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第一話 ことりと豆苗
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「ってなわけだからさ。来月ね、そっち戻るから。予定は一日。よろしくね」
「ただの腰痛でわざわざ来なくても良いのに。もっとやりたい事あったでしょう。仕事も辞める必要ないじゃない」
「まぁ、それは良いの。お母さんの調子が戻れば、またこっちに帰る事もできるし。だから部屋は残していくつもり」
「そう……。じゃあ、帰って来る日は港まで迎えに行くね」
「ちょっと、腰痛持ちが迎えに来ないでよ。余計心配になるでしょ。それにもう二十六歳だよ?アラサーの娘なんだから」
「……まあ、じゃあ考えとく」
明らかに納得していない母の声色に、笑いを堪えながら電話を切った。
「さて、と」
1Kの六畳間に幅を利かせている布団たちを畳んで部屋の隅に追いやり、代わりに一人用の丸テーブルを慎重に引っ張ってくる。
水を張った透明のプラスチック皿に豆苗が浸かっているのだ。
昨夜、卵と一緒に炒めて食べたばかり。まだつんつんと刈り立ての芝生状態だけど。
豆苗が再生できるというのは知っていたが、実際にはやったことが無かった。
スーパーで八十円で売られていた豆苗。
今までは動物はもちろん、植物も含め、命あるものは育てないと決めてきた私が豆苗を育てている。
こんな気が起こるのも、きっとあの男のせい。
カーキ色の合皮のトートバッグにスマホを突っ込む。
1m四方くらいしか無い玄関で、白からアイボリーへと変色したスニーカーを履き、ドアチェーンをゆっくり外す。
築四十数年のアパートの、重く軋む扉を押し開けた。
午前十一時。
三月に入り、通勤途中の木々も淡い桜色に染まり始め、過ごしやすい日が増えてきた――というのも『一般的には』の話だ。
蝶も小躍りしたくなるような麗らかな陽気も、狭く風通しの悪い弁当屋の厨房とガスコンロが合わさると、あっという間に灼熱地獄となる。
電気代も上がり続けるこの世の中では贅沢にエアコンを効かせる事もはばかられる。
一応エアコンは点いているものの、全開の店頭から仕切りひとつしかないこの厨房では中々冷えない。
絶えずカタカタと異音を立てる扇風機のお陰で、なんとかギリギリ立っていられる状況だ。
「ことり、から揚げ弁当、二十七個だって」
「えっ、今から?あっつ――」
コロッケをフライヤーに入れた拍子に右手の甲に油が跳ね、小さく悲鳴を上げた。
咄嗟に水道水で冷やす。じんじんとした痛みが引くより先に、きつね色に揚がったコロッケを引き上げた。
幸い、同僚の水島隼人は気付いていないらしい。
壁際の棚の隅に子機を戻して「三時から花見だって」と短く答えた。
隼人がこの店に面接にやって来たのは二年前。
一日も早く働き手が欲しくて即日採用だった。
私はこの男が苦手だ。
私よりも三つ年下のはずだが、出会ってすぐから馴れ馴れしかった。
男性が大の苦手――というか、はっきり言って嫌いだというのに、自己紹介直後から呼び捨てで呼んでくるし、私が「水島君」と呼ぶのを「きもい」と一蹴して呼び捨てを強制させられた。
こういうところが本当に無理。
隼人が働き始めた時は、何もかもがぎこちなかった。
多分、言葉遣いも無理して矯正している最中だったのだろう。
『っす』と言いかけて、慌てて『です』と言い換える。
時には明らかにお客さん相手に苛々している様子も見て取れたが、それでも本人なりに深呼吸しながら抑えようとしているのがわかった。
鼻息荒くゆっくり肩が上下するのを何度か見たのだ。
それがいつしか自然と落ち着き、今となっては何の問題も無く、寧ろ私より高いコミュニケーション能力のお陰もあって、注文を受けるのは専ら隼人だ。
私は常に厨房で調理担当となっていた。
ビジネス街のど真ん中の公園入口にあるこの店は、四十年と続く老舗弁当屋だ。
大半は開店と閉店の時くらいにしか顔を出さないツネさんという高齢の男性店主が営なむ、見た目も古くお世辞にも綺麗とは言えない店。
