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第七話 ことりの台所、開店
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さく、さく、さく――。
遥か頭上に生い茂る葉の隙間から覗く空は群青に沈み、ぽつぽつと星が見える。
朝の四時の津久茂島は、しんと静まり返っている。
澄んだ冷気が頬をかすめて、思わず首を縮め、薄手のカーディガンのポケットに両手を隠した。
昨日、スーパーで買った食材が入ったエコバッグの重みが、脂肪が殆どを占める腕にずしりと沈み込む。
踏みしめるたびに、スニーカーの裏に細かな砂利を感じながら、黙々と未舗装の道を歩き続ける。
自宅の裏にある小道から林道を十分ほど歩いて抜けると、あぜ道の先に森林公園の黒いシルエットが浮かび上がった。
ここが白鷺地区に出る近道だというのは、中学一年の夏休みに知った。
少々道なき道を進む事にはなるが、林道を歩く距離が短くなるのだ。
林道は蚊が多く、特にこの時期は酷い目に遭う。
こんな誰もいない時間に私みたいな攻撃力も0に等しい人間が入ってくれば、蚊からしてみればご褒美でしか無い。
とは言え、中学には電車からの方が近いし、昼間は本数が少ないとはいえバスがあるので、この道を使う事は殆ど無かったが。
「いよいよ、か」
リュックのショルダーベルトを握る。
静謐な空気に、緊張の色が滲む声が霧散した。
虫たちの声もまるでしない。
点滅し続ける信号器の明かりと、三、四十メートル間隔に設置された電柱の街灯が足元に白い光を落とす。
十一月一日。
今日は、ことりの台所の開店日だ。
私たちの店は白鷺地区の西の端に位置する、森を抜けた先にある。
森と言っても、さっき私が抜けてきた林道――しかも正規ルートではないような道ではなく、きちんと舗装もされている。
うっかり道から逸れてしまわないようガードレールもあり、店まではこの道なりに進むだけなので、観光客が来たとしても迷う事は無いだろう。
森を抜け、白み始めた空の下に、古民家と、その後ろに山の稜線が浮かぶ。
あの山の向こうは星野地区だ。まだこの島に来て、一度も足を踏み入れていない。
隼人は起きてるのだろうか。
約束は五時四十五分。まだ随分早い。
開店初日。
早めに来て、店の周りの掃除でもしようかと思っている。
隼人は私が来たら、陽ノ江の市場に買い出しに行くことになっていた。
岩城さんの会社から仕入れられるのが一番助かるが、この状況ではどうしようも無い。
とにかく、スーパーや、市場に買いに行くなどして、当面は乗り切るほかないというのが私たちの結論だった。
もちろん、隼人が野菜を育ててはいるが、開店に間に合うはずもなかった。
店に一歩ずつ近付くと、古民家を囲う木の柵の外——道端に何か黒い大きな塊が落ちている。
いや、倒れている。
え、何?
薄暗いせいで良く見えない。
目を細めながら黒いそれに寄って行く。
「ぎゃっ」
咄嗟に黒板を爪で引っ掻くような悲鳴を上げてしまった。
ホラー映画なんかでは、きゃー、なんて叫ぶが、実際に本当に恐怖と驚きが混じりあうと、全く可愛げのない声が出るらしい。
「うお!?なんだ、ことりかよ」
まさかの隼人だった。
道のど真ん中に大の字になったまま、固まる私を見上げている。
「ななな、何やってんの」
よいしょ、と一気に腹筋で起き上がると、ジャージのお尻を手で叩いた。
頭にも色々ついてるよ。私が後頭部を指さすと、ほんと?あはは。なんて能天気に自分の後頭部も叩いた。
ぱらぱらと細かい砂利が落ちる。
この男、まさかここで寝ていたんじゃ。ありえる。隼人ならやりそう。
「道のど真ん中で寝っ転がるって、憧れない?ほら、この辺りは周りに民家も無いから車も通んねえし、やりたい放題でしょ」
「憧れないよ」
小学生か――。
そんな突っ込みを心の中に押し留める。
「せっかく早起きしたから、空が明るくなる瞬間をぼーっと見てみたいなって思って。昔からそう言うの思ってたんだけど、いっつも気付いたら明るくなってんだよな」
そういうものなのだろうか。そんな憧れなんて持ったこともないから、よくわからないけれど。
「とりあえず、私は掃除をしようと思うんだけど」
「いやいや、ちょい待ち。ことりさん」
「わっ、なによ」
開けようとした玄関の引き戸を隼人が抑えた。
「まずは朝ごはんですよ。腹が減っては戦は出来ぬ」
「でも隼人はこれから市場でしょ」
「もちろん行くよ。だから俺はもう食べた。おにぎりだけど、ことりのも用意してあるから。まずはそれを食べること」
言われて、私の腹の虫が返事をする。
「あ、ありがとう。ほら、入るよ」
「だめー」
「もう、なに」
しつこさに少しむっとすると、隼人の手はドアを抑えたまま空を見上げていた。
「朝日だ」
横顔が白い陽光に照らしだされる。
寝起きのせいか乱れた金髪と、私より高い鼻の端正な顔立ちが、眩しそうに目を細めながらほほ笑んでいた。
「よし」
店の看板を出し、今日も元気いっぱいに枝葉を広げるケヤキを見上げた。
これがうちの目印。
隼人が描いた青い鳥。
不安しか無かったが、こうして見ると挑戦して良かった。
そんな明るい気持ちが心の中に湧いてくる。
「ここが、これからの私の居場所になるんだ」
天気は快晴。十一月の空は、店の開店を祝ってくれているみたいだ。
「ことりー、メニュー用の紙ってどこにあったっけー」
家の中から隼人の声が聞こえてきて、大股で玄関へと向かった。
「これ書くの忘れてたわ。えっと、ご飯、味噌汁。ああでも、豚汁になる時もあるんだよな。んー、どう書こうかな」
居間に四つ置かれたテーブルのうちの、廊下側の席についた隼人は、暫く考えたあと、さらさらと色鉛筆を紙に滑らせた。
その間、私は台所に立ち、浸水しておいたご飯を土鍋入れて、火に掛けた。
「うっしゃ、出来た。額に入れて壁に掛けとくわ」
はーい、と返事をしながら、洗い物を済ませる。
麦味噌の良い香りと、土鍋の中で炊けていく甘い香りが、昔ながらの台所を満たした。
腐っていた場所だけを張り替えた床は、食器棚の辺りは踏むたびに軋む音がして、冷蔵庫があったであろう場所――色の変わった床板の場所に、同じく冷蔵庫を置いた。
この時代に緑色の冷蔵庫。
ツバキさんに教えてもらった陽ノ江のリサイクルショップで見つけてきたものだ。
そこの家電で、冷蔵庫、オーブンレンジ、トースターは安く揃えることができた。
ちなみに、居間のテーブル四卓もその店の商品だ。
売れ残った大きなテーブルが欲しいと言ったら、店主が大喜びで値引いてくれた。
