ことりの台所

如月つばさ

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第十五話 桜舞う丘で

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春が来た。
 
吹く風はどこか甘く、瑞々しい緑の匂いを運んでくる。
 
ことりの台所を見守るように佇むケヤキもまた、淡い緑を輝かせ、柔らかな木漏れ日をもたらしていた。

「なんか違う」
 
生成りの布を顔の前に掲げ、縁側から射し込む朝の光に透かして見ては、やっぱり違うと頬を膨らませるのは月子さんだ。

「上手いよ。黒糖饅頭。ねぇ、森野さん」

「やっぱりやり直す」
 
ふてくされた子供の様なふくれっ面で一時間かけて刺繍した糸を解いていく月子さんに、浩二君が慌てふためいた。

「黒糖饅頭じゃないもん。西郷さんだもん」

「えっ」
 
黒板を引っ掻いたような浩二君の悲鳴が上がった。

「自分が納得いくまで突き詰めるってのは良い事だよな、うん。さすがプロ。Tシャツデザインに手を抜かない月子さんなだけあるね」
 
意味深に手元を覗き込む隼人に、私は自分の布を膝の上に伏せた。

「なによ」

「いやいや。ことりのは味があって良いねぇ。面白くて笑いを提供してくれるぅ」
 
ぷぷぷ、とわざとらしく口元を手で覆う憎たらしい顔を、思い切りつねってやった。

「やだことりちゃん最低っ。暴力反対っ」
 
頬を抑えて身体をくねらせる姿があまりにも馬鹿馬鹿しくて、余計に腹立たしくさせる。

「そんなに人のこと言うなら、自分のを見せなさいよ」

だが抵抗することもなく渡してきた隼人の布を見て、漫画みたいにがっくり、と肩を落とした。

ことりの台所のマークにもなっている羽ばたく青い鳥を刺繍したものだが、方向の揃った糸の流れと、風合いを生かすふっくらとした刺繍は、こっそり練習したんじゃないかと疑いたくなる出来だった。
 
本当にこの男は、見た目と繊細さのギャップが酷すぎる。

「みんな素敵ですよ。刺繍は争うものじゃないですから。それぞれの優しさや想いが籠った刺繍は、私から見たらどれも唯一無二の素敵な作品です。ことりちゃんのも、月子ちゃんのもね。とても丁寧にできてますよ」
 
針をピンクッションに休め、珈琲カップを手にした猫村さんが微笑む。

ちなみにこのピンクッションも彼女の手作りらしく、中央に四つ葉のクローバーが刺繍してある、ころんと丸い可愛いらしいデザインだ。

 良いな。私もこんな風に出来たらどれだけ楽しいだろう。

思いながら、私のお世辞にも上手いとは言えない、隼人と同じ、青い鳥を見下ろした。

端の揃わない、いびつな形の青い鳥がぎこちなく翼を広げている。 
 
今日は猫村さんが遊びに来てくれた。

お昼を過ぎて客足が途絶えた今、浩二君、月子さん、私、隼人はテーブルを囲んで刺繍を教わっていた。

「ことりちゃんが刺繍をやってみたいって言ってくれた時は、とても嬉しかったの。道具まで準備してるって言うものだから、私もきちんと教えなきゃって、凄く張り切っちゃって。今日までずっとわくわくしてたのよ。あまりの張り切りようにあの仏頂面の主人がはにかんだくらい」
 