そんな洒落っ気もない店に私と同年代、まして年下なんて来ないだろうと踏んでいたのに、この有様だ。
神様はなんて意地悪なんだろう。
試練を課す人間を随分と偏らせてはいないだろうかと腹も立つ。
まあ、そんな関係ももう少しで終わりなのだけれど。
「はい、えっと二十一番さん……あぁ、秋山さん。出張から戻ってたんですね。すき焼き弁当と味噌汁お待たせしました」
「ありがとね。福岡、良かったよ。飯も美味いし。お陰でほら、腹もすっかり成長しちゃって。ラーメン、焼き鳥、鍋も食べて、魚もまた旨い。定年後は九州に住みたいね。しばらく見ない間に隼人君も焼けたんじゃない?」
「俺は冬の間はスノボー三昧でしたから。雪も結構焼けるんですよ」
「良いねえ、若いね。ことりちゃん、厨房暑いでしょ。大丈夫?」
この弁当屋のある公園の向かいに立つ製薬会社に勤める秋山さんが、隼人にお金を渡しながら、カウンター越しに厨房を覗き込んできた。
円形の地肌をほわりと覆う程度の薄毛頭がレジの陰からひょっこり見えて、私は出来るだけ溌剌とした声で
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
と答える。まだ僅かにひりつく手で菜箸を持ち、油の中で音を立てる大量の唐揚げと対峙していた。
首に巻いたタオルが噴き出る汗を吸い込んでいく。
老体に鞭打って稼働する扇風機の健気な風も、この気温の中では温風となってしまっていた。
客足が落ち着いた頃、「よし」と隼人が手を叩いた。
二時だ。
接客担当の隼人のその声を合図に、サンプルが並ぶ陳列棚が白い布で目隠しされ、その上のカウンターに準備中の札が立てられる。
通常であれば、これから一時間は休憩となるが、唐揚げ弁当二十七個の注文を前にした私はそういう訳にはいかない。
私は、この弁当屋で働き出して今年で六年目になる。
最初の頃は大量注文も時々はあったが、有名飲食店の進出や、そもそも会社での行事ごとを苦手とする世代が出たのもあって、ここ三年はこういった纏まった注文は無かった。
網の上で山積みになった唐揚げに、最後のグループをフライヤーから掬い上げた。
冷蔵庫からきんぴらごぼうとたくあん漬けを取り出し、卵焼きと、恐らく足りないであろうポテトサラダのボウルを準備する。
こっちはまた仕込みをしないといけない。
「あとは詰めるだけだろ?俺がやる」
「いや、でも……」
「あ、俺にはできないって思っただろ。ふふん、ほら見ろ」
エプロンのポケットから頭半分がはみ出たメモ帳を取り出し、裏表紙にクリップで留められたルーズリーフを広げた。
「なにこれ」
得意気に顔の前で開いた紙には、弁当八種類の絵が描かれていた。
不器用な私が羨む隼人の特技のひとつ。
きちんと色鉛筆で彩られた弁当の中身には線が引かれ、ひとつひとつのお惣菜の名前が記されている。
その字もまた、なんとも達筆。
この金髪で耳に穴が六つも空いている能天気男がこんな字を書くなんて、恐らく世界中誰も思わないはず。
隼人はその紙を厨房の壁に押しピンで留めて、弁当箱を作業台に並べた。
「俺、馬鹿だからさ。ことりみたいに効率よく厨房で動き回れないけど、こうやってきちんと見れば出来るんだぜ」
お客さんが商品を取りに来るまで、約一時間。
仕込んである他の総菜と、私が揚げた唐揚げを詰めるだけだ。確かに間に合う。
「じゃあ、お願いします。もし何かあったら教えてください」
「了解。任せといて」
階段を上る途中、弁当を詰める隼人を振り返る。
所々に汗染みが広がる黒いTシャツの、背中の金色の昇り龍と目が合って、胸裏で「もう少しの辛抱だ」と自分に言い聞かせた。
自信満々な隼人の笑顔は嘘を吐かなかった。
十五分前には詰め終わり、きちんと箸もお絞りも準備し、無事お客さんに渡す事が出来た。
隼人が洗った雑巾を干し、私はレジに鍵を掛ける。
店舗の奥にある住居部分からツネさんが出てきたのは、六時を少し過ぎた頃だった。
「じゃあまた明日、よろしくね」
「はい。お野菜もありがとうございます。助かります」
「ことりちゃんが店に来てくれるのもあと少しだねぇ」
「そうですね。すみません、急に辞めるなんて言い出して」