元値は一卓二万円だったが、一万円にしてくれた。
その上まだ綺麗な、というか寧ろ使われた形跡も無いような座布団を付けてくれたのだ。
私たちがあの店をやる事を知っていた店主だった。
チョーさんを始め、色んな島民は私たちの店を反対していると思っていたから驚いたが、店主は「僕は面白い事が大好きでねぇ」といたずらっぽく笑った。
太い眉の狸顔で。
やっぱりカツラである事を隠しきれていないような七三分けの前髪を手で整えながら。
「連絡先教えてくれたら、店で使えそうな商品が入ったらすぐに連絡してあげるよ」
前髪の毛先を、つるん、と撫でつけた。
そう。リサイクルショップの店主は、タクシー運転手の丸山幹夫さんだ。
人生楽しく生きてなんぼ、がモットーらしい彼は、普段はタクシー運転手。
週三日は津久茂島役場の裏にあるプレハブ店舗で【リサイクルショップぽんぽこ】を営んでいる。
ちなみに店の入り口に掲げられたトタンの看板には、でかでかとタヌキの絵が描かれていた。
丸山さん自身も、タヌキ顔だと自覚していらしい。
とにかく物の多い店内に圧倒されていると、山積みにされた商品の間を縫って欲しい物を発掘するスタイルだと、丸山さんは胸を張って言った。
「ことり、できた?」
「うん。ちょうど味噌汁もできたよ」
「じゃ、ことりの台所。オープンだっ」
ああ、どうしよう。落ち着かない。
さっきも拭いたテーブルの上を、意味も無く拭き直し、きちんと並んだ座布団をちょっと動かしてみたり、縁側を右往左往してみたり。
誰か来るだろうか。来てくれるのだろうか。
最初から上手くいくわけ無いんだから、不安に思っても仕方ないんだ。
うん、そうだそうだ。
ひとつ深呼吸して、背筋をうんと伸ばした。
「いらっしゃいませ」
「えっ――」
慌てすぎて、畳の上で足を滑らせながらも居間を飛び出す。
ああ、いけない。
玄関に出る前に、一度落ち着いて。
よし。
「いらっしゃいま――お母さん」
「ふふっ、来ちゃった」
「ことりちゃん、おはよ」
母の後ろから、大仏パーマのツバキさんが小さく手を振りながら、ひょっこり顔を出した。
「ツバキさんも来てくれたんですね。ありがとうございます、ささ、どうぞ。靴はこっちの靴箱にお願いします」
隼人がふたりを案内してくれている間、私は足早に台所へと向かい、お茶の準備に取り掛かる。
湯呑にお茶を注いでいる間、居間の方から二人の盛りあがる声――主にツバキさんの声が聞こえてきた。
いやあ、嘘みたいねえ。あの状態からここまで綺麗になって。
もうみんな取り壊すしかないって思ってたもの。
森野さんも鼻が高いじゃない、こんな素敵な事を始められる娘さん。
ええ、私の娘だなんて思えないくらいです。
全く謙遜する様子の母に私はひとり台所で苦笑していると、その会話に隼人が乗っかる。
料理は上手いし、なんてったってすげえ努力家ですからね。――なんだか恥ずかしくて台所から出られなくなってしまいそうだ。
「お待たせしました」
自分の母親とその友人を相手に、湯呑を持つ手が震える。ああ、もう何で。
「ありがとう」
湯呑を置いて、目の前の母と目が合う。母の口が小さくパクパク動いた。
大丈夫よ。
言い終えて、きゅっと口元を結んで口角を上げた。
恥ずかしくて、さっさと顔を逸らしてツバキさんの前に湯呑を置いた。
ツバキさんには私の緊張が伝わらなかったらしく「ありがとねえ」と、視線を壁に掛けたメニューの額に向けていた。
〇ごはん(おにぎりに変更可。具は、梅干し・焼き鮭・おかか・ツナマヨ。日によって炊き込みご飯などの用意もあります)
〇味噌汁(豚汁、お吸い物など、変更になる場合があります)
その日の食材の仕入れによって、メニューが変わります。
材料があれば、ご希望のものも作ります。お気軽にどうぞ。
食事は1人500円。メニュー変更後も統一。
「へえ、面白い。今日のメニューは何になるの?」
ツバキさんが訊ねると、隼人はすかさずテーブルの隅のメニュースタンドから、手書きの画用紙を取って手渡した。
【本日の日替わりメニュー】と書かれている。
「カマスがあるのね。えっと、塩焼き。天ぷらもできるんだ。ほうれん草は、お浸しか胡麻和えか。こうやって選べるの楽しくて良いと思うわ。ねえ、森野さん」
ツバキさんの向かいで一緒にメニューを覗く母は
「そうね。どうしようかなあ」
と右手を顎に当てながら真剣に悩んでいる。
「朝ご飯だし、私は塩焼きにしようかな」母が言う。
「良いわね、私も同じので」
ツバキさんがメニューをスタンドに戻す。
「ほうれん草のを変更って出来る?」
「できますよ。材料があれば、他のを作る事もできます。何が良いですか」
隼人が慣れた口調で説明する。
やっぱりこういうのは隼人が上手い。
お客さんから質問されると、私はいつも口ごもってしまう。
「冷ややっこが良いんだけど」
ツバキさんの視線が私に向けられる。
料理担当の私に聞くべきだと思ったのだろう。
冷蔵庫の中身を把握しているのは恐らく私だと思われているのだ。
「あっ、えっと……お味噌汁にもお豆腐が入ってるんですが……それでも良ければ、お豆腐はあるのでできますよ」
「良い良い。私ね、朝は冷ややっこ食べたいの。嬉しいわ、こうやって要望聞いて貰えるお店。出来たらで良いんだけど、お豆腐には梅干しを叩いたのを乗せて欲しいの。それとごま油をちょこっとかけて」
「わかりました」
「じゃあ、お母さんも同じの貰おうかしら」
「はい。じゃあ、用意してきますね」
ツバキさんは、もじゃもじゃの大仏頭を両手で整え、楽しみねえと母とふたりで部屋中を見回していた。
「ことり、手伝うことある?」
「じゃあ、お漬物。たくあんがあるから、それ小鉢に移しといて。いま魚焼いてるから、長角皿の用意も。それからは……うん、大丈夫。お豆腐はすぐ出来るし」
グリルを開けると、ぱちぱちと皮が弾け、香ばしいかおりが鼻腔をくすぐる。
「了解。あ、おしぼりも用意しないと」
背後で隼人が歩くたびに床が軋む。
少しだけ開けた窓から、裏庭の畑が見える。
これからあそこに色んな野菜がなるのだろうか。
ふわりと流れ込んだ風に、流しの上に取り付けた三又の布巾かけのゴム手袋と白い布巾が、僅かに揺らいだ。
隼人自身は厨房での作業は苦手だと弁当屋時代にはよく嘆いていたが、私からしてみれば、そんなの心配するほどの事でも無いと思っている。
隼人はただ、色んな事を覚えながら動くのが苦手なだけだ。
例えば、お弁当の内容だったり詰める配置だったり。
そういうものは、きちんと紙に纏めさえすれば、その通りに動ける。
彼としては、いちいち確認しながら動くのが効率的じゃないと、忙しい時間には足手まといになる事を気にしているようだが、私から見れば、解決策があるのだから問題ないじゃないかと思う。