これまであまり何かに挑戦しようなどと思う事も少なかった私が、自分の意志で刺繍をやってみたいと思った。
 
それはきっと、日ごと暖かくなって身も心も活動的になるからだけでは無いと思う。

長年抱えていた父との問題が落ち着いたからだろうか。

ある朝、隼人と裏の畑で土を触っていると、猫村さんに電話しよう、と思い立った。

役場で見た彼女の刺繍が頭から離れなくなっていた。

 私もやってみたい。

一度そう思えば、私の身体はすぐさま手芸店へと赴いていた。

店員の女性にとりあえず必要なものを教えてもらい、買い揃えた。

どうせなら皆でやってみてはどうだろう。

商店街を抜けて白鷺地区への道すがら、迷わず来た道を引き返し、再び手芸店の扉を開いたのだった。

私はこんなにも行動的な人間だっただろうかと、思い返すたびに驚くくらいだ。

「猫村さんが用意してくださった図案、どれも凄く可愛いです。絵もお上手なんですね」
 
浩二君がテーブルの中央に広げたファイルを手にした。

青い鳥、西郷さん、桜などの花やさくらんぼなどといった可愛らしいワンポイントものの刺繍図案は、どれも猫村さんの手書きのものだ。

ちなみに、簡単なさくらんぼが我ながらうまく刺繍で来たので、思い切って青い鳥にチャレンジしたらこのざまだ。

何でも順序というものがあるのだと身に染みて感じたが、猫村さん曰く、こういうのは「やりたいと思った気持ち」が一番大切なのだそうだ。

できるかどうかよりも、やりたいかどうか。それが上達への近道なのよと。
 
容赦なく糸を解いて本気モードで西郷さんの刺繍をしていた月子さんの手が止まった。

呆けたように目を細めていた。

何か呟くように半開きの口元が動いた。

「月子ちゃん、どうしたの?」
 
浩二君が顔を覗き込む。

「良いにおい」

「そうねぇ。甘くて幸せな香りね」
 
猫村さんは言いながら新しい図案を布に転写している。
 
それから十数分後、オーブンの電子音が台所に響き渡った。

浩二君と二人、台所に向かう。
ミトンを着けて両手でそっと型に手を添えた。
 
思わず歓声を上げてしまう。

オーブンを開けた時の香りと、こんがりと綺麗に焼きあがったクッキーに心が躍る。

「すげぇ、プロ並みじゃね」
 
居間に持って行くと、一同歓声が沸き上がった。

「浩二君のレシピのおかげだよ」

「森野さんが料理上手だからだよ。お菓子作りはレシピが良くても、混ぜ方ひとつで成功も失敗もあり得るからね」

「そうですよ。私、お菓子は本当に作るのが下手だから凄いと思うわ」
 
みんなに褒められて照れている私をよそに、早速クッキーに手が伸びた。

「美味ひい」
 
月子さんが頬を膨らませながら咀嚼する。

まるでハムスターみたいだ。
 
縁側の陽だまりで昼寝していた西郷さんが良い匂いにつられて、のそりと顔を上げた。

「西郷さんは食べれないぞ。猫用のおやつにしような」
 
くれ、とでも言いたげな眼差しでテーブルから顔半分を出していた西郷さんだが、廊下で隼人がおやつの袋を出す音がすると、一目散に居間を飛び出した。

「それにしても、今日は本当に良いお天気」
 
猫村さんの言う通り、今日は文字通り快晴だ。

暑すぎず、寒すぎず。

