わったというのだろう。
そうか、もう二十年になるのか。エドワードは身震いした。ゆくゆくは世界制覇などという野望を抱いたが、いまだフランスすら制覇できてはいない。このまま、何一つ成し遂げることなく、朽ち果ててゆくのではないか。世界制覇などとは狂人の夢であったと、後世の人々に笑われるのではないだろうか。
彼は何事かを思い立ったように、椅子から立ち上がると、足早に部屋を出て行った。
そしてその日の午後、会議の席中、エドワードは突如宣言した。
「カスティリヤを攻める」
突然の発言に、家臣たちは魂をふるわせる者、諌めようとする者、ただ驚くばかりの者など、様々であった。理由を求められても、エドワードはただ「私を頼ってきたペドロ殿を見捨てるわけにはゆかぬ」と言うのみであった。
エドワードの胸には、焦りがあった。かつて世界を制覇せんとした夢は、まだその三分の一も実現していない。ここでカスティリヤを制圧し、イングランドの属国としておきたいという思惑があった。さらには、雄敵と戦いたいという純粋な希望もあった。ポワティエ以来、彼は大会戦の指揮を執っていないのである。
「殿下、それで本当によろしいのですね」
ウォリック伯が最後の確認をした。もとより彼はエドワードの決めた結論に逆らうつもりなどなかったが、確認はしておかねばならない。
「我が覇道は、誰にも邪魔させぬ。それがたとえ神であってもだ」
エドワードの発言と、その声にこもった覇気は、英雄の名にふさわしいものであった。一同は、皆その覇気に感嘆した。しかし、その覇気が、弱さから生まれ出たものであることには、誰も気づいていなかった。
決断が性急になされたものであるとしても、戦の準備まで性急に進めるわけにはいかなかった。古来、準備を怠る者が戦に勝った試しはないのである。
カスティリヤ=フランス連合軍、すなわちゲクランとエンリケの軍は、総勢三万とも四万とも言われていた。誇張はあるにせよ、こちらも相応の兵を集めておかねば、勝負にならない。
イングランドには常備軍があるとはいえ、それだけで戦を行うには、二千の兵はあまりにも少なかった。傭兵を募集し、近隣の領主にも出陣を呼びかけ、兵士数を増やす必要があった。
それに伴い、兵の鍛錬を行い、補給路を整え、戦略を練る。同時に、カスティリヤ王国と同じイベリア半島に位置するナバラ王国やアラゴン王国と交渉し、戦場での孤立を避ける。戦争前の大将の、なんと忙しいことか。これに比べれば、戦場で華々しく突撃する騎士たちの労苦など、とるに足りぬものであった。
にもかかわらず、エドワードの瞳は、鋭気に満ちていた。キャロラインが亡くなって以降、久しく見ることのできなかった精彩を放っている。不思議に思ったアメリアがその理由を訊ねると、
「おいしい食事が食べられると思えば、料理にも力が入るだろう」
とエドワードは答えた。アメリアははじめ、その胸のうちを測りかねた。この戦に、それほど大きな見返りがあるとは思えないのだが。
アメリアがそのことをチャンドスに言うと、彼は声を大にして笑った。
「そうか、いかにも殿下らしいことよ」
「どういう意味でしょうか」
「殿下は、戦場で思うように手腕をふるうことを何よりの楽しみにしておられるのよ。戦利品や戦果などは二の次。そのためとあらば、準備の労も厭わぬということだな」
戦場が楽しいという感覚は、アメリアには理解できなかった。一般人は、窃盗犯の心理は理解できても、殺人犯の心理は理解できない。金は欲しいと誰しもが思うが、殺すのが楽しいと思う者はごく一部だからだ。
もちろん、殺人と戦争が同じだと言われれば、エドワードをはじめとする軍人は激しく否定するだろう。だが少なくとも、殺し合いの戦場に赴かんとすることが、エドワードの興奮剤になっていることは事実のようだった。
エドワードが特に異常者というわけではない。アメリアが見るに、世の中の半分程度の男性には、そうした心理があるようであった。偉大な敵を相手に、存分に戦いたいという感覚。
男の人はなんでこう変なんだろうと思いつつ、アメリアは再び職務の一つである窓拭きへと気持ちを切り替えた。
もっとも、国王と言っても、その実権はないに等しい。先日、フランスと組んだエンリケにより国を奪われ、彼は亡命の身となっていたのだ。
「このような次第で、心ならずも力及ばず、私はこちらに逃げてきたわけであります」