それよりも私のコミュニケーション能力の低さの方が大問題だ。
隼人がいないと、客が母親だとしても手が震える。
よく知っているツバキさんなんて顔もまともに見られないのだから、初対面のお客さんが来たらどうなるのだ。
この店は隼人がいないとどうにも回らないのは明確。
私の方がよほど問題児だ。
焼けたカマスを皿に盛り付け、叩き梅とごま油を垂らした冷や奴と、たくあんを添える。
土鍋の蓋を開けてもわりと立ち上る湯気に、眩暈がしそうなほどの幸福感を味わい、茶碗によそって、豆腐と油揚げの味噌汁をお盆に乗せた。
「あれ。隼人のスマホ、鳴ってない?」
どこからか、微かにスマホのバイブレーションが聞こえた気がした。
「まじで?あ、スマホ部屋に置きっぱなしだわ。ごめん、ちょっと出てくる」
ひぇっ。
心の中で短く叫んだ。料理はできているのだから、隼人を待っているわけにはいかない。
「わかった」
パニックになっているのを悟られないよう、平静を装ってお盆を持った。
任せて、大丈夫だから。とアピールするように。
「美味しい、ねえことりちゃん。これ本当美味しい。焼き魚ってシンプルだけど難しいわよ。上手に焼けてる。流石、都会の人たちの下を虜にしてきただけあるわあ」
「そ、そんな虜には流石に……」
「ううん、老舗の弁当屋さんだったんでしょ。お洒落なお店があるなかで営業し続けられるのは、味が良いからってのは欠かせないわよ」
「そ、そうでしょうか……」
「味噌汁は麦味噌なのね。お母さんもずっと麦味噌だから、落ち着く」
「ことりちゃんは親孝行よねえ、本当。このご飯も島のお米?」
「はい、ここの。白鷺地区のお米屋さんのものです。この島の美ら米です」
「やっぱりねえ、この大きい粒と、甘すぎず、どんなおかずとも相性抜群の味でわかったわ。親孝行に加えて、島の事も考えてくれていて、文句無しよ。ほんと、何の文句があるのかしらね、あの馬鹿は。私は応援するわよお」
ツバキさんのべた褒めに、顔から火が噴きそうだ。
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声になる。
更なる褒めを繰り出しそうになったツバキさんを遮るように、母が「このお豆腐美味しい」と声を上げた。
「お豆腐と梅干しって合うのね。ごま油の香りも良いわ。良い食べ方を教えてもらっちゃった」
「あ、やっぱり気に入った?良いでしょ、美味しいのよそれ」
二人の会話が盛り上がり始めてほっと胸を撫でおろした私が、お盆を手に立ち上がろうとすると
「ことりちゃーん、どやあ、客入っとるかあ。邪魔すんでえ」
関西弁が古民家に響き渡り、がらり、と居間ではなく廊下側のガラス戸を開ける音がした。ミシミシと軋む床板の音が迫って来たかと思うと、黒光りした田所さんが居間に入るや否やクーラーボックスをどさりと置いた。
「おう、お母ちゃんが来てくれたんか。ツバキ屋さんもおはようさん。ええやん、繁盛しとるようで安心したわ」
大声で言って、にかっと白い歯を見せて笑うと「ことりちゃん、台所、ええか」と乾燥した手で紺の暖簾を指した。
あの暖簾は元々この家に掛けてあった物だ。
綺麗に洗って、しっかり干して使っている。私のお気に入りだ。
「良いですけど」
私が言い終わる前に、再びクーラーボックスを肩に下げ、のしのしと暖簾をくぐる。
隼人、早く戻ってきて――。
泣き言を胸裏で呟きながら、田所さんの後に続いて暖簾をくぐった。
「ほら、これやるわ。アジとカマス。マアジや、美味いで。お母ちゃんらもカマス食うとったな。かぶってもうたけど、まあええやろ。俺と戸波の兄ちゃんからの差し入れや。あかりちゃんが、ここに持ってたらどうやって言うたんやで。ええ子やな、まだちびちゃんやのに」
「そんな、流石にこんなに貰うのは悪いです。お店ですし、お金を……」
仕入れ用の財布は、確か今は隼人が持っているはずだ。本当、何やってんのよっ。
「ええやん、そないな事まで気にされたら、逆にこっちが悪いことした気するやろ。貰えるもんはもろといたらええねん」
いや、でもそんな、としどろもどろになる私なんてお構いなしに、田所さんは「ええねん」を連呼し、余ったら自分らの晩飯にでもしたらええねん、と台所を出ると、さっさと玄関に向かう。
ごめんやで、今日は釣りにかまけて畑の用事も終わっとらんから。また来るわ、と。
隼人が戻ってきたのは、田所さんが出てすぐだった。
スマホを握りしめ、食後の珈琲を淹れている私の元へと上機嫌で入って来た。
「さっきの電話、風の丘地区からでさ。野菜、卸してもらえる事になった」
「うそ、ほんと?」
私の声が聞こえたのか、ツバキさんが居間から「仕入れできるの?良かったじゃない」と言った。
「この前は断られてたのに、どうして」と不思議そうな母の声も聞こえて、私も「急に何でだろう」と首を傾げる。
隼人は「理由は俺にもわからないけどさ」と肩をすくめた。
「まあ、とりあえず良かったじゃん。配送して貰えたら、かなり助かるよな」
「本当だね」
毎日買いに行かなくて済むのだ。
それにスーパーで買うよりも安く仕入れもできるはずだ。
そもそも大した開業資金を用意できていなかった私たちにとっては、とてもありがたい事だ。
「し、か、も」
勿体ぶって、にやり、と笑う。
「星野地区からも卵を仕入れられそうです!」
「え、なんで?っていうか、そんな話あったっけ?」
隼人は「丸山さんだよ」と人差し指を立てた。
「あの人の実家、星野地区で養鶏場やってんだって。俺らが店をやるって知ってたから、業者を通さず、直接買い取らせてもらえるよう話してくれたみたい。いやあ、リサイクルショップで連絡先教えといてよかったわ。やっぱ、人との繋がりは大事にすべきだな」
良かった。卵のこともそうだが、私に無い能力を揃えたような人で本当に良かった。
私がスマホを持っていたとしても、あの場で連絡先を教えるなんてできなかっただろう。
何はともあれ、野菜も卵までも新鮮なものが仕入れられる。
すっかり冷めてしまった珈琲を淹れ直す時間も、心の中の私はワルツでも踊り出しそうな気分だ。
ことりの台所、開店初日は、母とツバキさん。
お昼過ぎには田所さん。
チラシを見て来てくれた高齢女性二人組と、ひとり旅中の男性(隼人が戸波さんにお願いして、船着き場の傍にチラシを張ってもらったらしい)が来てくれた。
午後5時。すっかり陽も落ち、縁側の向こうにある庭は、闇に覆われていた。
居間のテーブルを拭きながら、隼人は「良い調子じゃん」と上機嫌だった。
私としても、これくらいが良い。あまり混雑すると本当に仕事、という感じになってしまう。
