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悪の花蕾②

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 昨日のレオカディオと同じように少し待ってはノックしてを繰り返すうち、四回目のノックで扉が中から開かれた。
 応対に出たのはやはり黒鎧の男で、何も言わずにじっとリリアーナを見下ろす。
 昨日も室内に他の使用人の姿を見かけなかったが、この屋敷の令嬢はそばに世話役の侍女を置いていないのだろうか。

「クストディア様と本のお話がしたくて参りました、入室してもよろしいでしょうか?」

「……」

 そう訊ねても返答はないが、黙ったまま扉を大きく開けるので、おそらく「中に入れ」ということだろう。
 足を踏み入れた部屋は昨日と変わらず物だらけだ。見上げるほど積まれた紙包みに調度品、謎の置物などが所狭しと置かれて、奥にいるであろう部屋の主の姿が全く見えない。
 様々な物品の間を縫うように進む黒鎧の後について、それらを眺めながら歩く。大人ほどの背丈があればもう少し見晴らしが良いのかもしれない。
 立ち並ぶ石膏の胸像に大きな瓶詰、細い竹を編んだチェスト。前回通ったのとは別のルートを進んだ先、細かな刺繍のラグが敷かれた一帯だけ空間がひらけていた。

「本当にまた来たのね、厚かましい子だこと」

「ごきげんようクストディア様。お読みになられた本や、お手持ちの脚本などについてお話がしたくて参りました」

 型通りの礼をして顔を上げる。クストディアは昨日とは違うソファに腰をかけ、半ば寝そべる体勢でくつろいでいた。そばのローテーブルには卓上遊戯のボードと駒が置かれているから、ひとりで指し手を楽しんでいたのかもしれない。
 昨日と同じように、ここまで案内してきた黒鎧はソファの斜め横に控える。

「まぁ、別に暇だからいいけれど。今日はひとりなのね?」

「はい。兄は外にご用があるとのことで、先ほど出かけて行きました」

「八方美人の噂は聞いているわ、まったく、手広くて結構だこと。……それで? 本や脚本の話をしに来たってことは、昨日あげた写しはもう読んだのかしら?」

「それが……こちらのお部屋から戻る途中で、当家の文官に没収されてしまいました。せっかく譲って頂いたのに申し訳ありません」

「それは残念だったわねぇ」

 からからとおかしそうに笑うクストディアは組んでいた足を組み替え、テーブルから淡い青色のグラスを手に取った。リリアーナを客と認識していないのか、居住まいを正す気はないらしい。

「はい、本当に残念です。それで、もしよろしければ他のご本や脚本を見せて頂けないかと思いまして」

「あらそう、じゃあ次はもっと過激なものにしようかしらね」

「過激? 何でも読むので描写も文体も、内容も特に苦手はありません。創作ではなく自伝や手記なんかでも良いのですが……あ、クストディア様は『勇者』エルシオンを描いた、劇の脚本などお持ちではありませんか?」

 エルシオンの活躍が書かれた伝記は稀覯本となっているそうだが、演劇や詩の形で伝わっているものもあるとアダルベルトが語っていた。娯楽用に多少内容に脚色が加わっているとしても、全くの創作でないなら確かめてみる価値はある。
 そんな思いつきから訊ねてみると、クストディアはグラスを傾けながら値踏みするような流し目を返す。

「『勇者』の劇に興味があるの?」

「はい」

「ふぅん。じゃあ見せてあげない」

「え?」

 興味があるかと訊かれ、それに肯定を返したのに「見せてあげない」に続く理由がわからなくて、ぽかんとしてしまう。
 口振りからして所持はしている様子だが、当人が見せないと言うなら仕方ないだろう。何だか釈然としないものはあるけれど、無理を押すことはできないから大人しく引き下がろう。

「ふふ、間抜け顔。また来たのはあなたの勝手よ、私は別に手持ちの脚本を見せてあげるなんて約束はしていないでしょう?」

「そうですね。では本についてのお話も気乗りはしませんか?」

「しないわ」

 取り付く島もないといった様子だ。あまり歓迎されていないのは薄々感じていたが、これでは対話による相互理解すら覚束ない。もしかしたら本当に、カステルヘルミの言うような「意地悪」をされているのだろうか。子どもらしい憎まれ口くらいは流せても、刺々しい態度がいまいち腑に落ちない。
 ともあれ、用件は済んでしまった。ここまで赴いた目的が全て潰えた以上は長居する理由もなく、手を揃えて軽い礼を向ける。