「良いんだよ。うちもそろそろ店仕舞いしなきゃならないからね。潮時だよ」
言いながら、店のシャッターを引き下ろす。
きい、がらがらと甲高い錆びた音が、夕空を反射するオフィスビルの町に響き渡った。
ツネさんは半開きのシャッターの下から「またね」と恵比寿顔で会釈をすると、一気にシャッターを下ろした。
昭和な装いの錆びれた弁当屋を覆い隠すようにそびえ立つビルの群れから、仕事を終えた人たちが皆一様に手にしたスマホに視線を落として出てくる。
まるでどこで曲がるか、どこに信号があるかわかっているみたいに。
視線は変わらず手元にあるのに、交差点の歩道の縁で足を止め、青信号に変わる音が鳴ると横断歩道に踏み出すのだ。
足早に駅に向かうスーツやオフィスカジュアルな服装の人々が、地下鉄へと降りる階段に吸い込まれていく見慣れたいつもの風景。
ツネさんはこの店の他に、ここから三駅離れた町の山沿いに自宅がある。
もう二十年も前に亡くなった奥さんと結婚してから住んでいる家だ。
その近くの市民農園で育てている、ビニール袋いっぱいのほうれん草を自転車の籠に乗せた。
青々とした葉は肉厚で、これを趣味で留めておくなんて勿体ないと思う。
これまでも様々な野菜を貰い、そのどれもがとてつもなく美味しかった。
ツネさんの手は魔法の手だよな――。
いつだったか、仕事の片づけをしている時に隼人が言った。
『あの人の手から沢山の弁当が生まれて何十年とお客さんに愛されてきたんだぜ。野菜まで作ってさ。すげぇよな』
確かにそうだと思った。
種類様々な弁当の中には、奥さんと考えたものもあるらしい。
弁当屋なんて来なくとも、他にも飲食店やテイクアウトの店はいくらでもあるのに、ずっとここの弁当を買いに来る常連が多い。
古くからの常連だけでなく、美味しいと噂を聞いて新入社員の若い人たちも来る。
現代的なオフィス街には明らかに異質な、古く傾いた弁当屋に来るのだ。
そんな店を作るツネさんの手は魔法の手なのは間違いない。
「そんな風に生きられたら、人生も充実するんだろうなあ」
自分が誰かを幸せに出来るなんて、到底思えないけれど。
夕照に染まるビルのガラス窓を見上げる。
ここを辞めたらこの景色を見ることもなくなるのだなと思うと、心惜しいような気持がふつと湧いて、頭を振った。
サドルにまたがり、ペダルに右足を掛ける。
「あれ?――ってちょっと、やめてください」
「捕まえた」
いたずらっぽく片眉を上げて笑う隼人に、あからさまに眉をひそめる。
本当に嫌だ。こういうノリが更に嫌い。
何か意地悪をされたわけでも無いけれど、第一印象からしてもう無理だった。男性が苦手な私に、この馴れ馴れしさ。
出会って三秒で私の中で「無理な人」のカテゴリに迷いなく割り振られた。
「今月で終わりでしょ、ここのバイト」
「そうですよ」
試しにもう一度ペダルを踏みこんでみるが、タイヤはびくともしない。
この男、涼しい顔して喋りながらも、私が逃げないように荷台から手を放す気は無いらしい。
「引っ越すんだっけ」
「そうですけど」
ため息を吐きながら、汗でべたついたうなじを撫であげた。
ポニーテールにした髪も、なんとなく湿っている気がする。
「ねえ、これからご飯行こうよ」
「は?いやいや、無い。無いです、行かないです」
「えー、今日だけ。早いけど送別会だよ」
「別にそんなのして頂かなくて大丈夫です」
「今日だけ、ね。ここ辞めたらもう一生会えないかもしんないじゃん?」
「一生って……」
まあ、でもそうだろう。私はもうこの町を離れる。この店を辞めたらこの人とは一生会う事も無いのかもしれない。
夕日を背にした隼人のピアスが反射して、細い光を放つ。
見た目も性格も真逆な私にここまで関わろうとしてくるのも珍しい。
少なくとも、これまでの人生で彼のようなタイプから声を掛けられるなんて事は一度も無かった。男女問わず。
無意識に人の顔色を窺ってしまう私は、あまり友達が多い方でも無い。
というか、大人になるまで「友達だ」と言える友達は、ひとりもいない。
「じゃ、行こう!」
「いや、まだ行くなんて言ってな――」