そうじゃなくて、ことりの台所は、家に帰って来るようなお店なのだ。
お客さんからしても、大繁盛となってしまっては雰囲気も味わえないだろう。
せっかく古民家をリフォームした意味も無くなってしまう。
私だって家にいるというより、仕事、となってしまうのが嫌だった。
ここは私の居場所、私の家でもあるつもりだ。
そういえば、この家には空き部屋がある。居間の他に和室が四つ。
ひとつは隼人が使っている。
ここに住めたら、毎朝この台所に立てるのだ。
ああ、良いな。
柔らかな朝陽が台所の窓から差し込んで、鳥の囀りなんかも聞こえるだろう。
広い縁側と、そこからも見えるケヤキの木。
森と山に挟まれた、白鷺地区の隔離された場所で、静かに暮らすのも楽しそう。
「ことりもこっちに住めば?」
「良いよねえ」
「部屋も空いてるし」
「まあね――って違う何言ってんの。無理無理。せめて離れでもあればわかるけど」
同じ屋根の下なんて無理。男と女のどうこうの問題じゃなく、隼人だからという理由でもない。
単に男の人と一緒に住むなんて無理。絶対に嫌だ。
「じゃあ俺はあっちで寝ようか」
食器を拭く私の隣で、コンロを掃除していた隼人が「あっち」と裏庭の方を親指でさした。
「え、畑?」
いやまあ、それならまあ。
「んなわけねぇだろ。酷い、これから冬になるのに俺を野宿させる気?」
そりゃそうか。
「畑の向こう。裏山の麓に小屋があるの知ってた?こないだチラシ配ってたら、白鷺の自治会長の長野さんに、あそこの小屋も家主の田畑さんの持ち物だから好きに使って良い、って言われてたんだよ。倉庫に使ってたらしいけど、結構綺麗だったぜ」
白鷺地区自治会長、長野さん。この家の見学に立ち会ってくれた、頭にカラスの糞を落とされたあの人だ。
「まあ、ことりのお母さんが寂しく無かったらで良いけど。せっかく娘が帰って来て喜んでくれてるんだろ」
それはそうだ。寂しがるだろうか。
その日の夜、母が作った焼きそばを食べていると、私が話を振るより先に、母が言った。
「ことり、あのね……」
ちょうど焼きそばで口がぱんぱんの時に声を掛けられ、喋る代わりに目を見開いて母を見た。なに?
「お母さんは帰って来てくれて嬉しいんだけど、ことりには自分の時間を大切にして欲しいの」
「どういうこと?」
焼きそばを飲み込んで、冷たい麦茶を飲む。
いまにも固まりそうな麺を箸でほぐしながら訊ねた。
「今しかできない事ってあるでしょう。せっかく島を出たのに、また戻ってくることになって。お母さんの腰ももう治ってるし。ほら、隼人君。あの子が近くにいるならことりが家を出るとなっても安心よ。戸締りと火の元だけ気を付けてくれれば」
うん。答えて、皿の上の焼きそばを箸で突いた。
最近の忙しさで父の事を忘れかけていたけれど、こっちに戻ったのは父の事があったからだ。
母の傍にいて守らなきゃ。今度こそ。そう思った。でも――。
「私が帰って来た理由だけどさ」
迷った。
また父の存在を思い出させるなんて、母の記憶と心をあの頃に引き戻してしまう事になるかもしれない。
ただでさえ、母は私に対して相変わらず過保護で心配性で、いつだって私の事を一番に考えすぎる。
二十六歳の娘に対して、料理中の火傷を心配したり、オムライスはケチャップでにこちゃん。
母の中では、幼稚園児の頃と変わらないのだろう。
母にとってのトラウマのひとつ。
父との暮らしで陰鬱とした幼少期を過ごした娘への罪悪感が消えないのだ、きっと。
心配だけれど、私の事を考えると家を出てほしい。
相反する願いの狭間で葛藤している。
だからこそ、この母の表情が煮え切らないのだと思った。
「ことりが帰って来た理由?お母さんの腰じゃなかった?」
「お父さんが、お母さんの事を探してるからだよ」
「え……」
テレビのなかで、ひな壇で笑う芸人たちの声が遠くに消えていく。
平静を装っている母の顔の筋肉が一瞬ひくついたのは、見逃したくても見逃せなかった。
「私のアパートに来たの。ポストのチラシの裏にメモまで残してた。私の職場もわかってるって。電話も何度も。だからスマホを解約したの。弁当屋にも迷惑がかかる。何より、お母さんの傍に行かなきゃって、急いで帰って来た。それがこの島に戻った理由」
早口で一気に言い切った。
時間を掛けて言えば、母の心を長くえぐる気がして。
緊張をほぐそうとする本能か、言いながら笑っていた。表情はぎこちないけれど。
「そう、なの」
母は私に表情を見せないように、俯いたまま、まだ三分の一の焼きそばが残った皿を手に立ち上がった。
台所で洗い物を済ませた母は、ガラス戸越しに「ごめんね、明日早いから先に寝るね」とだけ言うと、シルエットが階段へと消えてしまった。
残された私の焼きそばは、団子みたいにがんじがらめに固まってしまっていた。
翌日の朝は五時に起き、母が仕事に行く前に用意してくれたおにぎりを食べ、トートバッグを肩に掛ける。
「ん?」
玄関に白い無地の封筒が置いてあった。
中には、小さな文字で書かれた手紙が一枚。
ことりへ。
昨日はごめんなさい。
ちょっと驚いちゃったの。久しぶりの話だったから。
でもね、もう大丈夫。
心配してくれてありがとう。
お母さん、いつもことりの事を守ってあげられないね。
お父さんがことりの居場所を突き止めた事、その上でことりをお母さんの傍に置いておかない事は、お母さんにとって凄く不安です。怖いです。心配です。
だけど、お父さんとの事があるせいで、ことりが自由に出来ない事は、もっともっと悲しいです。
お父さんの事は、お母さんの責任です。
大丈夫、あの人の目的がお母さんなら、ことりはここを離れた方が良い。
それなら尚更、隼人君と一緒にいてくれる方がお母さんは安心です。
彼はことりの事を一生懸命想ってくれる、とても良い人だと思うから。
お父さんとは正反対の人間です。
お母さん、ことりの事が心配だった。お店に行った時も大丈夫かしらって思ったの。
でもとっても美味しいお料理を見て、食べて、あなたがもうすっかり大人になったんだって、わかった。
いつまでも子供じゃないのよね。
火の始末だって、ずっとお弁当屋さんで勤めたあなたはプロだもの。心配する必要なんて無かったのよね。
面と向かって話すのは、上手く言えないと思うから。
大事な話なのに、手紙でごめんね。
お母さんは、ことりが自由に羽ばたいている姿を見るのが夢です。
おかあさんより。
読み終えて、改めてもう一度手紙の全体に目を通す。
震えていた。ほんの少しだけれど、その文字の部分だけ僅かに。
「お父さん、か」
手紙を封筒に戻して、バッグのポケットに仕舞った。