「それでしたら、わたしはこれで失礼します。おくつろぎの最中にお邪魔して申し訳ありませんでした」

「あら、つまんないわね。本だけが目的だったの?」

「本を見せてもらえたら嬉しいと思って来たのは事実です。あと、昨日譲って頂いた写しが手元を離れてしまったので、それをお伝えする義務があるかと。……本はブエナペントゥラ様が書斎を開放して下さるそうですから、そちらで読むことにします」

 朝食の席で貰った書斎閲覧の許可について口にすると、クストディアは嘲るように目を細めて笑った。

「やぁだ、うちの祖父を誑かしたの? 隣領まで来てよくやるわ、あの兄にしてこの妹ありね。その歳でもう男に媚を売ることなんか覚えて」

「きちんとお願いをしただけです」

 リリアーナがその答えを言い終わる前に、クストディアは手にしていた空色のグラスを投げつけた。
 振りかぶった時点ですでに構成の準備はできていたため、リリアーナの体にふれる寸前で割れたグラスは中身の液体ごと跳ね返される。
 破砕音とともに足元に敷かれたラグの上に破片がばら撒かれ、果実水らしき薄紫の染みが広がった。

「その顔で頼めば、何でも思い通りになると思ってるんでしょう。ちやほや育てられて、愛されることしか知らない馬鹿な娘。これまで生きてきて嫌われた経験なんてないでしょ、良かったわね、教えてあげるわ、私はあなたのこと大嫌いよ!」

「好き嫌いは個人の勝手です。どう思うのも構いませんが、他者の耳がある所では言わないほうが良いかと。領同士の関係に影響するといけません。……先ほど退室した侍女にも、こんな風に香茶の入ったカップを投げつけたのですか?」

 クストディアはローテーブルに置かれた駒をひと掴みにして乱暴に投げ、手で払うようにして遊戯盤まで飛んできた。
 その全ては不可視の防壁に当たり、リリアーナを傷つけることなくばらばらとラグの上に転がり落ちる。

「賢い子ぶって、そういうところが嫌いだって言ってるの。あんたの幸せしか知らない顔見てるだけで吐き気がするわ。なんで、なんでいるのよ、あんたなんて生まれてこなければ良かったのに!」 

 子どもの癇癪だと思って物を投げつける乱暴は大人しく受け流したが、その言葉にはさすがに驚く。
 久しく目の当たりにすることのなかった、怨嗟の籠もった昏い眼差し。
 リリアーナとして生を受けてからの八年間、憎しみとか恨みだとかいう、明確な負の感情を向けられるような機会など全くなかったから、理性とは別のどこかがその目に怯む。

 ――なぜ、そんなに?
 まだ顔を合わせて二日目だ、サーレンバー領の令嬢にそこまで憎まれるような覚えがない。

「ふん、間抜け顔。あんたの顔なんて一生見たくなかったわ。今さらのこのこと顔を出して何様のつもりよ、ファラムンドだって三年前に死んでしまえば良かったのに。どうしてまだ生きてるのよ、あの領道で、落石に潰されて死んじゃえば良かったのに!」


  パリンッ


 すぐ横に立てかけられていた姿見が爆ぜた。

「な、何っ?」

 ワンピースの裾に降りかかったガラスの破片を払うのも後回しにして、閉じた目を手のひらで覆う。
 虹彩がきつく引き絞られるような感覚。眼球の奥が痛む。
 心臓の拍動が大きい。内臓が縮んで重くなる感覚に息が詰まる。
 耳の中でどくどくと血流の音がうるさくて、自身でも頭に血が上っているのがわかった。

 こんな、聞くに耐えない言葉を浴びせられただけで怒ってどうする。そこまで憤る必要はない。こんなのは、ただの子どもの癇癪だ。酷いことを言われたからってどうなるわけでもない。聞き流してしまえばいい。大丈夫だ、ファラムンドは無事だった。落ち着け、ゆっくり、息を――


「……っ、はぁ」

 意識して呼吸を落ちつけ、冷静さを呼び戻す。
 手を下ろして目蓋を開けると、ソファの前には黒鎧が庇うように屈み込み、その向こうで上体を起こしたクストディアがこちらを睨みつけていた。

「なぁんだ、泣いているのかと思ったのに」

「泣きはしない。腹を立てていただけだ。そちらも冷静さを取り戻したなら、先ほどの言葉の撤回を求める」

「撤回? するわけないでしょ馬鹿じゃないの。何なの偉そうな口をきいて、年上の敬い方がなってないんじゃなくて? ちょっとからかうだけにしてあげようと思ったのに、やめたわ。泣いて謝るまでここから出してやるものですか。シャム、その子を捕まえて頭を床に押さえつけなさい!」

 主に命じられるがまま、黒鎧は関節部の擦れる金属音をたてながらその場に立ち上がった。

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