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間章・とある深い森の片隅で②
しおりを挟む少し前までは袋を背負うだけだったのが、最近になって小さな背負子を作ってもらえた。お陰で担げる炭の量が増えたし、帰路には他の荷物も担いで行ける。
百日寝ても千日起きてもあまり大きくならないのは不服だったが、育ての親である老爺も集落の男たちと比べれば体は小さいほうだ。まだ子どもである自分と比べても、頭ひとつ分くらいしか変わりない。
だと言うのに、背負っている炭は自分が担いでいる量の十倍以上ある。
力が強く、手先が器用で何でも知っている。わざわざ言葉にしたことはないが、この老爺を尊敬しているし、こんな大人になりたいと日々思っていた。
ばきりと、踏んだ木の実が音を鳴らす。
足をどければ、砕けた殻の中に白っぽい中身が見えている。暖かくなった頃に実をつけるベトベトの木、正しい名前は知らない。中身の白い部分を集めて絞ると油が採れるのだ。
「帰りにひらってくか」
「うん」
どうせ帰路の荷物は大した量にならない。それに、この背負子があれば山ほど拾っても積んでいける。
山には何でもあるけれど、山で採れるものだけで暮らしていくのは少し難しい。定期的に焼いた炭や獣肉を持って集落へ向かい、そこで服や日用品、麦なんかと交換してもらうのが常だった。
そこで最近耳にした話だと、以前は麦なんて求めず酒と交換をしていたらしい。この老爺の元で物心ついてからというもの、酒を飲んでいる姿なんて一度も見たことがない。
もしかしたら、自分を育てることが負担になっているのではないかと気掛かりだったが、口数の少ない老爺はそんな問いに答えることはなかった。
早く大きくなりたい。
もっと力をつけて、もっとたくさんのことを覚えて、何でもできるようになりたい。
草木の使い方も、料理の仕方も、道具の扱いや手入れも、鳥獣を狩る方法も、冬ごもりの準備も、肉のさばき方も、何もかもこの老爺が教えてくれた。
ひとつを覚え、ひとつを身につけるたび、『何でもできる』に近づいている気がする。
早く大人になって手本とする相手に近づき、これまでもらったものを返したかった。
「…………」
「……? おじい?」
不意に、先を歩いていた老爺が足を止める。道中で休憩を挟むことは稀で、よほど危険な獣が近くにいない限りはいつも真っ直ぐ集落へと向かうのに。
どうしたのかと一歩踏み出し、呼ぼうとすると、急に振り返った相手が手のひらを口に当て塞いできた。驚きに目を白黒させながらも、従うという意思を見せて動きを止める。
「おまえは、ここでじっとしてろ」
「……?」
「様子さ見て、すぐもどる。わしがもどるまで、ぜったいに動くな」
口を塞がれたまま二度うなずき返すと、普段から厳めしい老爺はさらに険しい顔を浮かべ、枝を払うための手鎌を片手にひとりで歩いて行ってしまう。
目的の集落までは、まだしばらくある。何か珍しい獲物でも見つけたのだろうか。これまで幾度も後をついて山を下りてきたけれど、こんなことは一度もなかったというのに。
ひとまず背負子を傍らへ下ろし、細い木の幹に背中を預ける。少しだけ肌寒さを感じて、少年は腰を下ろしたまま膝を抱えるように丸くなった。
――そのまま、薄暗くなるまで待っても老爺は戻ってこなかった。
だが言いつけは守らないといけない。動くなと言われたから、たとえ夜になってもこの場から動いてはいけない。待っていないといけない。
そう思ってじっと心細さに耐えていたのに、不意に鼻先をかすめる煙たさに気づき、はっと顔を上げる。
集落でも当然火を使うが、こんなに匂ったことはない。見上げる空は枝葉に阻まれて狭い。それでも、前方からもうもうと灰色の煙が上っているのが視認できた。
「……おじい」
首に下げたお守りがじりじりと熱を持っているように感じ、服の上から強く握り込む。
これまで言いつけを破ったことはない。
言われたことには全て従ってきた。彼の言葉は正しいから。言われたことを守っていれば、どんな獣に襲われても安全だったし、厳しい冬の寒さもしのぐことができた。生きてこられた。
