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リリアーナ師匠の魔法講座②
しおりを挟むイバニェス邸の裏庭、木製の柵が並ぶ一角は青々とした低木が生い茂っており、乗馬訓練や剣の稽古などが行われる草原のようなエリアとの境になっている。
雨の季の終わりはもうすぐそこ。今の時期はクチナシの花が一斉に咲いて、敷地中に甘く濃厚な香りを放っていた。中庭を歩いても微かに香っていたが、こうして近くまで来てみれば、空気そのものに匂いがついているかと惑うほど芳しい。
芳醇で瑞々しい、果物を思わせるその甘い香りをリリアーナは気に入っていた。
とはいえ、裏庭まで出てくることは稀だ。普段の散歩は幼い頃より中庭で済ませてきたし、こちらには眺めて楽しむほどの植物は植えられていない。
知っている範囲ではこのクチナシと、陽の季の手前に賑やかな花を咲かせるツツジ、アベリアくらいなもの。……いずれも図鑑と庭師による知識だが。
低木が多いのは、表の広大な庭と違って目隠しの役割が必要ないためだろう。端のほうには野苺なども群生していると聞くが、まだそこまで行ったことはない。
「小さな花なのに、よくこれほど主張の激しい香りを放つものだ」
「ふぉふぉふぉ、リリアーナお嬢様にそっくりですな」
「む、似ているか?」
細い花弁を開いている小振りな花をじっと観察しても、自分との共通点は判然としない。
そんな様子がおかしかったのか、アーロンは柄の長いほうきを片手に、帽子をかぶり直しながら朗らかに笑っていた。
いつの間にか足元まで丸印の群れが迫っていたので、一際大きなクチナシの木のそばまで移動する。
「……やはりこの辺だけ育ちがいいな。わずか三年でここまで差が出るとはなぁ」
「ええ、お嬢様にいただいた、あの何とかという骨を砕いて撒いただけなのですが。陽の季の間に、葉をいっぱいに開いてよく日を浴びていたせいか、香りも他の木より濃いのですよ」
アーロンへ肥料の足しにと手渡したのは、かつてコンティエラの街へ下りた際に雑貨店で入手した骨の置物だ。
ベーフェッドという大型の草食魔物で、性格は温厚ながら、全身のどこを取っても素材に使えるという大変優秀な生き物。話に聞くには肉もうまいらしい。一度くらい食べてみればよかった。
普段はベチヂゴの森の奥深くに生息しているため、部位に関わらずヒトの領域では早々流通はしていないだろう。
現に物知りなアーロンですら、その名前も知らなかった。
「またあの店へ行ける機会があれば、在庫や入手経路を訊ねてみたいものだが。早く外出許可が下りるといいな……」
「お外は何かと危のうございますからな。旦那様方も、リリアーナお嬢様のことを心配されてのことでしょう」
「うん。勿論それは、わかっている」
自分が外出するとなれば、世話をする侍女と護衛もつけなければならない。馬や馬車の手配も要るし、予定を空けるために授業の調整なども必要となる。
ただちょっと街へ行くだけでも、たくさんのヒトへ手間をかけることになる。それを窮屈と思わないでもないが、身の上を思えば仕方のないことだ。
……領主の娘。その立場のお陰でおいしいものを食べられて、寝床にも着るものにも困らない。領民には手の届かないような本を書斎で存分に読むこともできる。
多少の不自由くらいは、享受しているものの対価として我慢するべきだろう。
そうこうしていると、また足元まで丸印が迫ってきた。
アーロンは古いものからせっせとほうきで消していくが、描いている本人が無軌道に移動していてはその意味もない。
リリアーナは大きく嘆息しながら斜め後ろを振り返った。
「なぜこちら側へ回り込んでくるんだ、横方向へ移動しろ。わたしの散策の邪魔をするな」
「そ、そんなこと仰いましても、難しいですわ。あと、腰が、腰が痛くてもうダメです、そろそろ休憩をっ!」
「若いのに根性のないやつめ、平行して体力もつけないと使い物にならないな。トマサにでも預けるか」
地面にうずくまったまま、涙目でこちらを見上げるカステルヘルミ。
その周囲は木の枝で描かれた丸印で埋まっている。どれもこれも不格好に歪んでおり、とても円とは言えない。
