299 / 431
遠い夢
しおりを挟む別邸からも程近いこの場所は、ヒトの多い商店や住宅地から離れているためか、とても静かだった。
窓の外からはたまに馬車の通る音が聞こえる程度。ゆっくりと読書をするには適しているけれど、ここで長く過ごすのは退屈かもしれない。
「もう目が覚めて元気になったと聞いたので、お見舞いに来ました。少しだけお話しをさせてもらっても構いませんか?」
「まぁ、こちらは大歓迎だよ。こんなおばあちゃんとのおしゃべりはつまらないかもしれないけど、少しと言わずゆっくりしていってちょうだいな」
飴の欠片を頬の内側に寄せながら、リリアーナはこくりとうなずく。
長く昏睡状態に陥った原因と思われる栞についてはふれないでおくとして、あの雑貨屋の店主であるイェーヌには他にも訊きたいこともあった。
「以前は、良い買い物をさせてもらいました。あの青いガラス鉢は兄の誕生日プレゼントに贈ったのですが、きれいだと言ってとても喜んでくれました」
「それは良かった。あの後ね、同じものがあとふたつあれば売ってくれと、使用人の方が訪ねてきたの。贈られて気に入ったから揃いのものが欲しいって。すぐにお嬢ちゃんのことだってわかったわ」
「はい。鉢を贈った次兄が、長兄とわたしへもお揃いにと。今は庭の花を植え替えて、部屋に飾っています」
アルトバンデゥスの宝玉のような濃い青色は自分の部屋にはあまりない色だから、あれを置いてから机周りの彩りが鮮やかになった。アーロンに株分けをしてもらったナスタチウムは、もう少しすれば蕾をつける頃だろう。
「あの鉢と一緒に、骨を削った置物を買ったのですが。あれはどこから仕入れたものかわかりますか?」
「うぅん、あの並んでいる品はほとんど主人の仕入れた物だから。記録も細かくつける人じゃなかったし、ちょっとわからないねぇ」
「そうですか……」
ベーフェッドの骨がこちら側でも手に入るようなら入手元を知りたかったが、わからないなら仕方ない。サルメンハーラを経由するなりして、たまたま流れてきた品だったのだろう。
「あ、同じような骨の置物は他にもありますか?」
「どうだろうねぇ、店の奥にも中身のわからない木箱をいっぱい積んでいるし、もしかしたらあるかもしれないけれど。あの店はもう閉じるから、何か気になる物があるなら好きに持って行って構わないよ」
「閉じる?」
言葉を繰り返して瞬く。てっきり体調が快復してここを出たら、また店を再開するのだとばかり思っていた。
「あの店は元々、うちの主人が道楽でやっていたようなものだから。息子は結婚してイバニェスを出ているし、継いでくれるような宛てもないからねぇ。たまに行商人さんが寄ってくれたり、お嬢ちゃんみたいに珍しいものを探して街の人が見に来てくれるけど。どうもね、あそこに独りでいるのは寂しいんだよ」
「そうですか……」
望んで店を営んでいるのでなければ、ひとりで続けるのは確かに寂しい。
イェーヌの年齢や、近くに身内がいないことを考えると、完全な部外者であるリリアーナに言えることはなかった。続ける言葉を探しあぐねて両手の指先を握る。
そんな様子を見た老婦人は柔らかく微笑み、ゆるく流れる雲を追うように窓の外へ顔を向ける。
「昔から客入りの良い店ではなかったけど、それでもあの人の生きている頃は、行商人さんが茶飲み話をする溜まり場になっていて、毎日それなりに賑やかで楽しかったのよ。お茶菓子を持ってくと子どもたちがつまみ食いをしたり、飼っていた猫が自分の餌はまだかと足元へねだりに来たりね」
賑やかな商店通りからは少し外れた位置にある雑貨店。閑静な佇まいだが、所狭しと置かれた品々の片隅には、座るのにちょうど良さそうな木箱がいくつも置いてあった。方々からやってきた常連の商人たちが顔を見せ、情報を交換しながら歓談する光景が目に浮かぶ。
「……こんなことを言ったら、助けてくれた人たちや、お嬢ちゃんには失礼なんだけどねぇ。私は、あのまま眠りから覚めなくても良かったと、本当は思っているの」
「え?」
「とても、幸せな夢を見ていたわ。何かが特別なわけでもなく、あの人が生きていて息子夫婦もいて、常連さんたちがたむろして、お天気が良くて、猫が鳴いていて。焼き立てのお菓子を出したらみんながわっと手を伸ばしてくれるの。いい歳した商人さんたちが小さい子どもみたいに頬張ってねぇ、あの人がそれは自分の分だって怒ったりして。お菓子はまだまだたくさんあるのに。ふふふっ。……そんな、楽しい夢を毎日見ていたのよ」
楽しくて、幸せで、いつまでも浸っていたいような、望んでも叶わない遠い夢。
自分があの栞によって見せられたのとは正反対の夢だ。カミロが言っていたように、紙片の色と模様が違うせいだろうか。
