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遠い夢

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 別邸からも程近いこの場所は、ヒトの多い商店や住宅地から離れているためか、とても静かだった。
 窓の外からはたまに馬車の通る音が聞こえる程度。ゆっくりと読書をするには適しているけれど、ここで長く過ごすのは退屈かもしれない。

「もう目が覚めて元気になったと聞いたので、お見舞いに来ました。少しだけお話しをさせてもらっても構いませんか?」

「まぁ、こちらは大歓迎だよ。こんなおばあちゃんとのおしゃべりはつまらないかもしれないけど、少しと言わずゆっくりしていってちょうだいな」

 飴の欠片を頬の内側に寄せながら、リリアーナはこくりとうなずく。
 長く昏睡状態に陥った原因と思われる栞についてはふれないでおくとして、あの雑貨屋の店主であるイェーヌには他にも訊きたいこともあった。

「以前は、良い買い物をさせてもらいました。あの青いガラス鉢は兄の誕生日プレゼントに贈ったのですが、きれいだと言ってとても喜んでくれました」

「それは良かった。あの後ね、同じものがあとふたつあれば売ってくれと、使用人の方が訪ねてきたの。贈られて気に入ったから揃いのものが欲しいって。すぐにお嬢ちゃんのことだってわかったわ」

「はい。鉢を贈った次兄が、長兄とわたしへもお揃いにと。今は庭の花を植え替えて、部屋に飾っています」

 アルトバンデゥスの宝玉のような濃い青色は自分の部屋にはあまりない色だから、あれを置いてから机周りの彩りが鮮やかになった。アーロンに株分けをしてもらったナスタチウムは、もう少しすれば蕾をつける頃だろう。

「あの鉢と一緒に、骨を削った置物を買ったのですが。あれはどこから仕入れたものかわかりますか?」

「うぅん、あの並んでいる品はほとんど主人の仕入れた物だから。記録も細かくつける人じゃなかったし、ちょっとわからないねぇ」

「そうですか……」

 ベーフェッドの骨がこちら側でも手に入るようなら入手元を知りたかったが、わからないなら仕方ない。サルメンハーラを経由するなりして、たまたま流れてきた品だったのだろう。

「あ、同じような骨の置物は他にもありますか?」

「どうだろうねぇ、店の奥にも中身のわからない木箱をいっぱい積んでいるし、もしかしたらあるかもしれないけれど。あの店はもう閉じるから、何か気になる物があるなら好きに持って行って構わないよ」

「閉じる?」

 言葉を繰り返して瞬く。てっきり体調が快復してここを出たら、また店を再開するのだとばかり思っていた。

「あの店は元々、うちの主人が道楽でやっていたようなものだから。息子は結婚してイバニェスを出ているし、継いでくれるような宛てもないからねぇ。たまに行商人さんが寄ってくれたり、お嬢ちゃんみたいに珍しいものを探して街の人が見に来てくれるけど。どうもね、あそこに独りでいるのは寂しいんだよ」

「そうですか……」

 望んで店を営んでいるのでなければ、ひとりで続けるのは確かに寂しい。
 イェーヌの年齢や、近くに身内がいないことを考えると、完全な部外者であるリリアーナに言えることはなかった。続ける言葉を探しあぐねて両手の指先を握る。
 そんな様子を見た老婦人は柔らかく微笑み、ゆるく流れる雲を追うように窓の外へ顔を向ける。

「昔から客入りの良い店ではなかったけど、それでもあの人の生きている頃は、行商人さんが茶飲み話をする溜まり場になっていて、毎日それなりに賑やかで楽しかったのよ。お茶菓子を持ってくと子どもたちがつまみ食いをしたり、飼っていた猫が自分の餌はまだかと足元へねだりに来たりね」

 賑やかな商店通りからは少し外れた位置にある雑貨店。閑静な佇まいだが、所狭しと置かれた品々の片隅には、座るのにちょうど良さそうな木箱がいくつも置いてあった。方々からやってきた常連の商人たちが顔を見せ、情報を交換しながら歓談する光景が目に浮かぶ。

「……こんなことを言ったら、助けてくれた人たちや、お嬢ちゃんには失礼なんだけどねぇ。私は、あのまま眠りから覚めなくても良かったと、本当は思っているの」

「え?」

「とても、幸せな夢を見ていたわ。何かが特別なわけでもなく、あの人が生きていて息子夫婦もいて、常連さんたちがたむろして、お天気が良くて、猫が鳴いていて。焼き立てのお菓子を出したらみんながわっと手を伸ばしてくれるの。いい歳した商人さんたちが小さい子どもみたいに頬張ってねぇ、あの人がそれは自分の分だって怒ったりして。お菓子はまだまだたくさんあるのに。ふふふっ。……そんな、楽しい夢を毎日見ていたのよ」