朝も、身を縮めながら畑に出る事は無くなったし、こたつも仕舞ったが、窓を開け放っていても心地よく過ごすことができている。

「あかりちゃんっていつ頃くるの?」
 
いま食べるクッキーを小皿に移し、残りを台所に運んだ。

「もう少しだと思う。この瓶で大丈夫かな」

「そうだね。でも、せっかくだからこれ持って出かけない?」

「おっ、良いねぇ。賛成」
 
暖簾を潜って来た隼人が浩二君の型に腕を回す。

浩二君と私は同級生だが、隼人は六歳も年下だというのに、すっかり友達か親友みたいだ。
 
ちょうどその時、玄関に元気いっぱいの声が響いた。

「あかりちゃんだっ」
 
隼人と一緒に台所を出たが、誰よりも早くあかりちゃんを出迎えたのは西郷さんだ。

私たちが着いた時には、喉をごろごろ鳴らして、あかりちゃんの足に纏わりついていた。

「なんだか皆さん楽しそうですね」

「戸波さん、お久しぶりです」

「猫村さん、こんにちは。ご主人、お元気ですか?お店が無くなってから、料理が恋しいです。持ち帰りのお弁当、あかりも大好きだったので」
 
戸波さんが言うと、あかりちゃんも力強く頷く。

あかりちゃんは、ハンバーグが好きだったらしい。私と同じだ。

「あら、そう言って頂けると主人も喜ぶわ。良かったらいつでも遊びにいらして。主人に何か作らせますから」

「行きたい。その時はみんなで行こうよ」
 
あかりちゃんの提案に、隼人が真っ先に賛成、と手を上げる。そんな和やかな雰囲気を楽しんでいると、再び玄関が開く音がした。

さっきと違うのは、この古民家を支える木の柱が軋みそうなほど、力強く、甘ったるい声が響き渡ったことだ。

「どうもぉー。いちご狩りするんですってねーえ?噂を聞いて飛んできちゃった。なーんで教えてくんないのよぉ、は・や・とくぅん」

「げっ、マリーさん。ぐぇえ、わ、悪かったって。離してくれ、息が……できねぇ」

「マリーさんが食べつくしちゃいそうだから言えなかったんだよ」
 
躊躇なく真顔で告げる月子さんに、マリーさんの顔がみるみる歪む。

下唇が突き出して、頬がふくらんで。
まるで子供のような不満顔を炸裂させた。

「あたしがそんな卑しいと思ってたのぉ?酷い、酷いわぁん」
 
うわーん。呻くように泣き声を上げるマリーさんをよそに

「あかりちゃん。行こう」
 
淡々とあかりちゃんの手を取って裏庭に出ていく月子さんは、なかなかドライだと思う。

「こう、いちごのヘタの上に人差し指と中指を掛けて。そうそう。で、くるっと実を捻って……ぷちっと。わかる?」
 
プランターの前にしゃがみこむあかりちゃんに、隼人がまずは手本を見せた。

「こうやって……ぷちっと」

「おっ、上手いじゃん。あかりちゃん、完璧。じゃ、今からぜーんぶ採っちゃってくれ」

「わぁい。マリーちゃんも一緒にやろう」

「やだぁん、良いの?あかりちゃん、優しい。気遣いができるなんて、もう立派なレディだわぁ」
 
あかりちゃんとマリーさんの後姿がなんとも面白い。

小さな背中と、その三倍はあろう大きな背中。

黒のレザーパンツのお尻にかかるブロンドのストレートヘアを手際よくポニーテールにすると「さあ、やるわよぉ」と勇ましく気合いを入れるように自分と、あかりちゃんの袖も捲り上げた。