ペドロは無念の文字を顔に貼り付けた状態で話し続ける。彼は頭髪がかなり薄くなっており、実年齢よりもかなり老けた印象を、見ている者に与えた。
「まことエンリケのやることは、いちいち癪に障りました。小生は、なんとかそれを耐えようとしたのですが、彼は一向に手を緩める様子はありません。ついには私を殺害しようとしました。私は知略のあらんかぎりを尽くし――――」
ペドロはこれまでの自分がいかに不遇であったか、それに対してどのように抵抗してきたかを長々と語り続ける。エドワードは黙って事の顛末を聞いていたが、やがてペドロが話し終わると、おもむろに口を開いた。
「不運でしたな。それで、私に何をせよとおっしゃるのですか?」
喋り方は丁寧だが、倣岸不遜な質問であった。言外に、おまえの愚痴など聞いている暇はない、という態度が見て取れる。
このあたり、彼は必ずしも優秀な政治家ではなかった。優秀な政治家なら、腹にどのような思惑を抱えていようとも、表面上は穏やかにかつ丁寧に接しただろう。やはりエドワードには、軍人としての本質があるようだった。
「は、はい。殿下には、ぜひ私に力を貸していただきたいので」
エドワードはその言葉を聞き、さらに確信を強めた。この男は、人柄はともかく、頭の回転は良くない。単刀直入に言えばよいのに、ここに至ってまだ抽象的な物言いをする。
「力ですか。力にも色々ありますが」
「私はいま、兵力をほとんど持たぬ身です。是非とも、エンリケを打ち破り、カスティリヤ王国を我が手に取り戻していただきたく存じます」
ペドロは深々と頭を下げる。頭頂部の薄い部分が突き出されるような格好となり、エドワードにはむしろその姿が滑稽に思えた。
その日は風が強く、空気を切り裂く音とともに、窓がその身体を揺らしていた。ときおり黄味がかった木の葉が舞ってきて、窓に当たっては地面に落ちる。
それで我が軍に何の得があるのか、と率直に聞きたいのをこらえて、エドワードは遠まわしな物言いをする。
「わかりました。ではこの件は、会議にかけさせていただきましょう。よい結論が出るとの保証は出来ませんが、善処することをお約束します」
その言葉に、ペドロは神の天啓でも受けたかのように心地よく笑った。あくまで純粋な笑みだった。
「こういうわけだ。カスティリヤに遠征すべきか否か、皆の意見を聞きたい」
翌日の午後、エドワードは宮殿で軍議を開いていた。楕円形の卓には、ウォリック伯、チャンドス、グライーといつものメンツが顔を並べている。きつい意見が予想されるこの卓には、ペドロは在席させていない。
「あまり賛成は出来ませんな。こう言ってはなんですが、どうもそのペドロ殿を国王にするためのみに遠征するようなものではありませんか」
最初に慎重論を唱えたのは、ウォリック伯であった。彼は軍議においては、沈黙するのが常であったので、一座は彼の顔を凝視した。
この発言は、彼の気まぐれによりなされたものではなかった。彼は、近頃慎重論を唱える者がほとんどいないのを憂慮して、自らその役割を担おうとしたのである。チャンドスと同じく、彼もまたそのことに気づいていたのであった。
「しかし、フランスがそのエンリケに味方しているというのであれば、これを叩くのもまたイングランドの役目というべきであろう」
ウォリック伯と反対の意見を放ったのは、チャンドスである。歴戦の武人は、老いてなおその眼光を衰えさせてはいなかった。隻眼から発せられる光は、猛獣をもひるませるに足りるであろう。
エンリケとは、前王の庶子にあたる、三十三歳の男だった。ペドロより一つ年上のエンリケは、前王の嫡子たるペドロの即位に異を唱え、カスティリヤの王位を主張して挙兵したのである。
――――というのは表向きで、フランス王シャルル五世が後ろで糸を引いているのは明白だった。シャルル五世はよほど介入が好きと見えて、ブルターニュ継承戦争のときも、彼が背後からブロワ伯を後押ししていたのだ。
そして今回も、フランス軍の総大将は、かのベルトラン=デュ=ゲクランであった。継承戦争で大敗しても、ゲクランに対するシャルル五世の信頼は一向に衰えていなかった。
ゲクランの行軍は、その信頼に応えたか、まさに快進撃と呼ぶにふさわしいものだった。わずか半月あまりで王都ブルゴスをはじめとするカスティリヤの諸都市を落とし、ペドロ一世を追放し、エンリケを王位につけたのである。
「よろしいか。フランスの自由にさせておくわけにはいかぬ。シャルル五世に、一泡吹かせてやりましょうぞ」