「だから、ね。名残り惜しく思ってしまうの。もう二度と起き上がれなくてもいいから、ずっとあの夢をみていたかった」
夢の続きを求めるように、空を見上げる老婦人。小さく感じたのは痩せたことよりも、生きる意欲そのものがすっかり抜け落ちてしまっているせいだ。
かける言葉を探すリリアーナは、考えのまとまらないまま突き動かされるように口を開いた。
「身勝手なことを言うが、まだ元気でいるなら体は大事にしてほしい、と思う」
「そうだねぇ。いつまでもここでお世話になる訳にもいかないし、ちゃんとしないと周りに迷惑ばかりかけてしまう」
「そういうのではなくて……。上手く言えないのだが、生きているなら死に急ぐようなことはもったいないというか。いずれ、そのうち、終わりの時は必ず来るのだから。それまでの日々をできるだけ楽しく過ごそうと考えることは、難しいだろうか?」
何を言っても自分の考えを押し付けるような台詞になってしまう。それでも、緩やかな死を望む彼女に何かを伝えたいと思った。
「幸せな夢の通りとまではいかないだろうけれど、せっかく助かったのだから。もう少しだけ、生きていられる時間に何かを望んでも良いのでは?」
「……」
「それでも、もし……、どうしても寂しくて、耐えられないということであれば。その時は止める言葉を持たない。あなたの命を終わらせる権利は、あなた自身にあるとわたしは思う」
とりとめのない、拙い主観だけの言葉をどう思ったろうか。
しばらく窓に顔を向けたまま黙っていたイェーヌは、気まずげに唇を引き結ぶリリアーナの頭へ手を伸ばす。しわだらけの細い指でしばらく髪を撫でると、息をつきながら手を下ろした。
「お嬢ちゃんはまだ小さいのに、難しいことを考えられるんだねぇ」
「あ、いや……」
「私がお嬢ちゃんくらいの歳だったら、明日は今日よりもっと良い日になると思えたかもしれない。何か楽しいことがあるかもって、期待も持てたかもしれないけど。歳を取るとね、色んなことがわかるせいで、だんだんそういうのが難しくなってしまうんだよ」
そう言ってこちらを向くイェーヌの目は優しく細められ、そこに諦念はないように見えた。
「それでも、もしかしたらって思うことはできるかもしれないねぇ。このままじゃ、たまに寄ってくれる商人さんたちを寂しがらせてしまうし、何よりあの人は道楽者だったから。本当なら、うんと長生きして趣味に明け暮れたかったはずなんだ。私がずるをして早くに会いに行こうものなら、「何てもったいないことを!」って怒られちまいそうだよ」
楽しそうに笑いをこぼす老婦人につられて、こちらも笑いが漏れる。
あんな訳の分からない品ばかり蒐集して店を開いていた変わり者の店主、生きている間に一度会ってみたかった。趣味人と言えば、曾祖父のエルネストもだ。なかなか愉快な人物だったと聞いているし、サーレンバー領のクラウデオともじっくり本の話をしたかった。
自分がもう少し早く生まれていたら、もしくは、彼らが生き永らえていてくれたら。そんな仕方のないことを思ってしまう。
ヒトの命はあまりに脆く、短い。
普通に生きる者たちの命の脆さを、自分はもう知っている。以前であれば、その弱い生命をどう守るかということばかり考えていたけれど、今は短い生をどう生きるか、その中身について思いを馳せることができる。
一回死んで、生まれ直して成長したのだ。
このリリアーナの体が何歳まで生きられるのかはまだわからないが、なるべく内容を濃く、楽しみ尽してから死にたい。以前ほど長く生きられないとしても、それなら悔いはないように思うから。
小さく笑うイェーヌの目尻が濡れているのを見て、骨と血管の浮き出た手にリリアーナは自分の手をそっと重ねる。
香茶味の飴は、いつの間にか口の中から消えていた。
0
お気に入りに追加
234
あなたにおすすめの小説
記憶がないので離縁します。今更謝られても困りますからね。
せいめ
恋愛
メイドにいじめられ、頭をぶつけた私は、前世の記憶を思い出す。前世では兄2人と取っ組み合いの喧嘩をするくらい気の強かった私が、メイドにいじめられているなんて…。どれ、やり返してやるか!まずは邸の使用人を教育しよう。その後は、顔も知らない旦那様と離婚して、平民として自由に生きていこう。
頭をぶつけて現世記憶を失ったけど、前世の記憶で逞しく生きて行く、侯爵夫人のお話。
ご都合主義です。誤字脱字お許しください。
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。
婚約破棄られ令嬢がカフェ経営を始めたらなぜか王宮から求婚状が届きました!?