「ことりはお酒飲める人?」
諦めて自転車から降りると、ようやく荷台から手を放してくれた。
私は「いえ」と首を振った。飲めないわけじゃないが、お酒は苦手だ。
特に、誰かが飲む姿はあまり見たくない。
「お、良いね。俺も。じゃあ駅前のパスタでも良い?ほら、新しい店できたじゃん。昼間はすげぇ行列だけど、この時間は空いてるっぽいんだよね」
この春に新しくできたパスタ屋さんは、隼人の言う通り昼間はいつ見ても、店から五軒離れたコンビニの前まで行列ができる人気店だった。
オフィス街に出来たお洒落なパスタ屋ともなればテレビの取材も勿論来ている。
昼間の長蛇の列に並べるほど、隼人と二人でまわしている弁当屋の昼休憩は長くない。
どうせ近いからいつでも行けるという安心感も相まって、結局一度も行けずじまいだ。
何故か「俺が押していくよ」と、私の自転車を押す隼人と並んで歩いた。
信号待ちをしている間、隼人は先週から飼いだしたというメダカの話をしはじめた。
私が豆苗を育ててみようと思ったきっかけがこれだ。
日々成長していくメダカたちの姿を事細かに教えてくるのを聞いているうちに、何となく気になりだしたのだ。
――朝、起きる楽しみが出来たんだよね。
そんな一言で、私は豆苗を育て始めた。
「スマホ鳴ってない?鞄の中かな」
横断歩道の中頃で、トートバッグの中からスマホの着信音が聞こえた。
「電話じゃない?」
隼人の視線が私のバッグに向けられる。
気が進まないままスマホを取り出し、画面に表示された電話番号を確認したのと同時に音が止まった。
「かけ直さないの?」
横断歩道を渡り切った所で足を止めた隼人を、私はゆっくり追い抜いて歩き続けた。
「良いの?」
「うん」
短く答えてスマホをバッグの内ポケットに突っ込んでファスナーを締める。
隼人は、ふうん、とだけ言うと、それ以上詮索してくることは無かった。
もうすぐ桜も満開だね。来週は雨だけど桜は散らないかな。あんなに汗をかく仕事をしても中々痩せない――私はどうでもいい話で適当に間を繋いだ。
隼人はそんな適当な繋ぎ話にいちいち相槌を打っては、真剣に桜が散るかもしれないという心配をしていた。
子供たちの入学式まで残っていれば良いのになんて、自分には全く関係ない事を本気で願っているようだった。
いきなり沈黙が続いた時は流石に気まずくて、何か喋らないと横目で隼人を見上げた。
相変わらずの能天気顔で先月出来たばかりの雑貨店を横目で見る隼人に、胸中をざわつかせていた焦りは、すうっとどこかへ消えてしまった。
レンガ造りにモスグリーンの屋根。
アーチ状の出窓が並び、イタリアの国旗が夕風にはためいている店の駐輪スペースに、どう見ても不釣り合いなミントグリーンのボロ自転車を停めた。
あちこち剥げたり錆びたりした中古自転車の前籠に、袋がはちきれそうなほうれん草。
古着屋で買った無地のTシャツとジーパン姿の私と、黒と金色を基調としたど派手な隼人。
一瞬、追い出されるんじゃないかと不安になったが、そんな心配は必要なかった。
にこやかに出迎えてくれた店員さんに案内され、オレンジの間接照明で彩られたお洒落な店内を歩く。
窓辺の席に向かい合って座った。
私はミートソース。隼人はカルボナーラを頼んだ。
他にもお洒落なパスタは色々あったのに、結局は家でも作れそうな物を選んでしまうあたり庶民性というのは抜けないらしい。
「チーズって万能だと思わん?しかも美味い。俺、最後の晩餐はチーズ食べ放題で良いと思ってるくらい」
言いながらフォークに巻き付けたパスタを持ち上げると、クリームソースの合間からチーズの糸が伸びた。
それを隼人は限界まで大口を開けて食らいつく。
なんて美味しそうに食べるのだろう。
私はミートソースが口の端に付かないように少量を巻き付けて、そっと口に運んだ。
トマトの酸味が程よく、仄かな塩味が感じられる。
余計なものを排除した、トマトの味を最大限に生かしたソースはとても美味しい。
小さなサイコロ状に切られた野菜がまた、くったりとした触感でソースに馴染んでいた。
お洒落なビジネス街で見た目重視のお店だろう。