私が自由に羽ばたいている姿を見るのが夢。
それが、母を一番笑顔に出来ることなら――。
遥か頭上に生い茂る葉の隙間から覗く空は群青に沈み、ぽつぽつと星が見える。
朝の四時の津久茂島は、しんと静まり返っている。
澄んだ冷気が頬をかすめて、思わず首を縮め、薄手のカーディガンのポケットに両手を隠した。
昨日、スーパーで買った食材が入ったエコバッグの重みが、脂肪が殆どを占める腕にずしりと沈み込む。
踏みしめるたびに、スニーカーの裏に細かな砂利を感じながら、黙々と未舗装の道を歩き続ける。
自宅の裏にある小道から林道を十分ほど歩いて抜けると、あぜ道の先に森林公園の黒いシルエットが浮かび上がった。
ここが白鷺地区に出る近道だというのは、中学一年の夏休みに知った。
少々道なき道を進む事にはなるが、林道を歩く距離が短くなるのだ。
林道は蚊が多く、特にこの時期は酷い目に遭う。
こんな誰もいない時間に私みたいな攻撃力も0に等しい人間が入ってくれば、蚊からしてみればご褒美でしか無い。
とは言え、中学には電車からの方が近いし、昼間は本数が少ないとはいえバスがあるので、この道を使う事は殆ど無かったが。
「いよいよ、か」
リュックのショルダーベルトを握る。
静謐な空気に、緊張の色が滲む声が霧散した。
虫たちの声もまるでしない。
点滅し続ける信号器の明かりと、三、四十メートル間隔に設置された電柱の街灯が足元に白い光を落とす。
十一月一日。
今日は、ことりの台所の開店日だ。
私たちの店は白鷺地区の西の端に位置する、森を抜けた先にある。
森と言っても、さっき私が抜けてきた林道――しかも正規ルートではないような道ではなく、きちんと舗装もされている。
うっかり道から逸れてしまわないようガードレールもあり、店まではこの道なりに進むだけなので、観光客が来たとしても迷う事は無いだろう。
森を抜け、白み始めた空の下に、古民家と、その後ろに山の稜線が浮かぶ。
あの山の向こうは星野地区だ。まだこの島に来て、一度も足を踏み入れていない。
隼人は起きてるのだろうか。
約束は五時四十五分。まだ随分早い。
開店初日。
早めに来て、店の周りの掃除でもしようかと思っている。
隼人は私が来たら、陽ノ江の市場に買い出しに行くことになっていた。
岩城さんの会社から仕入れられるのが一番助かるが、この状況ではどうしようも無い。
とにかく、スーパーや、市場に買いに行くなどして、当面は乗り切るほかないというのが私たちの結論だった。
もちろん、隼人が野菜を育ててはいるが、開店に間に合うはずもなかった。
店に一歩ずつ近付くと、古民家を囲う木の柵の外——道端に何か黒い大きな塊が落ちている。
いや、倒れている。
え、何?
薄暗いせいで良く見えない。
目を細めながら黒いそれに寄って行く。
「ぎゃっ」
咄嗟に黒板を爪で引っ掻くような悲鳴を上げてしまった。
ホラー映画なんかでは、きゃー、なんて叫ぶが、実際に本当に恐怖と驚きが混じりあうと、全く可愛げのない声が出るらしい。
「うお!?なんだ、ことりかよ」
まさかの隼人だった。
道のど真ん中に大の字になったまま、固まる私を見上げている。
「ななな、何やってんの」
よいしょ、と一気に腹筋で起き上がると、ジャージのお尻を手で叩いた。
頭にも色々ついてるよ。私が後頭部を指さすと、ほんと?あはは。なんて能天気に自分の後頭部も叩いた。
ぱらぱらと細かい砂利が落ちる。
この男、まさかここで寝ていたんじゃ。ありえる。隼人ならやりそう。
「道のど真ん中で寝っ転がるって、憧れない?ほら、この辺りは周りに民家も無いから車も通んねえし、やりたい放題でしょ」
「憧れないよ」
小学生か――。
そんな突っ込みを心の中に押し留める。
「せっかく早起きしたから、空が明るくなる瞬間をぼーっと見てみたいなって思って。昔からそう言うの思ってたんだけど、いっつも気付いたら明るくなってんだよな」
そういうものなのだろうか。そんな憧れなんて持ったこともないから、よくわからないけれど。
「とりあえず、私は掃除をしようと思うんだけど」
「いやいや、ちょい待ち。ことりさん」
「わっ、なによ」
開けようとした玄関の引き戸を隼人が抑えた。
「まずは朝ごはんですよ。腹が減っては戦は出来ぬ」
「でも隼人はこれから市場でしょ」
「もちろん行くよ。だから俺はもう食べた。おにぎりだけど、ことりのも用意してあるから。まずはそれを食べること」
言われて、私の腹の虫が返事をする。
「あ、ありがとう。ほら、入るよ」
「だめー」
「もう、なに」
しつこさに少しむっとすると、隼人の手はドアを抑えたまま空を見上げていた。
「朝日だ」
横顔が白い陽光に照らしだされる。
寝起きのせいか乱れた金髪と、私より高い鼻の端正な顔立ちが、眩しそうに目を細めながらほほ笑んでいた。
「よし」
店の看板を出し、今日も元気いっぱいに枝葉を広げるケヤキを見上げた。
これがうちの目印。
隼人が描いた青い鳥。
不安しか無かったが、こうして見ると挑戦して良かった。
そんな明るい気持ちが心の中に湧いてくる。
「ここが、これからの私の居場所になるんだ」
天気は快晴。十一月の空は、店の開店を祝ってくれているみたいだ。
「ことりー、メニュー用の紙ってどこにあったっけー」
家の中から隼人の声が聞こえてきて、大股で玄関へと向かった。
「これ書くの忘れてたわ。えっと、ご飯、味噌汁。ああでも、豚汁になる時もあるんだよな。んー、どう書こうかな」
居間に四つ置かれたテーブルのうちの、廊下側の席についた隼人は、暫く考えたあと、さらさらと色鉛筆を紙に滑らせた。
その間、私は台所に立ち、浸水しておいたご飯を土鍋入れて、火に掛けた。
「うっしゃ、出来た。額に入れて壁に掛けとくわ」
はーい、と返事をしながら、洗い物を済ませる。
麦味噌の良い香りと、土鍋の中で炊けていく甘い香りが、昔ながらの台所を満たした。
腐っていた場所だけを張り替えた床は、食器棚の辺りは踏むたびに軋む音がして、冷蔵庫があったであろう場所――色の変わった床板の場所に、同じく冷蔵庫を置いた。
この時代に緑色の冷蔵庫。
ツバキさんに教えてもらった陽ノ江のリサイクルショップで見つけてきたものだ。
そこの家電で、冷蔵庫、オーブンレンジ、トースターは安く揃えることができた。
ちなみに、居間のテーブル四卓もその店の商品だ。
売れ残った大きなテーブルが欲しいと言ったら、店主が大喜びで値引いてくれた。
元値は一卓二万円だったが、一万円にしてくれた。
その上まだ綺麗な、というか寧ろ使われた形跡も無いような座布団を付けてくれたのだ。
私たちがあの店をやる事を知っていた店主だった。