カスティリヤがフランスの手に落ちると、困るのはイングランドである。海軍力が増強されるだけならまだしも、エドワードの治めるフランス南部のアキテーヌ公領は、カスティリヤと領土を接しており、悪くすると挟撃される恐れがあるのだ。チャンドスの強攻策は、理由のないものではなかった。
しかし一方のウォリック伯も、彼にしては珍しく、一歩も退く様子がなかった。論議はますます白熱してくる。
「それならば、いっそフランスの都市を攻撃したがよろしい。なにもカスティリヤまで遠征する必要はありますまい」
「大義名分が必要だろう。今、フランスの都市を攻める口実はない。そこへ行くと、こちらはカスティリヤの王位継承者たるペドロ殿が応援を求めてきておられるのだ。助けねば騎士道に背くというものだ」
「それでは本末転倒でしょう。口実は口実に過ぎない。ないとなればいくらでも作り出せるし、あるとしてもそのために戦争を行う道理はないでしょう」
徐々に、道筋がずれつつあった。カスティリヤ遠征の是非を問うはずが、次第に抽象論へと移行しようとしている。それを現実に引き戻したのは、グライーであった。
「そんなことよりさ、殿下はカスティリヤに遠征して、勝ち目があると思ってるのかい? そこのところを聞きたいね」
背を椅子に深く預けたふてぶてしい姿勢でグライーが言うと、熱を帯びた座が静かになった。エドワードの発言を、出席者全員が耳を象のようにして聞き逃すまいとしていた。
「遠征すれば、勝てなくはない」
彼の第一声はそれであった。
「だが、必ず勝てるというものでもない。まず五分というところだろう」
エドワードにしては曖昧な発言に、一座は頭の中でいくつもの思考を繰り広げていた。これは謎かけなのだろうか、あるいはブルターニュ継承戦争のときのように、さらなる主戦論を待っているのか。それとも単に自分で考えろということなのだろうか。
しかし実際のところは、エドワードは本音を語っただけのことだった。ポワティエやクレシーのときと異なり、不確定要素が多すぎた。戦う場所はイングランドでもフランスでもないし、戦う相手もゲクランという、戦巧者で知られた男だ。
そして何よりも、入ってくる情報が少なすぎた。ニールならば、という思考法を抜きにしても、ゴードンが手に入れてきた情報は、状況を正確に把握するに充分な量とはとても言えなかった。
突き詰めて本音を言えば、本質的に軍人たるエドワードは、戦いたくて仕方がないのだ。だが、勝てない戦を仕掛けるわけにはいかないし、そのためには軍資金もいる。戦うためだけに戦いを起こすわけにはいかないのであった。
エドワードがそんな風だから、他の者たちがいくら話し合ったところで、結論など出るわけもない。会議は結局、物別れに終わった。
エドワードが会議後にとった行動といえば、ペドロ一世と同盟関係を結んだのみであった。同盟というと強固に思えるが、実際には「あなたを追放したりはしません」という程度の意味しかない。少なくともフランスの支援を得て王位についたエンリケがイングランドを支持することはないであろうから、その対立候補を擁しておくに越したことはないだろうということであった。
遠征か、無視か。決めかねているままに、時が過ぎてゆく。そして年が明け、一三六七年になった。
さらに三月になり、ボルドーにも春が訪れようとしていた。平原にはパンジーの花が咲き乱れ、鳥たちは空の上で人生の春を謳歌している。雪はすっかり溶けて、増量した河の水は勢いよく下流へと泥を洗い流している。人間たちの気分も雪の重圧から解放されて、植物が光を求めるように、明るい報せを求めていた。
そんな中、エドワードは窓際の椅子に腰掛け、物思いに耽っていた。彼が思い出していたのは、クレシーの戦いの直後のことであった。ちょうどあの頃、キャロラインと出会ったのだ。白い羽根の紋章を作ったのもあの頃だった。
当時のエドワードは恐れを知らない若者で、どのような敵が立ちふさがろうと、すべて撃破してゆけるものと思っていた。その気持ちには今も変わりがないが、最近はどこか自分に頼りなさを感じる。それは、自分が弱くなったからであろうか。それとも、彼をしっかりと支えてくれる者がいないからであろうか。