江原里奈
恋愛
【婚約破棄? 慰謝料いただければ喜んで^^ 復縁についてはお断りでございます】
ベルクロン王国の田舎の伯爵令嬢カタリナは突然婚約者フィリップから手紙で婚約破棄されてしまう。ショックのあまり寝込んだのは母親だけで、カタリナはなぜか手紙を踏みつけながらもニヤニヤし始める。なぜなら、婚約破棄されたら相手から慰謝料が入る。それを元手に夢を実現させられるかもしれない……! 実はカタリナには前世の記憶がある。前世、彼女はカフェでバイトをしながら、夜間の製菓学校に通っている苦学生だった。夢のカフェ経営をこの世界で実現するために、カタリナの奮闘がいま始まる!
※カクヨム、ノベルバなど複数サイトに投稿中。
カクヨムコン9最終選考・第4回アイリス異世界ファンタジー大賞最終選考通過!
※ブクマしてくださるとモチベ上がります♪
※厳格なヒストリカルではなく、縦コミ漫画をイメージしたゆるふわ飯テロ系ロマンスファンタジー。作品内の事象・人間関係はすべてフィクション。法制度等々細かな部分を気にせず、寛大なお気持ちでお楽しみください<(_ _)>
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
夫から国外追放を言い渡されました
杉本凪咲
恋愛
夫は冷淡に私を国外追放に処した。
どうやら、私が使用人をいじめたことが原因らしい。
抵抗虚しく兵士によって連れていかれてしまう私。
そんな私に、被害者である使用人は笑いかけていた……
【完結】婚約破棄されて修道院へ送られたので、今後は自分のために頑張ります!
猫石
ファンタジー
「ミズリーシャ・ザナスリー。 公爵の家門を盾に他者を蹂躙し、悪逆非道を尽くしたお前の所業! 決して許してはおけない! よって我がの名の元にお前にはここで婚約破棄を言い渡す! 今後は修道女としてその身を神を捧げ、生涯後悔しながら生きていくがいい!」
無実の罪を着せられた私は、その瞬間に前世の記憶を取り戻した。
色々と足りない王太子殿下と婚約破棄でき、その後の自由も確約されると踏んだ私は、意気揚々と王都のはずれにある小さな修道院へ向かったのだった。
注意⚠️このお話には、妊娠出産、新生児育児のお話がバリバリ出てきます。(訳ありもあります)お嫌いな方は自衛をお願いします!
2023/10/12 作者の気持ち的に、断罪部分を最後の番外にしました。
2023/10/31第16回ファンタジー小説大賞奨励賞頂きました。応援・投票ありがとうございました!
☆このお話は完全フィクションです、創作です、妄想の作り話です。現実世界と混同せず、あぁ、ファンタジーだもんな、と、念頭に置いてお読みください。
☆作者の趣味嗜好作品です。イラッとしたり、ムカッとしたりした時には、そっと別の素敵な作家さんの作品を検索してお読みください。(自己防衛大事!)
☆誤字脱字、誤変換が多いのは、作者のせいです。頑張って音読してチェックして!頑張ってますが、ごめんなさい、許してください。
★小説家になろう様でも公開しています。
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる