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84狭間の世界にて。

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「――っ、……ぅ、あ……」

静寂の後、激しく荒れ狂う感情の波に揺り起こされ、目を開ける。



辺りは何も見えない。

ただ、深い闇がそこにある。







「目が覚めたようですね」
「あれが、あなた達の最期記憶ということね」

漆黒の闇が覆うこの世界に、モスグレーの髪と瞳のその人が、私の前に現れる。




静かな瞳の奥に、先程は感じることができなかった怒りの感情が、今はしっかりと読み取れる。





--内に秘めたる静かな怒りこそ、なにより怖ろしいものなのだろう。









「それで、あなたはどうされますか。今、あなたの中には我々が宿っているわけですが」
「私は、残ると決めているの。――伝えたいことが、あるの。だから、あなた達とは、いけないわ」



そうですか、とその執事は頷くが、一向に去ろうとしない。







「しかし、困りましたね」
「なにか、良くないことでも起きたの?」





「向こうの世界のあなたが、目を覚まさないようですよ?」

す、と指を指されて、そちらを見遣る。





「っな!?」

そこに広がる光景に、目を瞠る。




藤の絡まった巨大樹にもたれ掛かるようにして、大量の朱を纏う己の姿。

その、朱に染まることも厭わずに、己を抱き寄せるのは、漆黒の魔術師。




--ずっと、ずっと会いたかったその人が、目の前に居るというのに、どうしてだろう。


己の心は動かない。



漆黒の長髪、金色の瞳。

必死に己を呼んでいる声。

その、どれをとっても、待ち望んだものだというのに……。






まるで、なにかの感情を忘れてしまったように、私の心は、この場所に留まったまま。




このままでは、いずれ向こう側へ帰れない。そう、頭ではわかっているものの、体が、心が、動かない。

ただ、その光景を見詰めているだけ。







「想いを伝えたい相手は、あの魔術師ではないのですか」
「――そう、なのだけど……」




――違う。
--グレンじゃない。

そう、心の片隅で叫ぶ己が居る。

なぜ、私はここで立ち止まっているのだろう。

目の前に、会いたかった人が居るというのに。
目を開ければ、その体温に触れることができるのに。




けれど、己の心は、ここに居る。








「帰りかたが、わからないのですか」



「――わから、ない……」



私が、どう、したいのか、わからない。









本当に、“彼”を。

目の前で叫ぶ彼を、望んでいるのか、わからない。






「あなたは、還らないの?」

「わたくしですか。えぇ、今すぐにでも、目を覚まして、この腕であの方を抱きしめて差し上げたいのですが。--生憎、貴女を置いてここから去ることができないようで」






反対方向。

執事の背後には濃い靄がかかっていて、向こう側の様子はよく見えないが、朧気ながら、人影が見える。


あれが、この執事の愛する者なのだろう。








「--グレン……」

彼の名を、呟く。



視界に映る“彼”に、私の声は届いていないらしい。

向こうの声は聞こえるというのに、不思議なものだ。









「グレン……グレン、……どこに、居るの――、あなたが、いないと、私……」


--帰り方が、わからないの。




膝から力が抜け、地に座り込んでしまった。

もう、立っていることが、できない。

ゆっくりと、確実に、“ここに居る”という感覚が薄れていく。






--このまま、なにも伝えられずに、消えてしまうのだろうか。

帰り方が。わからずに。

ただ、目の前の彼を、瞳に映しながら、静かに。





「――フリア!! こんなところで、何してるの! ほら、早く、こっちに!」
「っ、……グレン……」
「おや、お迎えが来たようですね。」




声のする方向。
目の前の彼とは違う方向から、己を呼ぶ声に顔を向ける。



「フリア、なにしてるの! 早く!」
「……グレン……私……動け、ない――」

もう、色々とあり過ぎて、体は限界だ。

ここから一歩も動けそうにない。

行かなければ、とは思うものの、身体が言うことをきかないのだ。







「--はぁ、もう……。まったく、手が、かかるんだから……」
「--――っ!」

慌てた表情の彼が、ふ、と笑みを浮かべる。


そのままこちらへとやって来て、手を引いたかと思うと、子供を抱くように、片腕で抱えられてしまった。



「ちょ、グレン、これはこれで、恥ずかしいのだけど……」
「あー、はいはい。小言なら後で聞いてあげるから、疲れたって駄々捏ねてるフリアを、この場所から連れ出すのが先決なの、わかる?」
「……うっ……」

的確に、痛いところを突いてくる。





「これはなかなか、仲睦まじいようで」
「フリアは帰してもらうから。そっちはちゃんと、望む場所に還りなよ」
「えぇ、もちろん。では、主が喚んでおりますので、わたくしは、これで」

そう言って彼は踵を返して去って行く。






「--あぁ、すっかり伝え忘れるところでした。“姉巫女”からの、伝言です」

“封じられた故郷に、もう、そちらを脅かすものは居ない”

“今暫くは、余波として魔獣が現れるだろうが、それも、お主の代で終わりを告げるであろう”

“わらわがお主らに掛けた呪いは、もう、消えている”

“後はお主の心のまま、生きるがよい”



なかなかに長い伝言だ。
などと思っている間に、霞の中に消えた彼の姿は、もう何処にも見ることができない。









「フリア、帰るよ」
「えぇ、帰りましょう、グレン」

抱えられているのは、恥ずかしいが、ずっと会いたかった人が今、己の手の届く場所に居る。
もう、それだけで他の考えなど消え失せていく。







今は、ただ、与えられる温もりを、この心に刻んで。




「グレン、あのね、私ね、あなたのことが――――」
「さぁ、俺はここまで。後は、もう、大丈夫だから。」




「--え……?」



伝えたかった想いを、今、伝えてしまおう。

そう、思って紡いだ言葉は、最後までかたちになることはなかった。








腕から下ろされたかと思うと、トン、と軽く後ろに押される。



「--フリア、ありがとう」

--それは、私の台詞よ



そう、言葉を発することはできなかった。




なぜなら、そう言う彼の表情が、今にも泣き出しそうだった、から。




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