あの頃は、若さのせいであろう、世界が輝いて見えた。ニール、ジョアン、キャロライン、ウォリック伯、チャンドス。彼の周りの人間は皆、彼の世界を輝かせてくれていた。そのうちの半数はいまだ生存しているが、近頃の世界は少し暗く見える。この二十年で、何が変わったというのだろう。
そうか、もう二十年になるのか。エドワードは身震いした。ゆくゆくは世界制覇などという野望を抱いたが、いまだフランスすら制覇できてはいない。このまま、何一つ成し遂げることなく、朽ち果ててゆくのではないか。世界制覇などとは狂人の夢であったと、後世の人々に笑われるのではないだろうか。
彼は何事かを思い立ったように、椅子から立ち上がると、足早に部屋を出て行った。
そしてその日の午後、会議の席中、エドワードは突如宣言した。
「カスティリヤを攻める」
突然の発言に、家臣たちは魂をふるわせる者、諌めようとする者、ただ驚くばかりの者など、様々であった。理由を求められても、エドワードはただ「私を頼ってきたペドロ殿を見捨てるわけにはゆかぬ」と言うのみであった。
エドワードの胸には、焦りがあった。かつて世界を制覇せんとした夢は、まだその三分の一も実現していない。ここでカスティリヤを制圧し、イングランドの属国としておきたいという思惑があった。さらには、雄敵と戦いたいという純粋な希望もあった。ポワティエ以来、彼は大会戦の指揮を執っていないのである。
「殿下、それで本当によろしいのですね」
ウォリック伯が最後の確認をした。もとより彼はエドワードの決めた結論に逆らうつもりなどなかったが、確認はしておかねばならない。
「我が覇道は、誰にも邪魔させぬ。それがたとえ神であってもだ」
エドワードの発言と、その声にこもった覇気は、英雄の名にふさわしいものであった。一同は、皆その覇気に感嘆した。しかし、その覇気が、弱さから生まれ出たものであることには、誰も気づいていなかった。
決断が性急になされたものであるとしても、戦の準備まで性急に進めるわけにはいかなかった。古来、準備を怠る者が戦に勝った試しはないのである。
カスティリヤ=フランス連合軍、すなわちゲクランとエンリケの軍は、総勢三万とも四万とも言われていた。誇張はあるにせよ、こちらも相応の兵を集めておかねば、勝負にならない。
イングランドには常備軍があるとはいえ、それだけで戦を行うには、二千の兵はあまりにも少なかった。傭兵を募集し、近隣の領主にも出陣を呼びかけ、兵士数を増やす必要があった。
それに伴い、兵の鍛錬を行い、補給路を整え、戦略を練る。同時に、カスティリヤ王国と同じイベリア半島に位置するナバラ王国やアラゴン王国と交渉し、戦場での孤立を避ける。戦争前の大将の、なんと忙しいことか。これに比べれば、戦場で華々しく突撃する騎士たちの労苦など、とるに足りぬものであった。
にもかかわらず、エドワードの瞳は、鋭気に満ちていた。キャロラインが亡くなって以降、久しく見ることのできなかった精彩を放っている。不思議に思ったアメリアがその理由を訊ねると、
「おいしい食事が食べられると思えば、料理にも力が入るだろう」
とエドワードは答えた。アメリアははじめ、その胸のうちを測りかねた。この戦に、それほど大きな見返りがあるとは思えないのだが。
アメリアがそのことをチャンドスに言うと、彼は声を大にして笑った。
「そうか、いかにも殿下らしいことよ」
「どういう意味でしょうか」
「殿下は、戦場で思うように手腕をふるうことを何よりの楽しみにしておられるのよ。戦利品や戦果などは二の次。そのためとあらば、準備の労も厭わぬということだな」
戦場が楽しいという感覚は、アメリアには理解できなかった。一般人は、窃盗犯の心理は理解できても、殺人犯の心理は理解できない。金は欲しいと誰しもが思うが、殺すのが楽しいと思う者はごく一部だからだ。
もちろん、殺人と戦争が同じだと言われれば、エドワードをはじめとする軍人は激しく否定するだろう。だが少なくとも、殺し合いの戦場に赴かんとすることが、エドワードの興奮剤になっていることは事実のようだった。
エドワードが特に異常者というわけではない。アメリアが見るに、世の中の半分程度の男性には、そうした心理があるようであった。偉大な敵を相手に、存分に戦いたいという感覚。
男の人はなんでこう変なんだろうと思いつつ、アメリアは再び職務の一つである窓拭きへと気持ちを切り替えた。
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