リリアーナはその手から枝を抜き取って、自分の足元へ無造作に円を描く。
始点と終点はきっちりと合わさり、枝を持ち上げる時に跳ねた土がわずかばかりそれを乱す。
「ほっぁぁ! 何で、どうしてそんな綺麗な丸が描けるんですのっ!?」
「ちゃんと真円を思い描いていれば、手で描くくらいは造作もない。お前は器用さ以前に雑念が多すぎるんじゃないのか、ちゃんと頭の中へ浮かべた円を視界に投影しているか?」
「うぅぅ、簡単に仰ることが、簡単にできたら苦労しませんわ……」
「それができなかろうと、土と枝でももうちょっとマシな円を描けるはずだろう。及第点を出せるまではここで授業だ、紙とインクがもったいない」
「ひぃぅぅ、腰がぁぁ……」
さめざめと文句を垂れながらも、カステルヘルミは体勢を変えて地面に丸を描く作業へと戻っていった。
口では何だかんだ言いながら、命じたことは投げ出さない。できない、わからないと漏らしてはいても、手だけはきちんと動かしている。
元々勤勉な性格なのだろう。魔法師としても、教えを受ける側としても素質自体は悪くないと思われる。
ただし、今のところその成果は全くというほど出てはいないが。
「構成は円環が基本だ。何を教えるにしても、そこを押さえておかなければ進めない。常に真円を思い浮かべ、それを自在に視ることができるようにしておけ」
「……あの、お嬢様、ひとつ質問をしてもよろしいかしら?」
「うむ、ひとつと言わずどんどん訊くといい」
「構成、構成ってよく仰いますけど、それって何ですの?」
「……?」
何、と訊かれて、その顔を凝視してしまう。質問の意味がよくわからなかった。
構成とは何か、そのものの本質を問うような深遠なる質問であれば、昼夜通して議論に付き合う心づもりはある。
……だが、おそらく彼女が訊いているのはもっと根本的なことだろう。それに気づいて思わず戦慄く。
「何って、まさかとは思うが、構成を知らないまま魔法を行使していたのか? わたしの前で使って見せた光明や微風は何なんだ、不格好だが一応は構成を描いていただろう?」
「え、え? わたくし、そんなもの描いた覚えは……?」
「…………」
「…………」
アーロンがほうきで土を掃く小気味よい音を背景に、しばしカステルヘルミと見つめ合う。
円を描くのは下手なくせに、その顔へ化粧を塗るのは上手いようだ。昨日とはまた異なる色彩で目の周囲や頬を彩っている。昨日は赤色が強く、今日は紫を多用したらしい。
塗っているものを落とせば、おそらくフェリバと同じ年頃の顔が現れるだろう。パストディーアーといいカステルヘルミといい、どうして顔に色を塗りたくるのか不思議でならない。
隠蔽、威嚇、誇示――、化粧を施す意味については書物で諸説読んだことはあるが、ふたりの場合は何を目的として顔面を彩っているのか。
そこではたと我に返る。
思考が飛んでいた。
構成の話の途中だったことを思い出す。彼女に対しては、語るより見せるほうが早いということも。
足下に落ちていたクチナシの葉を一枚手のひらの上に乗せ、それをしゃがみ込んだままでいるカステルヘルミの眼前へ差し出す。
手の上に単純な浮遊の構成を描き、葉をふわりと浮かせた。
「わぁ……っ!」
「構成をあえて濃く描いている、これなら視えるだろう?」
「あ、お嬢様の手の上に、お盆みたいな光が見えますわ。これが構成というものですの?」
「お盆……」
自分の精霊眼で視えている構成と、カステルヘルミが視ているものはもしかしたら多少異なるかもしれない。
お盆という例えはともかく、手本に今描いているのは極めて単純な構成だ。
「構成は真円が基本……外周の円のことだと思えばいい。これの場合は内側へ浮遊の効果と、その力加減、持続の制限あたりを描き加えている」
「ほぁ……」
「もっと複雑な魔法を使おうとすれば、それだけ描き込む内容も増えるわけだから構成円も複雑になっていく。大きいのは制御が手間だから、効果さえ描き込めれば構成自体は小さくても問題ない」
「わたくしも、光や風を起こす時にはこれを?」
