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稀覯本
しおりを挟む廊下で護衛の任についていると言って、キンケードとテオドゥロは部屋を出て行った。続いて案内役の侍女も深く腰を折ってから退室する。
予定通りであればこの後の晩餐会に備えて身支度などをする必要もあったが、それがなくなり、クストディアから譲られた脚本を読もうと思っていたのにそれも没収され、やることが全部消えてしまった。
せっかく異郷まで来てぼんやり過ごすのも何だから、ひとまず室内の調度品でも見て回ろうか。
「さてと。リリアーナ様、まずはお着替えしますか?」
「着替え? 晩餐会はなくなったのに、また着替えるのか?」
サーレンバー邸での初顔合わせと挨拶に備え、予め馬車の中でも旅装からの着替えを済ませていた。
普段着よりも上等な布地で縫われたワンピースは肌触りが良く、レースの類もふんだんに使われている。このサーレンバー訪問のために新しく仕立てられた品だ。
五歳記用に作られた藍色の衣服はあれきり着る機会がなかったから、せめてこちらは何度か着用できればと思う。
「今日はもうお部屋から出る用事もないですし、部屋着に着替えてゆっくりなさいませんか? 襟とか袖とかピシッとしてて、ちょっと窮屈でしょう?」
「あぁ、そういうことか。たしかに、部屋着代わりにするようなものではなかった」
促されるまま奥の部屋へ移動してフェリバに着替えを手伝ってもらい、ついでに髪を飾っていたリボンを解いてしまうと、途端に両肩が軽くなった。
さほど片肘張っているつもりはなかったのだが、やはり多少の緊張はあったのかもしれない。
割り当てられた室内には自分の他にフェリバとカステルヘルミ、それといつの間にか合流していたエーヴィの三名が残されている。キンケードの言う通り女ばかりだが、廊下で彼らが見張っているなら何があっても安心だ。たとえ窓から侵入されても、いざという際には自分とアルトがいればどうとでもなる。
テラスを望むソファセットに腰を落ち着け、そわそわと所在なげにしているカステルヘルミを手招きして呼び寄せた。
「夕食までは特にすることもないし、まぁ気楽にしているといい。こんな時まで訓練を続けろなんて言いはしないから」
「ふふ、ではお言葉に甘えまして」
ゆったりとした所作で斜め向かいに腰を下ろしたカステルヘルミは、背もたれに軽く体重を預けて長い息をついた。
ここへ着いてから終始緊張しているのが見て取れたが、クストディアの部屋を辞した後からさらに表情が強張って顔色も優れなかった。自身とは全く関係のない場所へ連れて来られた上、見ず知らずの貴公位の屋敷だ。振る舞いに失礼がないよう、ずっと気を張っていたのかもしれない。
「もし具合が悪いなら、夕食の支度が済むまで休んでいて良いのだぞ?」
「え? いえ、体調に問題はありませんわ。お気遣いありがとうございます。わたくしなどより、お嬢様のほうがよほどお疲れなのではなくて?」
「んー、まぁ、少しだけ、慣れない場所で気疲れしたようだ。せっかく貰った脚本の写しも没収されてしまったし。……ああ、別に先程の当てつけではないぞ。明日になったらクストディアに他の本を見せてもらえないか頼んでみるつもりだし、この屋敷にも立派な書斎があるとカミロから聞いている」
興味の度合いとしては、歌劇の鑑賞よりもむしろそちらに釣られて来たようなものだ。イバニェスの屋敷にも比肩し得る蔵書量だと言うし、折を見てブエナペントゥラに頼んでみようと思っている。
それに、もしかするとここの書斎になら、探している本が眠っているかもしれない。
「あの脚本の劇は、以前わたくしも観賞したことがございます。多少は劇団によって解釈の差異があるとしても、やはりお嬢様がご覧になられるには不適切だと思いますわ」
「別にどんな内容でも気にしないんだがなぁ」
「気に……するとしたら周りの大人ですわね。ええ。倫理的にも道徳的にも、お止めしないわけには」
「ああ。没収には納得できなくとも、皆がわたしの為を思ってそうしていることは理解している。誰も責めたりしないから、そう消沈するな」
肩を落とすカステルヘルミに片手を振って見せると、困ったような微笑が返ってきた。いつも何かと騒がしい子どものような女だが、こうしているとちゃんと年相応の大人らしくも見える。
「こちらのご令嬢から譲られたと仰っておいででしたけど、わかっていてあれをお渡しになったのだとしたら……こう言っては何なのですが、お嬢様、もしかして意地悪されたのではありませんこと?」
「本を譲ってくれることが意地悪なものか。他人から本を貰うなんて初めてだったから、わたしは嬉しかったんだ」
本を貰えたことを喜び、その直後に没収されて気落ちすることまで狙っていたのだとしたら、確かに意地悪と言えるかもしれない。だが、さすがにそこまで悪辣なことは考えていないだろう。
「わたしが興味を持ったのを見て譲ってくれたんだぞ。まだ嫌がらせを受けるほどの知り合いではないし、他意はないんじゃないか?」
「そうなら良いのですけど……」
未だ釈然としない様子でうなずくカステルヘルミ。
どうも元気のない様子が気になるが、本人が問題ないと言うならこれ以上ふれる必要はないと判断する。