「隼人君と僕はこっちにいるから。ことりちゃん達はゆっくりしてて」

戸波さんがあかりちゃんの傍に腰を下ろす。

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、刺繍の続きをさせてもらいます」
 
猫村さんと浩二君、西郷さんを抱いた月子さんと居間に戻り、改めて珈琲を淹れなおした。
 
布に針を行き来させ、一息つくように珈琲を口に含む。

ケヤキの葉擦れが耳に心地いい。西郷さんの寝息と、時折裏庭から聞こえてくるあかりちゃんの笑い声と、マリーさんの興奮したどすの効いた歓声が聞こえてくる。
 
いちご狩りが終わったのは、三時前だった。

途中、お裾分けにきてくれたいちごを居間で刺繍を楽しむ私たちも食べた。

練乳も用意していたが、つけなくても十分に甘く、つけたらまたいちごの美味しさが増した。

瑞々しく、甘酸っぱいいちごに舌鼓を打つ私たちを誰よりも一番嬉しそうに見ていたのは戸波さんだった。

「あかり、良かったなぁ」
 
戸波さんがしみじみ言うと、あかりちゃんが満面の笑みで頷く。

「隼人君も、ことりちゃんも、こんな良い機会を作ってくれてありがとう。皆さんも、あかりを可愛がってくださって、本当にありがとうございます」
 
これまでの人生を、あかりちゃんの事を想ってのことだろうか。
 
少し涙ぐんだ戸波さんに、あかりちゃんは最後のひとつとなったいちごを差し出した。



「よし。後ろのお二人もシートベルト、お願いしますよ」

「はい」
 
ルームミラー越しに、後部座席の浩二君と目が合った。

浩二君が抱えるペットキャリーから、西郷さんがひとつ鳴いた。
 
隼人の運転する車には、私と浩二君、猫村さんと西郷さん。

月子さんはマリーさんのバイク、あかりちゃんは戸波さんの車で移動することになった。

「白鷺の森林公園の桜も、星野地区にある一本桜も綺麗だけど、個人的には風の丘の桜が特別好きなんですよ。観光雑誌に掲載された星野の桜は観光客にも人気だけど、風の丘は穴場でね。あそこは風の通りも良いから、静かにゆったりと楽しめて大好きなんです」  

猫村さんの提案で花見をすることにした私たちは、風の丘地区の土手に集合することになった。

前に止まった軽自動車の後部座席から手を振るあかりちゃんに、私と隼人も手を振った。

あかりちゃんが前を向き、ごそごそとシートベルトを締めるような動きをした後、車のエンジンがかかった。

「じゃ、俺らも出発しますか」

助手席に座り、森へと入る。

若葉色の日差しが地面に光の粒を散らしていた。

窓をあけると、少し水っぽいような青い匂いが心をくすぐる。
 
大通りに出た。

風の丘地区へと続く坂道へと曲がり、林道を抜け、間もなくして風の丘を見晴るかす。

「こっちよぉー」
 
実家の駐車場に車を停めると、土手の上からマリーさんが大きく手を振るのが見えた。

「ことりのお母さんも声掛けてみたら?」

「えぇ、良いよ。なんか恥ずかしいし」

「いまさら何言ってんだよ。せっかくなんだし。俺が押してくるわ」

「あ、ちょっと――」
 
隼人がチャイムを押すと、玄関ではなく台所の窓が開いた。

「あらぁ、どうしたの。車の音がしたからもしかしたらって思ったのよ。ちょっと待ってね。すぐ出るから」
 
ばたばたと廊下を歩く音が近づいてくる。

「どうしたの?あら、あそこにいるの、猫村さん達じゃない。お花見?」

「そうなんです。良かったら一緒にどうかなと思って」

「隼人が勝手にね」
 
照れくさくてつい口を挟んでしまった。

「良いじゃない。お母さんも行くわ。先に行ってて。珈琲淹れてから行くから」

「おー、すげぇ、桜並木。良いじゃん、めっちゃ気持ち良い」
 
ふわりと丸い風が隼人の前髪をかき上げる。

二枚敷いたレジャーシートのひとつには猫村さんと月子さん、マリーさん。

もう一つのシートに、隼人と浩二君と一緒に荷物を下ろした。

「どうぞ。沢山あるから遠慮せずに食べてください」
 
ふたつのシートのちょうど真ん中に、今日焼いたクッキーの瓶を置いた。
 
チョコチャンククッキー、バニラクッキー、スノーボールクッキーもある。

スノーボールが大好きな私は何としてでも教えて欲しいと浩二君に懇願したのだ。

「ことりー、お待たせ」
 
クッキーを摘まみながら一息ついていると、水筒を抱えた母が小走りでやって来た。

「猫村さんもこんにちは。良かったらみんな、珈琲飲んでね。人数分のマグカップも持って来たから。あかりちゃんには、ほら。美味しいのよ、このみかんジュース。果汁百パーセントなんですって。貰い物なんだけどね」

「んまー、わざわざ。ことりちゃん、良いお母さんじゃなぁい。あたし、この赤いカップにするわ。うふ、情熱の赤よ」
 
マリーさんが早速赤色のマグカップを手に取った。

「あかりはこっちのお花のにする。わぁい、ピクニックみたいだね」

「森野さん、ありがとうございます。良かったなぁ、あかり」
 
戸波さんがあかりちゃんのカップにみかんジュースを注ぐ。

待ちきれずにすぐさま口を付け「美味しい」と身体を左右に振って喜んだ。

「こんなにマグカップ持ってたの」

「お母さんの趣味なのよ。ほら、こっちも可愛いでしょ。最近、ツバキ屋さんの雑貨コーナーに色んなカップが並ぶようになってね。どれもシンプルだけどお洒落で素敵なの」
 
浩二君、隼人、そして私が手にしたクリーム色に一羽のツバメのイラストが描かれたカップに、母が珈琲を注いでくれた。
 
珈琲の香りと、パステルブルーの春の空。

淡い緑の草や野の花が風にそよぎ、水彩画のような桜色が空を彩っていた。
 
遠く山の中腹には津久茂神社の鳥居が見えている。

所々を桜に彩られた山に鳥居の朱色が映えて、こんなにも綺麗な景色が身近にあるのだと、改めてありがたいような気持ちになった。

「あ、西郷さん」
 
ぽてぽてと土手を歩き出した西郷さんの後を月子さんも追う。

少し離れた草陰で西郷さんが鼻先を寄せると、ひらりと白い蝶が舞い上がった。

「月子ちゃんって名前、彼女にぴったりだよね」
 
浩二君がぽつりと呟いた。

「確かにね。ちょっと神秘的なところあるし」

「ちょっと不思議な人だよな。一般的に言ったら変わってる人なんだろうけど、そこが面白いんだよな。人と違う感性があるからこそ、人がはっとするような絵を描いたりできるわけだし。あ、寝転んじゃったよ。ちょっと俺も仲間に入れてもらお」
 
私が止める間もなく、隼人は大股で月子さんの元に行くと、自分も一緒に草むらに大の字に寝転んだ。

その隣では西郷さんまでもが、へそを空に向けて無防備極まりない幸せな顔を浮かべている。

三人並んで同じようなとろけた表情なのがまた面白い。

「浩二君って、月子さんと幼馴染なの?」
 
チョコチャンククッキーをかじる。

外はさっくり、中はしっとりしたクッキーに、大きく割ったチョコがアクセントになっている。

「中学からだよ。休みがちでクラスに馴染めなくてさ。毎日、気が乗らないまま登校してたんだけど、二年の夏休み明けだったかな。急にどうしようもなく嫌になっちゃって。門の前でUターンして」
 
浩二君の視線が津久茂神社の鳥居に向けられた。

「神社の境内でぼーっとしてたら、草むらから急に人が出てきてびっくりしたよ。頭にいっぱい枝や葉っぱを付けた女の子なんだもん。しかも、出てきた瞬間、蝉が額に止まっても悲鳴ひとつ上げないんだよ。おしっこかけられちゃいけないと思って取ってあげようとしたら、躊躇なく自分で取っちゃってね」
 
思い出しながら笑う浩二君だが、退院以来、まだ体調も万全ではないのか、お店でも度々座っているのを見かけた。

今日はそんなのも感じさせないくらい、穏やかな笑顔だけれど。

「見て。あはは、月子ちゃんのお腹の上に西郷さんが乗ってる」

「本当だ。凄く懐いてるよね。私にはなかなかだけど」
 というか、懐いてくれてるように感じても、次の瞬間にはそっぽを向いてしまうのが西郷さんだ。

かと思えば、私が少し体調を崩したりすると、気付けば隣にいる。

無関心なようで、実は凄く見られていると感じる時もある。

「彼女、ああやって自由におおらかに見えるけど、凄く人の好き嫌いがはっきりしてる人でね」
 
浩二君の声のトーンが落ちたような気がした。

レモンイエローの日差しが眩しくて、私も同じように目を細める。

「隼人君って凄いよね。あんな風に彼女の隣に寝転がれるんだもん」

「どういうこと?」

「僕は無理だよ。別に断られたわけじゃないけど」
 
ずるいよね。

ぽつりと零した言葉が声になっている事に、彼は気付いていないのかもしれない。

「浩二君、行こう」

「え?ちょっと」
 
浩二君の腕を引いて立ち上がる。彼がふんばって抵抗したせいで、つんのめった。

「僕は隼人君じゃないんだよ。彼みたいにできない」
 
浩二君の声に驚いたマリーさん達の視線が集まる。

「ねぇねぇ、マリーさんも刺繍やってみません?森野さんも、ね。材料持って来たんですよ。あかりちゃんもどうぞ。小さな子でも針を失くさないようにさえ気を付けたらできるの」
 
猫村さんが皆の気を引くように手を叩く。
お陰でみんなの視線が離れた。

「隼人って確かに凄いよね。私が出会った時も、こっちが引いてるのなんてお構いなしにぐいぐい話しかけてくるんだもん。逃げても、目を合わせないようにしても、隼人はいつだって追いかけて声を掛けてくるし、真っ直ぐに目を合わせてくる」
 