 楽しくて、幸せで、いつまでも浸っていたいような、望んでも叶わない遠い夢。
 自分があの栞によって見せられたのとは正反対の夢だ。カミロが言っていたように、紙片の色と模様が違うせいだろうか。

「だから、ね。名残り惜しく思ってしまうの。もう二度と起き上がれなくてもいいから、ずっとあの夢をみていたかった」

 夢の続きを求めるように、空を見上げる老婦人。小さく感じたのは痩せたことよりも、生きる意欲そのものがすっかり抜け落ちてしまっているせいだ。
 かける言葉を探すリリアーナは、考えのまとまらないまま突き動かされるように口を開いた。

「身勝手なことを言うが、まだ元気でいるなら体は大事にしてほしい、と思う」

「そうだねぇ。いつまでもここでお世話になる訳にもいかないし、ちゃんとしないと周りに迷惑ばかりかけてしまう」

「そういうのではなくて……。上手く言えないのだが、生きているなら死に急ぐようなことはもったいないというか。いずれ、そのうち、終わりの時は必ず来るのだから。それまでの日々をできるだけ楽しく過ごそうと考えることは、難しいだろうか?」

 何を言っても自分の考えを押し付けるような台詞になってしまう。それでも、緩やかな死を望む彼女に何かを伝えたいと思った。

「幸せな夢の通りとまではいかないだろうけれど、せっかく助かったのだから。もう少しだけ、生きていられる時間に何かを望んでも良いのでは?」

「……」

「それでも、もし……、どうしても寂しくて、耐えられないということであれば。その時は止める言葉を持たない。あなたの命を終わらせる権利は、あなた自身にあるとわたしは思う」

 とりとめのない、拙い主観だけの言葉をどう思ったろうか。
 しばらく窓に顔を向けたまま黙っていたイェーヌは、気まずげに唇を引き結ぶリリアーナの頭へ手を伸ばす。しわだらけの細い指でしばらく髪を撫でると、息をつきながら手を下ろした。

「お嬢ちゃんはまだ小さいのに、難しいことを考えられるんだねぇ」

「あ、いや……」

「私がお嬢ちゃんくらいの歳だったら、明日は今日よりもっと良い日になると思えたかもしれない。何か楽しいことがあるかもって、期待も持てたかもしれないけど。歳を取るとね、色んなことがわかるせいで、だんだんそういうのが難しくなってしまうんだよ」

 そう言ってこちらを向くイェーヌの目は優しく細められ、そこに諦念はないように見えた。

「それでも、もしかしたらって思うことはできるかもしれないねぇ。このままじゃ、たまに寄ってくれる商人さんたちを寂しがらせてしまうし、何よりあの人は道楽者だったから。本当なら、うんと長生きして趣味に明け暮れたかったはずなんだ。私がずるをして早くに会いに行こうものなら、「何てもったいないことを!」って怒られちまいそうだよ」

 楽しそうに笑いをこぼす老婦人につられて、こちらも笑いが漏れる。
 あんな訳の分からない品ばかり蒐集して店を開いていた変わり者の店主、生きている間に一度会ってみたかった。趣味人と言えば、曾祖父のエルネストもだ。なかなか愉快な人物だったと聞いているし、サーレンバー領のクラウデオともじっくり本の話をしたかった。
 自分がもう少し早く生まれていたら、もしくは、彼らが生き永らえていてくれたら。そんな仕方のないことを思ってしまう。

 ヒトの命はあまりに脆く、短い。
 普通に生きる者たちの命の脆さを、自分はもう知っている。以前であれば、その弱い生命をどう守るかということばかり考えていたけれど、今は短い生をどう生きるか、その中身について思いを馳せることができる。
 一回死んで、生まれ直して成長したのだ。
 このリリアーナの体が何歳まで生きられるのかはまだわからないが、なるべく内容を濃く、楽しみ尽してから死にたい。以前ほど長く生きられないとしても、それなら悔いはないように思うから。

 小さく笑うイェーヌの目尻が濡れているのを見て、骨と血管の浮き出た手にリリアーナは自分の手をそっと重ねる。
 香茶味の飴は、いつの間にか口の中から消えていた。

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