テレビで取材されて、ミーハーな客が集まっているだけだ――心のどこかでそんな偏見染みた思いを持っていた自分を張り手したい気分だ。
食べている間、隼人が色々と喋っていた気がするが、私は適当に頷き適当に相槌を打つだけで、心は完全に目の前のミートソースパスタに奪われていた。
パスタは隼人がご馳走してくれた。
流石に申し訳ないからと自分の分くらいは出すと言ったが、隼人は送別会だから、と頑なだった。
ありがたくご馳走になり、店を出てから、改めて深々と頭を下げた。
アパートの玄関で電気を点けると、暗い和室から豆苗が出迎えてくれた。
手を洗って、すぐに豆苗の水を変える。
こうして家を空けていた数時間では大した変化は解らないが、確実に成長しているのだ。
犬でも猫でも無い、豆苗。
愛着が湧いてしまい、蛍光灯に翳してうっとりしていた私を現実に引き戻したのはスマホだ。
画面には登録していない電話番号。
すっかり見慣れてしまった番号であり、絶対に出る気も無い着信画面を、切れるまで冷めた目で見下ろしていた。
桜はあっという間に満開になり、町中をピンクに染め上げていた。
桜の名所でもある町の北側を通る川沿いには、普段見ないほどの人込みが列を成し、この時期以外では全く見向きもしない桜の木を、人々は揃って見上げていた。
私はと言うと、初めて育てた豆苗はなんとコバエが湧き、そして枯れた。
枯れたと言うより腐ったに近い。
見るに堪えない姿になり、数日前からまた新たな豆苗を育て始めていた。
どこか浮かれたような世間の雰囲気のなか、私は週に五日、弁当屋へと出勤する。
日曜日は定休日。土曜日は隼人とツネさんが店に立っていた。
代わりに金曜日は私とツネさんが店に立つ。
三日続いた雨風にも桜の花は枝にしがみついていた。
無残にも散って、赤茶に傷んだ花弁が地面を所々と覆っていたものの、まだ開いていない蕾が残っている。
このままなら、何とか入学シーズンには桜が残っているだろうね――。
隼人と帰り道に話した翌週、予定より一週間早くに仕事を辞める事になった。
予定が変わったのは昨夜。引っ越すのは明後日だ。
本来なら、辞めるまであと一週間あったのに。
エプロンを腰に巻き付けて厨房へ降りる。
シャッターを開けた隼人が陳列台の布を剥がしているところだった。
「無理に働かなくても良いんだよ。引っ越しの準備とかあるんじゃないの」
プラスチックの弁当容器を吊り下げ棚に補充しながらツネさんが言う。
「荷物はそんなに無いんです。出勤前に宅配で送る荷物は詰めてきましたし、不動産屋にも連絡は済ませてあるので。細かい手続きとかは明日終わらせて、明後日には出られるはずですから」
ツネさんは「そうかい」と心配そうに眉をひそめた。本当はあのアパートも残しておくつもりだったのだ。それなのに――。
昨日、仕事から帰ると郵便受けに手紙が入っていた。
手紙というには粗末な、チラシの裏に殴り書きしたメモだった。
恐らく部屋を訪ねて誰も出て来ず、そのまま帰るのは気に食わないのか。
感情に任せた字体で、でも内容はできるだけ怒りや不満をできるだけ抑えたのだろうと推測できるものだ。
【どうして電話に出ないんだ。お前が弁当屋で働いてるのも知ってる。一度話をさせてくれ】
やっぱりね。働いてる場所も知られてると思ったわ。執念深いやつ。
心のなかでひとりごちる。
その文章は震え、ナメクジが這ったような物々しい雰囲気だった。
吐き気がした。スマホには、夕方から三十分ごとに着信履歴が残っていた。
メッセージは無し。
いつもそうだった。
これだけ話の内容を頑なに残さないのだから、恐らく話をする目的というよりも、会う事に意味があると思っているのだろう。
そう考えると、余計に会いたくない。
これを書いたのは、私の父だ。生物学上の父親。
私にとってはそういう存在の人間。離婚して父と母は他人になれても、私と父だけは他人になれない。
血の繋がりだと言われればそれまでだ。
でも出来るのであれば、私と父の繋がりなんて、気持ちだけで言えばとっくに赤の他人。
父がいなければ私はいない。それでも父に恩を感じる気にはなれない。
幼い時は――それこそ物心が付く前がどうだったかは知る由も無い。