チョーさんを始め、色んな島民は私たちの店を反対していると思っていたから驚いたが、店主は「僕は面白い事が大好きでねぇ」といたずらっぽく笑った。
太い眉の狸顔で。
やっぱりカツラである事を隠しきれていないような七三分けの前髪を手で整えながら。
「連絡先教えてくれたら、店で使えそうな商品が入ったらすぐに連絡してあげるよ」
前髪の毛先を、つるん、と撫でつけた。
そう。リサイクルショップの店主は、タクシー運転手の丸山幹夫さんだ。
人生楽しく生きてなんぼ、がモットーらしい彼は、普段はタクシー運転手。
週三日は津久茂島役場の裏にあるプレハブ店舗で【リサイクルショップぽんぽこ】を営んでいる。
ちなみに店の入り口に掲げられたトタンの看板には、でかでかとタヌキの絵が描かれていた。
丸山さん自身も、タヌキ顔だと自覚していらしい。
とにかく物の多い店内に圧倒されていると、山積みにされた商品の間を縫って欲しい物を発掘するスタイルだと、丸山さんは胸を張って言った。
「ことり、できた?」
「うん。ちょうど味噌汁もできたよ」
「じゃ、ことりの台所。オープンだっ」
ああ、どうしよう。落ち着かない。
さっきも拭いたテーブルの上を、意味も無く拭き直し、きちんと並んだ座布団をちょっと動かしてみたり、縁側を右往左往してみたり。
誰か来るだろうか。来てくれるのだろうか。
最初から上手くいくわけ無いんだから、不安に思っても仕方ないんだ。
うん、そうだそうだ。
ひとつ深呼吸して、背筋をうんと伸ばした。
「いらっしゃいませ」
「えっ――」
慌てすぎて、畳の上で足を滑らせながらも居間を飛び出す。
ああ、いけない。
玄関に出る前に、一度落ち着いて。
よし。
「いらっしゃいま――お母さん」
「ふふっ、来ちゃった」
「ことりちゃん、おはよ」
母の後ろから、大仏パーマのツバキさんが小さく手を振りながら、ひょっこり顔を出した。
「ツバキさんも来てくれたんですね。ありがとうございます、ささ、どうぞ。靴はこっちの靴箱にお願いします」
隼人がふたりを案内してくれている間、私は足早に台所へと向かい、お茶の準備に取り掛かる。
湯呑にお茶を注いでいる間、居間の方から二人の盛りあがる声――主にツバキさんの声が聞こえてきた。
いやあ、嘘みたいねえ。あの状態からここまで綺麗になって。
もうみんな取り壊すしかないって思ってたもの。
森野さんも鼻が高いじゃない、こんな素敵な事を始められる娘さん。
ええ、私の娘だなんて思えないくらいです。
全く謙遜する様子の母に私はひとり台所で苦笑していると、その会話に隼人が乗っかる。
料理は上手いし、なんてったってすげえ努力家ですからね。――なんだか恥ずかしくて台所から出られなくなってしまいそうだ。
「お待たせしました」
自分の母親とその友人を相手に、湯呑を持つ手が震える。ああ、もう何で。
「ありがとう」
湯呑を置いて、目の前の母と目が合う。母の口が小さくパクパク動いた。
大丈夫よ。
言い終えて、きゅっと口元を結んで口角を上げた。
恥ずかしくて、さっさと顔を逸らしてツバキさんの前に湯呑を置いた。
ツバキさんには私の緊張が伝わらなかったらしく「ありがとねえ」と、視線を壁に掛けたメニューの額に向けていた。
〇ごはん(おにぎりに変更可。具は、梅干し・焼き鮭・おかか・ツナマヨ。日によって炊き込みご飯などの用意もあります)
〇味噌汁(豚汁、お吸い物など、変更になる場合があります)
その日の食材の仕入れによって、メニューが変わります。
材料があれば、ご希望のものも作ります。お気軽にどうぞ。
食事は1人500円。メニュー変更後も統一。
「へえ、面白い。今日のメニューは何になるの?」
ツバキさんが訊ねると、隼人はすかさずテーブルの隅のメニュースタンドから、手書きの画用紙を取って手渡した。
【本日の日替わりメニュー】と書かれている。
「カマスがあるのね。えっと、塩焼き。天ぷらもできるんだ。ほうれん草は、お浸しか胡麻和えか。こうやって選べるの楽しくて良いと思うわ。ねえ、森野さん」
ツバキさんの向かいで一緒にメニューを覗く母は
「そうね。どうしようかなあ」
と右手を顎に当てながら真剣に悩んでいる。
「朝ご飯だし、私は塩焼きにしようかな」母が言う。
「良いわね、私も同じので」
ツバキさんがメニューをスタンドに戻す。
「ほうれん草のを変更って出来る?」
「できますよ。材料があれば、他のを作る事もできます。何が良いですか」
隼人が慣れた口調で説明する。
やっぱりこういうのは隼人が上手い。
お客さんから質問されると、私はいつも口ごもってしまう。
「冷ややっこが良いんだけど」
ツバキさんの視線が私に向けられる。
料理担当の私に聞くべきだと思ったのだろう。
冷蔵庫の中身を把握しているのは恐らく私だと思われているのだ。
「あっ、えっと……お味噌汁にもお豆腐が入ってるんですが……それでも良ければ、お豆腐はあるのでできますよ」
「良い良い。私ね、朝は冷ややっこ食べたいの。嬉しいわ、こうやって要望聞いて貰えるお店。出来たらで良いんだけど、お豆腐には梅干しを叩いたのを乗せて欲しいの。それとごま油をちょこっとかけて」
「わかりました」
「じゃあ、お母さんも同じの貰おうかしら」
「はい。じゃあ、用意してきますね」
ツバキさんは、もじゃもじゃの大仏頭を両手で整え、楽しみねえと母とふたりで部屋中を見回していた。
「ことり、手伝うことある?」
「じゃあ、お漬物。たくあんがあるから、それ小鉢に移しといて。いま魚焼いてるから、長角皿の用意も。それからは……うん、大丈夫。お豆腐はすぐ出来るし」
グリルを開けると、ぱちぱちと皮が弾け、香ばしいかおりが鼻腔をくすぐる。
「了解。あ、おしぼりも用意しないと」
背後で隼人が歩くたびに床が軋む。
少しだけ開けた窓から、裏庭の畑が見える。
これからあそこに色んな野菜がなるのだろうか。
ふわりと流れ込んだ風に、流しの上に取り付けた三又の布巾かけのゴム手袋と白い布巾が、僅かに揺らいだ。
隼人自身は厨房での作業は苦手だと弁当屋時代にはよく嘆いていたが、私からしてみれば、そんなの心配するほどの事でも無いと思っている。
隼人はただ、色んな事を覚えながら動くのが苦手なだけだ。
例えば、お弁当の内容だったり詰める配置だったり。
そういうものは、きちんと紙に纏めさえすれば、その通りに動ける。
彼としては、いちいち確認しながら動くのが効率的じゃないと、忙しい時間には足手まといになる事を気にしているようだが、私から見れば、解決策があるのだから問題ないじゃないかと思う。
それよりも私のコミュニケーション能力の低さの方が大問題だ。
隼人がいないと、客が母親だとしても手が震える。