でも、私はそのお陰でこうして今ここにいる。

隼人が私に関わってくれていなかったら。
この島に来てくれなければ。
店を始めようと言ってくれなければ。

今こうして私はここにいなかっただろう。

「みんなと知り合えたのも、この島でこういう暮らしができているのも隼人のおかげなんだよ」

「うん。だから、隼人君は凄いと思うよ。僕が何年掛かっても近寄れなかった月子ちゃんとの距離を、彼はあっという間に飛び越えてしまうんだから」
 
最近、月子ちゃんから出てくる話は隼人君の事ばかりなんだよ。

浩二君は寂しそうに笑いながら俯いてしまう。
 
私は浩二君の言葉に頭を横に振った。

 違う。そこで完結しちゃいけいないんだよ。

島に来た頃にはわからなかったけれど、今の私には何となくわかる気がする。

「隼人になるなんて無理だよ。でも、変わろうとすることはできると思うの」
 
自分なりに変われば良い。

同じようになれなくても、何かを変えれば現状は必ず変わる。

それが良い方に変わるとは限らないけれど、動かない限り何も変わらない。

そういう考えに至る事ができたのは、やはり隼人のこの島に来てからの姿を見てきたからだ。
 
未経験の事にも全力で学び、経験する。

上手くいかなくても、島の人に拒絶されても、自分なりに容姿を変えて、行動に移す。

そんな事が出来てしまうのが隼人だ。

でも、そんな彼はきっと、後悔したくないという一心なんじゃないかと思う。
 
自分を育ててくれた、毎日ご飯を作って待ってくれていたお祖母さんへの想いと後悔から来ているのだろう。
 
隼人は変わったのだ。

きっと、変わった事で今の隼人がある。

最初からこんなに前向きで、周りに感謝して生きられるような人間じゃなかったはずだ。

「難しい事考えないでさ。ほら、行こう。大丈夫だよ」
 
改めて浩二君を促す。

さっきは何としても連れて行きたい思いで手を取ってしまったが、冷静になったいま、流石に躊躇ってしまった。

「でも……」

「月子さんは好き嫌いが激しいんでしょ?」

顔を上げた浩二君が、そうだよ、と頷いた。

「浩二君の事、嫌ってないよ。店でも月子さんの隣に座れてたでしょ。本当に嫌なら、月子さんはあの場にいないと思うよ」

ね、と口角を上げる。

私はいつの間に、こんな風に人の目を見て話せるようになったのだろう。

「……わかったよ」
 
諦めたように浩二君が歩き出した。

ほっとして私も隣を歩く。

浩二君がおもむろに笑い出した。

桜の木の下で寝転がる三人を見ての事だろうと思った私も、つられて笑う。

「違うよ、森野さん」

「え?」

「森野さん、隼人君に似てきたね」

「う、え?噓でしょ、そんなことないよ」

くすくすと肩を震わせて笑う浩二君に、私の顔がみるみる赤くなるのを感じた。

「そっくりだよ。やっぱり一緒に暮らしてると似てくるのかな」

「えぇ、やだよ」
 
寝ているのだろうか。大の字の二人は目を閉じたままだ。

西郷さんは月子さんのお腹の上に顎を乗せて、押された顔の皮膚と肉とで、目や鼻が潰れている。

「夫婦みたいだよ」
 
その一言に悲鳴を上げてしまった。

驚いた西郷さんが飛び上がった。

「ん。ことりも寝転がりにきたのか?気持ち良いぞ」
 
ほらほら、と自分の隣の地面を叩く隼人。

月子さんは眠そうな目で私たちを見上げている。

「変な事言わないでよね」

隼人のお腹を、うっかり、思い切り蹴とばしてしまった。

「げぇっ。何すんだよ」

「そんなところに転がってるからでしょっ」

「いやいや、今のはどう見てもわざとだろ」

「んもう、喧嘩は駄目よっ。こんな綺麗な桜の下で喧嘩なんて罰当たりな子たちねぇ」
 
マリーさんは隼人の額を指で弾くと、身体をくっつけるように隣に寝転んだ。

「はい、ことりちゃん。こちらにいらっしゃい」

「なんでマリーさんが間に入ってんの。ちょ、近いって。腕踏んでるし」

「小学生みたいな喧嘩するお馬鹿さん達の間に入ってやった天使じゃないのん」
 
てこでも動かないわよ、と腕に抱きつかれた隼人が苦笑する。

「浩二君も寝転んだら」
 
月子さんが起伏の無い口調で浩二君を見上げる。

「いやなの?」

「そ、そんなことは無いけど」
 
私はそっと浩二君の背中を押した。

一瞬戸惑ったものの、月子さんの隣に腰を下ろす。

「うわっ――」
 
西郷さんが突然飛び上がり、浩二君のお腹に体当たりした。

浩二君が尻餅をつくと、その服の裾を月子さんが引っ張った。

「気持ち良いよ。寝転んでみたら」
 
言われるがまま寝転んだ浩二君。

私もマリーさんの隣に横になった。

「わあ」
 
視界の全てが見事な春色に染まっていた。

淡い桜と、その向こうに水色の空。

風に舞い散る桜が、さあっと音を立てて私たちに降り注ぐ。

円を描いて、風に流されて。

ひらり、ひらり、と光を透かしながら。

緑の匂いを胸に吸いこむ。

「浩二君のおかげなんだよ」
 
横並びで姿の見えない月子さんの声だけが聞こえた。

「僕のおかげ?」
 
なんのこと?と驚く浩二君の声も聞こえる。

「私が、世の中には良い人もいるんだって思えたこと」
 
再び、桜が大きく揺れた。

「中学生の時に浩二君が声を掛けてくれて、マリーさんがこの島で私の居場所を作ってくれて」
 
次第にその声が小さくなっていく。

「中学二年の冬の日。一緒に帰った時に言ってくれたでしょ。浩二君にとって何気ない言葉だったかもしれないけど……」
 
囁くように、ゆったりと言う。
眠くなってきたのかもしれない。

「そのままの君が良いんだよって。すごく嬉しかった」
 
土手の上で寝転がる私たちを、穏やかな静けさを抱いた空気が包み込む。
 
あかりちゃんや、母たちの談笑が聞こえる。
 
まぶたの裏に春の柔らかな陽の光を感じながら、ゆっくりと深呼吸した。
 
吸い込まれるように眠りに落ちていく。

雲に浮かぶような、気持ちのいい感覚に身をゆだねていた。

爽やかな風の音と、葉擦れの音がする。
 
はらりと額に感じた小さな感触は、桜の花びらだろうか――。
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