「ああ、小さくていびつで歪んで曲がって変な形をしていたが、ちゃんと手の中に描いていたぞ。詠唱を鍵として、あれを浮かべる訓練をしたのではないか?」
「そう、なのかしら? 師匠の真似をして、ひたすら詠唱とお祈りを繰り返してましたから。毎日、他にすることもありませんでしたし」
さらりと切ないことをこぼして、カステルヘルミは首をかしげた。
構成の描き方を学んでいないのに、意味のない詠唱のみできちんと効果を発揮する構成を浮かべていた。中央で魔法師の認定証とやらを受けるだけの素地はあるようだ。それとも、教えた師匠が優秀だったのだろうか。
「その師匠には、他にどんなことを教わったんだ?」
「いえ、師匠からは何も教わってはおりませんわ。わたくしを教導してくれたのは主に先輩たちで。かの大魔法師ペッレウゴの又弟子なんていう偉大な魔法師様から、直に教えを受けられるのはごく一部の会員だけですもの」
「又弟子……?」
魔法師ペッレウゴの名前は、魔王であった頃に聞いたことがある。赤い勇者が連れていた老魔法師だ。
あの一行がベチヂゴの森をほぼ無傷で抜け切れたのは、魔法師の力によるところが大きいだろう。その実力を直接目にする機会はなかったが、勇者との戦闘中に外から聞こえた爆音はおそらく魔法師によるものだ。
腕自慢の臣下たちを相手取り、まともに戦えていたというだけで、その力の程は伺い知れる。
「ペッレウゴは知っている。が、又弟子って何だ、又弟子って」
「その言葉のまま、ペッレウゴ様の弟子の弟子ですわ」
「じゃあお前は、ペッレウゴの弟子の弟子の弟子か……。いや、わかった。中央での師匠のことは忘れろ、見て覚えたことも全部忘れろ」
「えー」
大魔法師と呼ばれるペッレウゴの直弟子なら、まだ信用しても良かった。
だが又弟子なんていうほとんど無関係に近い間柄な上に、一応の弟子であるカステルヘルミへまともに教えることもないなど、そんな者を師匠なんて呼ぶ必要はない。
「魔法の師匠はわたしだけで十分だ、そんな奴のことは忘れてしまえ。お前にはわたしがついている」
「ちょっとときめきますわね、その台詞……」
「さぁ、わかったら円を描け! 精霊眼を扱う練習も構成を描くのも、全ては基本ができてからだ、とっととまともな円を修得しろ!」
「うぇぇぇん、これまだ続けるんですのー!?」
カステルヘルミと話す間に、これまで描かれた不格好な丸は全てアーロンのほうきで掃いて消されていた。広々としたまっさらな土は、紙もインクも無駄にならず描き放題だ。
更地に戻った地面を指さすと、カステルヘルミは再び木の枝を手にして丸を描く作業へ戻っていった。
たしかに、しゃがみ込んでずっと地面に向かっているのは腰を痛めるだろう。もう少ししたら切り上げて、部屋で甘いものでも馳走してやろう。
「アーロン爺、仕事の邪魔をしてすまないな。どうせ雨が降れば消えるんだから、そんなに綺麗に消さなくても大丈夫だぞ?」
「いえいえ、ご心配頂かなくとも今日の作業は粗方済んでおります。何やら楽しそうなことをしてらっしゃるので、この年寄りも混ぜてほしかったのですよ」
「楽しい、かな……?」
まぁ、本人がそう言うのであれば構わない。描いた丸を消してもらえば、カステルヘルミも移動が減って助かることだろう。
今度は向こう側へ進みながら円を量産する丸まった背中を見送り、リリアーナはクチナシの木の反対側へ回り込んだ。
しばらくこの辺にいたから、服や髪に甘い香りが移ったかもしれない。決して嫌いな香りではないが、家族が揃う夕飯までには消えてほしい。食事中にこれが香ってはアマダの料理にも礼を失する。
濃い緑色の葉と、その間にたくさんついた小さな花を見上げる。
この薫香は雨と寒さの境目、この季節だけに香る風物詩だ。
緑の向こう、高い空は淡い水色で、薄くなった雲が遥か遠くまで伸びている。イバニェス領から北西方向、中央でもあの雲は見えるのだろうか。
雨雲になる前の白いかたまりは、もうほとんど見られない。髪を梳く風にも最近は水の匂いが混ざらなくなってきた。
乾きの風が吹く日は近い。
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