よく知っているツバキさんなんて顔もまともに見られないのだから、初対面のお客さんが来たらどうなるのだ。
この店は隼人がいないとどうにも回らないのは明確。
私の方がよほど問題児だ。
焼けたカマスを皿に盛り付け、叩き梅とごま油を垂らした冷や奴と、たくあんを添える。
土鍋の蓋を開けてもわりと立ち上る湯気に、眩暈がしそうなほどの幸福感を味わい、茶碗によそって、豆腐と油揚げの味噌汁をお盆に乗せた。
「あれ。隼人のスマホ、鳴ってない?」
どこからか、微かにスマホのバイブレーションが聞こえた気がした。
「まじで?あ、スマホ部屋に置きっぱなしだわ。ごめん、ちょっと出てくる」
ひぇっ。
心の中で短く叫んだ。料理はできているのだから、隼人を待っているわけにはいかない。
「わかった」
パニックになっているのを悟られないよう、平静を装ってお盆を持った。
任せて、大丈夫だから。とアピールするように。
「美味しい、ねえことりちゃん。これ本当美味しい。焼き魚ってシンプルだけど難しいわよ。上手に焼けてる。流石、都会の人たちの下を虜にしてきただけあるわあ」
「そ、そんな虜には流石に……」
「ううん、老舗の弁当屋さんだったんでしょ。お洒落なお店があるなかで営業し続けられるのは、味が良いからってのは欠かせないわよ」
「そ、そうでしょうか……」
「味噌汁は麦味噌なのね。お母さんもずっと麦味噌だから、落ち着く」
「ことりちゃんは親孝行よねえ、本当。このご飯も島のお米?」
「はい、ここの。白鷺地区のお米屋さんのものです。この島の美ら米です」
「やっぱりねえ、この大きい粒と、甘すぎず、どんなおかずとも相性抜群の味でわかったわ。親孝行に加えて、島の事も考えてくれていて、文句無しよ。ほんと、何の文句があるのかしらね、あの馬鹿は。私は応援するわよお」
ツバキさんのべた褒めに、顔から火が噴きそうだ。
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声になる。
更なる褒めを繰り出しそうになったツバキさんを遮るように、母が「このお豆腐美味しい」と声を上げた。
「お豆腐と梅干しって合うのね。ごま油の香りも良いわ。良い食べ方を教えてもらっちゃった」
「あ、やっぱり気に入った?良いでしょ、美味しいのよそれ」
二人の会話が盛り上がり始めてほっと胸を撫でおろした私が、お盆を手に立ち上がろうとすると
「ことりちゃーん、どやあ、客入っとるかあ。邪魔すんでえ」
関西弁が古民家に響き渡り、がらり、と居間ではなく廊下側のガラス戸を開ける音がした。ミシミシと軋む床板の音が迫って来たかと思うと、黒光りした田所さんが居間に入るや否やクーラーボックスをどさりと置いた。
「おう、お母ちゃんが来てくれたんか。ツバキ屋さんもおはようさん。ええやん、繁盛しとるようで安心したわ」
大声で言って、にかっと白い歯を見せて笑うと「ことりちゃん、台所、ええか」と乾燥した手で紺の暖簾を指した。
あの暖簾は元々この家に掛けてあった物だ。
綺麗に洗って、しっかり干して使っている。私のお気に入りだ。
「良いですけど」
私が言い終わる前に、再びクーラーボックスを肩に下げ、のしのしと暖簾をくぐる。
隼人、早く戻ってきて――。
泣き言を胸裏で呟きながら、田所さんの後に続いて暖簾をくぐった。
「ほら、これやるわ。アジとカマス。マアジや、美味いで。お母ちゃんらもカマス食うとったな。かぶってもうたけど、まあええやろ。俺と戸波の兄ちゃんからの差し入れや。あかりちゃんが、ここに持ってたらどうやって言うたんやで。ええ子やな、まだちびちゃんやのに」
「そんな、流石にこんなに貰うのは悪いです。お店ですし、お金を……」
仕入れ用の財布は、確か今は隼人が持っているはずだ。本当、何やってんのよっ。
「ええやん、そないな事まで気にされたら、逆にこっちが悪いことした気するやろ。貰えるもんはもろといたらええねん」
いや、でもそんな、としどろもどろになる私なんてお構いなしに、田所さんは「ええねん」を連呼し、余ったら自分らの晩飯にでもしたらええねん、と台所を出ると、さっさと玄関に向かう。
ごめんやで、今日は釣りにかまけて畑の用事も終わっとらんから。また来るわ、と。
隼人が戻ってきたのは、田所さんが出てすぐだった。
スマホを握りしめ、食後の珈琲を淹れている私の元へと上機嫌で入って来た。
「さっきの電話、風の丘地区からでさ。野菜、卸してもらえる事になった」
「うそ、ほんと?」
私の声が聞こえたのか、ツバキさんが居間から「仕入れできるの?良かったじゃない」と言った。
「この前は断られてたのに、どうして」と不思議そうな母の声も聞こえて、私も「急に何でだろう」と首を傾げる。
隼人は「理由は俺にもわからないけどさ」と肩をすくめた。
「まあ、とりあえず良かったじゃん。配送して貰えたら、かなり助かるよな」
「本当だね」
毎日買いに行かなくて済むのだ。
それにスーパーで買うよりも安く仕入れもできるはずだ。
そもそも大した開業資金を用意できていなかった私たちにとっては、とてもありがたい事だ。
「し、か、も」
勿体ぶって、にやり、と笑う。
「星野地区からも卵を仕入れられそうです!」
「え、なんで?っていうか、そんな話あったっけ?」
隼人は「丸山さんだよ」と人差し指を立てた。
「あの人の実家、星野地区で養鶏場やってんだって。俺らが店をやるって知ってたから、業者を通さず、直接買い取らせてもらえるよう話してくれたみたい。いやあ、リサイクルショップで連絡先教えといてよかったわ。やっぱ、人との繋がりは大事にすべきだな」
良かった。卵のこともそうだが、私に無い能力を揃えたような人で本当に良かった。
私がスマホを持っていたとしても、あの場で連絡先を教えるなんてできなかっただろう。
何はともあれ、野菜も卵までも新鮮なものが仕入れられる。
すっかり冷めてしまった珈琲を淹れ直す時間も、心の中の私はワルツでも踊り出しそうな気分だ。
ことりの台所、開店初日は、母とツバキさん。
お昼過ぎには田所さん。
チラシを見て来てくれた高齢女性二人組と、ひとり旅中の男性(隼人が戸波さんにお願いして、船着き場の傍にチラシを張ってもらったらしい)が来てくれた。
午後5時。すっかり陽も落ち、縁側の向こうにある庭は、闇に覆われていた。
居間のテーブルを拭きながら、隼人は「良い調子じゃん」と上機嫌だった。
私としても、これくらいが良い。あまり混雑すると本当に仕事、という感じになってしまう。
そうじゃなくて、ことりの台所は、家に帰って来るようなお店なのだ。
お客さんからしても、大繁盛となってしまっては雰囲気も味わえないだろう。