ただ、私の一番古い記憶である幼稚園の年中あたりには、既に父に対する恐怖心は芽生えていた。
私が小学三年生の二学期に離婚したが、その頃には心は真っ黒に塗りつぶされていた。
小学校、中学校、高校と上がるにつれ、その感情は恐怖から嫌悪感と憎悪に変わっていく。
それはきっと一般的な反抗心がもたらすものではなく、父が私――主に母にしてきた精神的暴力を目の当たりにしたせいだ。
幼い私の記憶に留めておける容量がそれだけだっただけで、実際には他にも色々あっただろう。
成長するにつれ、幼い頃に見た光景がいかに異常で酷いものだったかが理解できるようになったからだった。
離婚して二十年近く経った今も、居場所がわからない母を探し、私の居場所を突き止めた父に対して、嫌悪と憎悪は日々膨れ上がっていく。
理由は知らない。何が目的なのかも知らないが、知りたくも無い。
気持ち悪い。むかつく。
どろりとしたタール状の黒い感情が心に流れ込み、考えるだけで無意識に歯を食いしばってしまう。
そのせいか、私の歯はあちこち欠けていて。母に至っては、奥歯が大きく真っ二つに割れている。
そして、そんな父からのメモに苛立った翌日の今朝。
二度目になる豆苗にカビが生えた。
きっと何か理由があるのだろうが、私の苛々がこの豆苗にうつってしまったんじゃないかと思った。
それくらいに昨夜は荒れていたから。
一生懸命再生しようとしていた豆苗に、心底申し訳ないと思った。
カビの生えた豆苗は、謝りながらゴミ袋に捨ててしまった。
「ことり、ことり」
「あ、はいっ」
隼人が「そろそろ」と、私の後ろの壁にある時計に視線を送る。
九時半だ。慌てて仕込みの材料を取りに冷蔵庫を開いた。
「ことりちゃん、お疲れ様。はい、最後のお給料。今日までの分ね」
着替えを済ませて階段を降りてきた私に、ツネさんが茶封筒に入った給料を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。このエプロン、今日中に洗って明日返しに来ます」
「あぁ、良いの。それ、貰っとくよ。はい、どうも。今までありがとね。本当、助かったよ」
しわくちゃのツネさんの恵比寿顔を前にしたら、急に胸が詰まって、目頭がじわりと熱くなってきた。
ツネさんのすぐ後ろには、帰る支度を済ませた隼人が立っている。
駄目、泣いちゃ駄目。
「隼人君にはもう伝えてあるんだけど、この店も来月いっぱいで畳もうと思っていてね」
「そんな――」
それ以上、私に言える資格は無かった。ここを辞める人間なのだ。
それも身勝手な理由で急に予定を早めてしまった。
料理が出来ない隼人と二人ではそう長く続けていけないのかもしれない。
新しいバイトだって、なかなか応募は来ないのだと笑っていたのを思い出した。
その時のツネさんはあまり気にしていないような口ぶりで笑っていたけれど、それがこの店の存続に直結する問題だとは、当時は深く考えていなかった。
その頃の私は、ここを辞めるつもりも無かったのだ。
だから、ツネさんが元気なうちはやっていける。
新しいバイトが入らなくたって大丈夫だろう――無責任に「そうなんですね」と軽く聞き流していた。
「まあ、僕も歳だからねえ。常連さんには申し訳ないけれど、他にも美味しいご飯屋さんは沢山あるから」
「そうですか……」
私はもう何も言えなくなって、ただ「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
人づきあいが苦手な私を、優しく迎え入れてくれたツネさん。
確か今年で七十九歳になるはずだ。
またいつか戻りたいが、多分それはもうできない。
本当にツネさんとはこれで最後だと思うと、鼻の奥がツンとして、瞼の裏に溜まった涙が今にも決壊しそうなのを堪えるように、ごくりと唾を飲み込んだ。
アルバイト最後の日。
ツネさんがシャッターを下ろす間際に見せてくれた笑顔と、無機質なガラス張りのビル群がふいにとても綺麗だと思ったことは、一生忘れないだろうと思った。
それから二日後、私は母がひとりで暮らす島へと向かった。