だから、これが初めてだ。
動いてはいけないという指示を破り、言い知れぬ予感に突き動かされるようにして、背負子を地面へ置いたまま少年は一目散に駆けだした。
煙の元は、危惧したほどの燃え方ではなかった。もしかしたら集落から火が出ているのかもしれないと思っていたのだが、小さな家屋が一件燃えているだけ。
それも、すでに黒くなり鎮火しかかっている。
離れた木々の陰からその様子を確認しても、ほっと息をつくことはできなかった。
見たことのない男たちが家々を我が物顔で行き来し、何かを運び出している。歩く中に集落の住人たちはひとりもいない。
各々が手にしているのは食糧、衣服、何か光るもの。その足元に点々と転がる長い物体。
人間の体だ。
目の前で何が起きているのか、そこでようやく理解できた。
井戸のそば、開け放たれた戸口の脇、露台の上。折り重なるように、あるいは地を這うように、そこかしこに人だったものが倒れている。
頭が割れたり腹が裂かれたり、中には弓矢が刺さっている者もいる。色濃い液体に濡れるそれらは、遠目にも絶命していることは明らかだった。
風向きが変わったのかもう煙たさは感じないけれど、体の感覚自体が鈍くなっているのかもしれない。
指先がひどく冷たくて、なのに心臓は破れそうなほど強く脈打つ。耳の奥で嵐の夜みたいな音がする。
喉がひゅうと鳴って、唾を飲み込んだ。
幸い集落から距離があるため、男たちはこちらに気づく素振りもない。藪と木々の間を縫って回り込み、素早く燃え落ちた小屋へと近づく。
その戸口には何か丸いものが落ちていた。
毎朝、毎晩と見てきた、いかつい日焼け顔。額には二箇所のくぼみがあり、怪我をしたのかと幼い頃に訊ねたら、「折られた」とだけ答えてくれた。
何でもできる、自分が知っている限り一番つよいひと。
「……、……っ!」
歯を食いしばり、声をこらえた。
口を両手でおさえ、息も飲み込み、慟哭も涙も全部まとめて押し込める。
老爺の胴体は頭のすぐそばに横たわっていたが、半ば焼け焦げた体は片腕が欠けている。残ったほうの手には薪のようなものを掴んでいた。鎌の柄かとも思ったが、やはり薪だ。
となると、この小屋に火を放ったのは彼なのかもしれない。
何のために燃やしたのだろう。
死に際に、火をつけて、燃やしたかった。……何を燃やしたかったのか、考えても思いつくものはない。
そこで、先ほど目にした煙を思い出す。
あれだけの煙なら遠くからでも目につくかもしれない。誰かに報せたかったのだろうか。報せて、助けを呼びたかったのか。何でもできるはずの彼が、助けを。
そのままじっと焦げた遺体を見つめていると、集落の一角が騒がしくなる。
隠れている木の陰から角度を変えてのぞいてみれば、荷車や肩に強奪品を積載した男たちが去って行くようだ。その中には縄で繋がれた顔見知りの女と、まだ年若い娘の姿も見えた。破れた服に乱れたままの髪、俯く顔に生気はない。
どうやらあのふたりを連れて行くつもりらしい。
他の住人たちはどうしたのだろう。下卑た笑い声を上げる男たち以外、家々はしんと静まり返ってなんの気配もなかった。
……疑問に思うまでもなく、頭のどこかで理解していた。他にはもう誰も、生きている住民はいないのだと。
「……」
薄まった煙を上げ続ける小屋を見て、転がる死体を見て、凶行に及んだ男たちを見る。
煙が消えようとしているのに、誰も助けに来る気配はない。本当に報せのための煙だったのかわからないし、誰よりも強いはずの老爺がどうしてこんな死に方をしているのか、なぜ平穏だった集落がこんな目に遭っているのかも、全然何もわからない。
それでも、自分がやるべきことだけは、その時にはっきりとわかっていた。
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※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
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