せっかく古民家をリフォームした意味も無くなってしまう。
私だって家にいるというより、仕事、となってしまうのが嫌だった。
ここは私の居場所、私の家でもあるつもりだ。
そういえば、この家には空き部屋がある。居間の他に和室が四つ。
ひとつは隼人が使っている。
ここに住めたら、毎朝この台所に立てるのだ。
ああ、良いな。
柔らかな朝陽が台所の窓から差し込んで、鳥の囀りなんかも聞こえるだろう。
広い縁側と、そこからも見えるケヤキの木。
森と山に挟まれた、白鷺地区の隔離された場所で、静かに暮らすのも楽しそう。
「ことりもこっちに住めば?」
「良いよねえ」
「部屋も空いてるし」
「まあね――って違う何言ってんの。無理無理。せめて離れでもあればわかるけど」
同じ屋根の下なんて無理。男と女のどうこうの問題じゃなく、隼人だからという理由でもない。
単に男の人と一緒に住むなんて無理。絶対に嫌だ。
「じゃあ俺はあっちで寝ようか」
食器を拭く私の隣で、コンロを掃除していた隼人が「あっち」と裏庭の方を親指でさした。
「え、畑?」
いやまあ、それならまあ。
「んなわけねぇだろ。酷い、これから冬になるのに俺を野宿させる気?」
そりゃそうか。
「畑の向こう。裏山の麓に小屋があるの知ってた?こないだチラシ配ってたら、白鷺の自治会長の長野さんに、あそこの小屋も家主の田畑さんの持ち物だから好きに使って良い、って言われてたんだよ。倉庫に使ってたらしいけど、結構綺麗だったぜ」
白鷺地区自治会長、長野さん。この家の見学に立ち会ってくれた、頭にカラスの糞を落とされたあの人だ。
「まあ、ことりのお母さんが寂しく無かったらで良いけど。せっかく娘が帰って来て喜んでくれてるんだろ」
それはそうだ。寂しがるだろうか。
その日の夜、母が作った焼きそばを食べていると、私が話を振るより先に、母が言った。
「ことり、あのね……」
ちょうど焼きそばで口がぱんぱんの時に声を掛けられ、喋る代わりに目を見開いて母を見た。なに?
「お母さんは帰って来てくれて嬉しいんだけど、ことりには自分の時間を大切にして欲しいの」
「どういうこと?」
焼きそばを飲み込んで、冷たい麦茶を飲む。
いまにも固まりそうな麺を箸でほぐしながら訊ねた。
「今しかできない事ってあるでしょう。せっかく島を出たのに、また戻ってくることになって。お母さんの腰ももう治ってるし。ほら、隼人君。あの子が近くにいるならことりが家を出るとなっても安心よ。戸締りと火の元だけ気を付けてくれれば」
うん。答えて、皿の上の焼きそばを箸で突いた。
最近の忙しさで父の事を忘れかけていたけれど、こっちに戻ったのは父の事があったからだ。
母の傍にいて守らなきゃ。今度こそ。そう思った。でも――。
「私が帰って来た理由だけどさ」
迷った。
また父の存在を思い出させるなんて、母の記憶と心をあの頃に引き戻してしまう事になるかもしれない。
ただでさえ、母は私に対して相変わらず過保護で心配性で、いつだって私の事を一番に考えすぎる。
二十六歳の娘に対して、料理中の火傷を心配したり、オムライスはケチャップでにこちゃん。
母の中では、幼稚園児の頃と変わらないのだろう。
母にとってのトラウマのひとつ。
父との暮らしで陰鬱とした幼少期を過ごした娘への罪悪感が消えないのだ、きっと。
心配だけれど、私の事を考えると家を出てほしい。
相反する願いの狭間で葛藤している。
だからこそ、この母の表情が煮え切らないのだと思った。
「ことりが帰って来た理由?お母さんの腰じゃなかった?」
「お父さんが、お母さんの事を探してるからだよ」
「え……」
テレビのなかで、ひな壇で笑う芸人たちの声が遠くに消えていく。
平静を装っている母の顔の筋肉が一瞬ひくついたのは、見逃したくても見逃せなかった。
「私のアパートに来たの。ポストのチラシの裏にメモまで残してた。私の職場もわかってるって。電話も何度も。だからスマホを解約したの。弁当屋にも迷惑がかかる。何より、お母さんの傍に行かなきゃって、急いで帰って来た。それがこの島に戻った理由」
早口で一気に言い切った。
時間を掛けて言えば、母の心を長くえぐる気がして。
緊張をほぐそうとする本能か、言いながら笑っていた。表情はぎこちないけれど。
「そう、なの」
母は私に表情を見せないように、俯いたまま、まだ三分の一の焼きそばが残った皿を手に立ち上がった。
台所で洗い物を済ませた母は、ガラス戸越しに「ごめんね、明日早いから先に寝るね」とだけ言うと、シルエットが階段へと消えてしまった。
残された私の焼きそばは、団子みたいにがんじがらめに固まってしまっていた。
翌日の朝は五時に起き、母が仕事に行く前に用意してくれたおにぎりを食べ、トートバッグを肩に掛ける。
「ん?」
玄関に白い無地の封筒が置いてあった。
中には、小さな文字で書かれた手紙が一枚。
ことりへ。
昨日はごめんなさい。
ちょっと驚いちゃったの。久しぶりの話だったから。
でもね、もう大丈夫。
心配してくれてありがとう。
お母さん、いつもことりの事を守ってあげられないね。
お父さんがことりの居場所を突き止めた事、その上でことりをお母さんの傍に置いておかない事は、お母さんにとって凄く不安です。怖いです。心配です。
だけど、お父さんとの事があるせいで、ことりが自由に出来ない事は、もっともっと悲しいです。
お父さんの事は、お母さんの責任です。
大丈夫、あの人の目的がお母さんなら、ことりはここを離れた方が良い。
それなら尚更、隼人君と一緒にいてくれる方がお母さんは安心です。
彼はことりの事を一生懸命想ってくれる、とても良い人だと思うから。
お父さんとは正反対の人間です。
お母さん、ことりの事が心配だった。お店に行った時も大丈夫かしらって思ったの。
でもとっても美味しいお料理を見て、食べて、あなたがもうすっかり大人になったんだって、わかった。
いつまでも子供じゃないのよね。
火の始末だって、ずっとお弁当屋さんで勤めたあなたはプロだもの。心配する必要なんて無かったのよね。
面と向かって話すのは、上手く言えないと思うから。
大事な話なのに、手紙でごめんね。
お母さんは、ことりが自由に羽ばたいている姿を見るのが夢です。
おかあさんより。
読み終えて、改めてもう一度手紙の全体に目を通す。
震えていた。ほんの少しだけれど、その文字の部分だけ僅かに。
「お父さん、か」
手紙を封筒に戻して、バッグのポケットに仕舞った。
私が自由に羽ばたいている姿を見るのが夢。
それが、母を一番笑顔に出来ることなら――。
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