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「ロシアの亡命スパイだったとしても、今のミーシャは、俺の大切な人なんです……だから、どうかロシアには渡さないで……」
 絞り出すようにそう告げると、目の前の男は薄く笑った。
「君が我々に協力してくれるならば、対処しよう。……この列車は、陸路で君のお父さんの故郷へと向かっている。――我々は軍部の者で、秘密組織『自由民間防衛』のメンバーも密かに兼ねている。青年将校を中心に、君を正当な最高指導者として、これから首都でクーデターを起こす計画だ。ぜひ君に協力してもらいたい」
「おっ、俺がっ、最高指導者……!?」
 つい最近までラーメン屋の皿洗いだったのに!?
 俺はブルブルブルと大きく首を振った。
「いやいやいや、俺っ、そんなの無理です!」
「君にはその素養があるはずだ。パリ大学で政治学を専攻し、語学も堪能だと聞いている」
「そっ、それは国連職員を目指すためで……っ! 大体、あなた方の国の言葉も分からないし……っ」
「そんなものは、優秀な君ならすぐに習得できるだろう。我々ももちろん協力する。――これから発足する臨時政府が必要としているのは、人民の認める正当な血統で、かつ国際感覚に優れた指導者だ。人民は今、人民の痛みを知ろうともせず、己の快楽を貪る偽物の指導者の下で貧困と食糧不足に喘いでいる。しかも近々、かつて我々と一つの国であった隣国が、米国と共に軍事侵攻を開始するとの噂もある。――国家存続のためにはもう一刻の猶予もない。……頼む、君は我々にとって、最後の希望の星なのだ」
 買いかぶられ過ぎだけど、そこまで言われると俺の心は揺れに揺れた。
 俺がこの人たちの言うことを聞けば、ミーシャを助けることが出来る。
 国連職員にはなれないけど、一つの国の指導者として、飢えに苦しんでいる貧しい子供達を沢山、助ける事が出来るかもしれない……。
 この人達の願いを拒否したって、俺の命を狙う人たちが居なくなる訳じゃない。
 それならば――。
「分かりました……。お役に立てるかは分からないけど、貴方がたについて行きます。だから必ず、ミーシャを、自由にしてあげて下さい。それから、俺の拘束を解いて下さい。俺はどこにも逃げたりなんてしませんから」
 告げると、男はホッとしたような表情になり、部下に指で合図した。
 俺の腕と、足を拘束している布が解かれ、手足に一気に血流が戻って、ビリビリと痺れ始める。 
 自由になったのに思ったよりも手足が全く動かなくて、たしかに三日も眠っていたんだろうなと実感した。
「眠っている間は点滴と尿道カテーテルを施していたから、しばらく違和感があるかもしれない」
「は、はぁ……」
「これから数日かけて大陸を横断する。今のうちに身体を休めておくといい」
「はい……」
 この人達、やり方が強引過ぎるけど、本当に約束通りミーシャを自由にしてくれるんだろうか。
 でも、今の俺はこの列車から降りるわけにはいかないし、彼らを信じるほかない。
 外は深い雪に包まれた針葉樹林の森で、遠くの空がなんとも言えない弱いオレンジ色に染まり、日照の弱さを感じる。
 ああ、ここはミーシャの国なんだと気付いた。
 そしてこの列車は、世界一の長距離を走る、シベリア鉄道に違いない。
 この光景が彼の育った国だと思うと、胸がしぼられるような不思議な懐かしさを感じる。
「ミーシャ……」
 ――景色に向かって密かに名前を呼び、その音を噛み締めた。



 拘束が解かれたものの、それ以降も俺にはいつも護衛と言う名の監視の目が常につきまとい、自由は無いに等しかった。
 逃げないって言ってるのに、トイレすら付き添いの人と一緒。
 他の乗客と口を利くのも禁止されて、明けても暮れても変わりばえのしない外の雪景色をぼんやりと眺める日が、もう三日は続いていた。
 食堂車はなく、食べ物は三食とも、ぼそぼそした饅頭みたいなものと、水筒入りのボルシチで、あまり美味しいとは言えない。