会話が途切れたところで、フェリバが香茶を持ってきた。いつもと少し違う香りが漂っているのは、部屋に準備されていた茶葉を使ったためだろうか。
いくつも瓶を開けるような音がしていたから、おそらく全ての茶葉の確認と毒見などをしていたのだろう。イバニェスの屋敷でも日々あれだけ厳重にしていたのだ、外出先では更なる注意が求められる。
末娘の自分を毒殺することに何の利があるのかとも思うけれど、可能性がわずかにでもある限りは備えないわけにもいかない。
相手にどんな思惑があるのか、何を思って他者を害そうとするかなんて、被害を被る側には想像もつかない場合があることを、自分はもう知っている。
……あまり良くない生前の記憶が浮上する前に、そっと目を閉じてふたをした。
今回のサーレンバー領訪問において、リリアーナに求められているのは三点。
イバニェス領を再訪すると思われる『不審者』を突き止めるまで、身の安全が保証された場所で大人しくしていること。
それと、部屋へ籠りがちの令嬢クストディアの話し相手をして、無聊の慰めとなること。
三つめは招待を受けているという話が出た時から聞いていた、歌劇の鑑賞。良質な芸術にふれて今後の糧とすることだ。
父や兄のように政務に関わる動きが取れない以上、余計なことはせずそれらをこなすべきだろう。最たる目的の避難に関しては、そもそもの原因が自身にあるのだから否やはない。
あと、もう一点。ここで大人しくしている代わりに、やるべきことにひとつ付け加えた個人的な目的が、サーレンバー領主邸の蔵書についてだ。
屋敷の書斎と、クストディア個人所有の書籍、それらを見せてもらうことが大きな目的のひとつとなっている。
イバニェスの屋敷の書斎には置かれておらず、そのジャンルを好んで読むアダルベルトすらも手にしたことがないという、『勇者』エルシオンの旅を描いた冒険譚。
何らかの理由で出版後すぐに回収され、絶版となったままだというその本が、もしどこかに現存するなら情報収集の一環に読んでおきたい。
そう思ってそれとなくカミロにも訊ねてみたのだが、やはり見たこともないという回答だった。
おそらく出版から三十年以上は経っている。もし当時読んだことがある、もしくは入手したことがあるとしたら、カミロよりもっと高齢の人物でないと可能性は薄い。
アダルベルトから話を聞いた後、翌日にあった歴史の授業でさっそく教師にも『勇者』エルシオンの本についてたずねてみた。
『勇者』好きな教師はすぐに話に食いついてきたが、やはり当該の本は読んだことがないと言う。
読書好きだった祖父は発行当時に一度読んだと聞いているが、中身はこれまでの『勇者』の冒険譚と変わりなかったから、どの部分が理由で回収されたのかはわからない。生きている間に自分も読んでみたいが、値がつけられないほどの稀覯本となっているため手が出ない。――と、心底悔しそうに語ってくれた。
読みたいのに読めない、その歯痒さはよく理解できる。現存するかも怪しいけれど、もし入手が叶った際には彼にも読ませてやりたいものだ。
その教師の見解では、一度出版された書籍が回収なんて余程のことだから、きっと出版元も書店も逆らえないような上のほう、聖堂もしくは王城からのお達しではないか、という話だった。
そうして市井に残されている可能性が低いと聞かされた時は、それなら仕方ないと一度諦める気になったものの、後になって「上からのお達し」が通じない場所にならまだあるのではという可能性に思い至った。
それが、貴公位の個人蔵書だ。
もっとも、ブエナペントゥラ伯が読書好きだとか、『勇者』の冒険譚を好んでいるなんて話はこれまで全く聞かないから、正直そんなに期待はしていない。あくまで残されている可能性があるとしたら、の話だ。
「リリアーナ様、お疲れなら少しベッドで横になりますか?」
「ん? ……いや、大丈夫。お茶を飲んで少しゆっくりするだけでいい」
フェリバの声に、ゆるく閉じていた目蓋を開けた。すっかり思考に沈んでいたから、声をかけられなかったらそのまま眠っていたかもしれない。
用意された香茶に口をつけて、しばらく淡い甘さとその奥にある苦みを堪能する。温かいお茶に溜まった疲れが溶け出していくようだ。
「はぁ。明日以降もこうして手持ち無沙汰になるのは困るから、やはりここの蔵書を見せてもらうのが一番だな。朝食の際にでもおじい様に頼んでみよう」
「リリアーナ様は、ほんとに本を読むのがお好きですねー」
「本を読む行為が好きというか、自分の知らない知識を新たに得るのが楽しいな。何か、こう、埋まっていく感じがするだろう?」
「するだろう? って言われても、わかりませんよぅ」
眉を下げて笑うフェリバと一緒に、カステルヘルミもおかしそうに笑い出した。何となくそれにつられて、大しておかしいわけでもないのに自分まで笑ってしまう。
本を読むことに没頭するのも心地よいが、今はこうしたぬるま湯のような時間も好ましい。
夕食の準備が整ったとの知らせが届くまでの間、そのまま三人で取りとめもない雑談をして過ごした。
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