 食欲の湧かない夕飯を食べた後に、ミーシャと一緒に食べたご飯は全部美味しかったなぁ……なんて思い出した。
 彼はどうしてるんだろう。
 手術、上手くいったのかな。
 俺がこの電車に乗ってからも何日か経ったから、もしかしたらもう目覚めてるかもしれない。
 ……目覚めるのは、あのミーシャなのか、それとも最後に会った彼なのか、どっちなんだろうか。
 もう死ぬまで会うこともないのに、そんなことを考えてしまって、切なくなった。
 どっちだったとしても、幸せになってほしい。
 今までの分も取り返せるように。
 そんな事をぼんやり考えているうちに、雪が止み、徐々に空が晴れ始めた。
 弱いオレンジ色の光が徐々に消えてゆき、空が群青色に変わっていく。
 ミーシャの瞳と同じ色に……。
 その空を眺めた後で目を閉じると、彼に抱き締められているような気がする。
 思い出があって良かった。
 もしかしてクーデターがうまく行かずに、俺が死ぬのだとしても、こうして空を眺めて、目を閉じよう……。
 ――そんな感傷に浸っている内に、俺はいつのまにか眠り込んでしまっていたらしい。
 次に目が覚めた時――それは、尋常でない揺れと激しいブレーキ音がきっかけだった。
「!?」
 身体が斜めにフワッと浮き、手近にあった上の寝台用の梯子を両手で掴む。
 すぐ隣に座っていた監視の黒服の男の人が、俺を守るように被さってきたけれど、自分を守る方が疎かになってしまったのか、その体はすぐに離れて吹っ飛び、コンパートメントの扉にぶつかった。
「あーっ!!」
 叫んだ瞬間に物凄い衝撃音が上がり、俺も身体を振り回されながらどうにか手掛かりを掴み続けたけど、電車の車両自体がどんどん斜めに傾いてゆく。
「うわああぁっ……!!」
 耐えようもなく、激しい音を立てて横転する列車に身体が振り回される。
 ガラス窓が粉々に割れ、ついに列車が雪の地面に横倒しになった。
 しばらくの間引きずられるような不快な音が上がり続け、やがて、ギギイと不快な音を立てて列車が停止した。
 シーンとした途端、バチッ、バチッと照明が瞬いた後、完全に消えてしまい、辺りが真っ暗になる。
 身体中が痛いし、今度こそ死んだ……と確信したけど、どうにか俺は生きていた。
 震えて仕方ない手足を鞭打って身体を起こし、闇の中、手探りで周囲を探る。
 何が起こったのか、訳がわからない。
 何かがきっかけで列車が横転した……?
 そして、とっさに庇ってくれた男の人のおかげと、壁に張ってあった背もたれや座席に置いてあった枕――そういったものがクッションになって、衝撃から俺は守られたようだった。
 そうだ、あの人は無事だったんだろうか……!?
「……っ、大丈夫ですか……!?」
 必死で声をかけると、足下の方からううっという痛々しいうめき声が聞こえた。
 生きてる……!
 寝台を掴みながら移動して、声のする方へ叫ぶ。
「こっちに来られますか!?」
 けど、その人はもう瀕死なのか、返事ではなく、くぐもった声が聞こえるだけだった。
 ああ、なんて事だろう。
 ショックで涙ぐみながら、俺は懸命に下にいる人に叫んだ。
「待ってて、いま、他の車両に行って誰か助けを呼んで来ますから!」
 窓のある足側を靴で踏んで探ると、割れた強化ガラスの粉々の破片が雪と混ざり、ジャリジャリと音を立てる。
 下から出るのは無理そうだ――。
 俺は顔を上げ、頭上のコンパートメントのドアを探った。
 少しずつ車内の温度が下がり始め、命の危険を益々感じる。
 今は天井になってしまっている、スライド式のドアの取っ手に手を掛けて、渾身の力で引っ張った。
「ぐぬぬぬぬ……っ!!」
 ガイドレールが歪んでしまっているのか、なかなか開いてくれなかったけど、何とか人一人が通る隙間が空き、痺れそうなほど冷たい外気がビュウと吹き込む。
 二段ベッドの上段を足がかりに、どうにかその隙間に手を掛け、這うように登った。
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