千円で買った、異常にキャスターの音がうるさいキャリーケースを引きながら、電車を乗り継ぎ、片道チケットを買って船に乗った。
陸路が無いわけではない。
それでも船を選んだのは、陸地から次第に遠のく風景を目に焼き付けておきたかったからだ。
この場所へは帰れない。
そう私自身の心に刻むように。
隼人は店を辞めた後どうするのだろう。
ふとそんな考えが過ったが、そんなのも私には関係のない事だ。
ぼー、と響き渡る汽笛を合図に、コバルトブルーの海へ放たれた連絡船が、薄青く浮かび上がる対岸へと動き出した。
「ただの腰痛でわざわざ来なくても良いのに。もっとやりたい事あったでしょう。仕事も辞める必要ないじゃない」
「まぁ、それは良いの。お母さんの調子が戻れば、またこっちに帰る事もできるし。だから部屋は残していくつもり」
「そう……。じゃあ、帰って来る日は港まで迎えに行くね」
「ちょっと、腰痛持ちが迎えに来ないでよ。余計心配になるでしょ。それにもう二十六歳だよ?アラサーの娘なんだから」
「……まあ、じゃあ考えとく」
明らかに納得していない母の声色に、笑いを堪えながら電話を切った。
「さて、と」
1Kの六畳間に幅を利かせている布団たちを畳んで部屋の隅に追いやり、代わりに一人用の丸テーブルを慎重に引っ張ってくる。
水を張った透明のプラスチック皿に豆苗が浸かっているのだ。
昨夜、卵と一緒に炒めて食べたばかり。まだつんつんと刈り立ての芝生状態だけど。
豆苗が再生できるというのは知っていたが、実際にはやったことが無かった。
スーパーで八十円で売られていた豆苗。
今までは動物はもちろん、植物も含め、命あるものは育てないと決めてきた私が豆苗を育てている。
こんな気が起こるのも、きっとあの男のせい。
カーキ色の合皮のトートバッグにスマホを突っ込む。
1m四方くらいしか無い玄関で、白からアイボリーへと変色したスニーカーを履き、ドアチェーンをゆっくり外す。
築四十数年のアパートの、重く軋む扉を押し開けた。
午前十一時。
三月に入り、通勤途中の木々も淡い桜色に染まり始め、過ごしやすい日が増えてきた――というのも『一般的には』の話だ。
蝶も小躍りしたくなるような麗らかな陽気も、狭く風通しの悪い弁当屋の厨房とガスコンロが合わさると、あっという間に灼熱地獄となる。
電気代も上がり続けるこの世の中では贅沢にエアコンを効かせる事もはばかられる。
一応エアコンは点いているものの、全開の店頭から仕切りひとつしかないこの厨房では中々冷えない。
絶えずカタカタと異音を立てる扇風機のお陰で、なんとかギリギリ立っていられる状況だ。
「ことり、から揚げ弁当、二十七個だって」
「えっ、今から?あっつ――」
コロッケをフライヤーに入れた拍子に右手の甲に油が跳ね、小さく悲鳴を上げた。
咄嗟に水道水で冷やす。じんじんとした痛みが引くより先に、きつね色に揚がったコロッケを引き上げた。
幸い、同僚の水島隼人は気付いていないらしい。
壁際の棚の隅に子機を戻して「三時から花見だって」と短く答えた。
隼人がこの店に面接にやって来たのは二年前。
一日も早く働き手が欲しくて即日採用だった。
私はこの男が苦手だ。
私よりも三つ年下のはずだが、出会ってすぐから馴れ馴れしかった。
男性が大の苦手――というか、はっきり言って嫌いだというのに、自己紹介直後から呼び捨てで呼んでくるし、私が「水島君」と呼ぶのを「きもい」と一蹴して呼び捨てを強制させられた。
こういうところが本当に無理。
隼人が働き始めた時は、何もかもがぎこちなかった。
多分、言葉遣いも無理して矯正している最中だったのだろう。
『っす』と言いかけて、慌てて『です』と言い換える。
時には明らかにお客さん相手に苛々している様子も見て取れたが、それでも本人なりに深呼吸しながら抑えようとしているのがわかった。
鼻息荒くゆっくり肩が上下するのを何度か見たのだ。
それがいつしか自然と落ち着き、今となっては何の問題も無く、寧ろ私より高いコミュニケーション能力のお陰もあって、注文を受けるのは専ら隼人だ。
私は常に厨房で調理担当となっていた。
ビジネス街のど真ん中の公園入口にあるこの店は、四十年と続く老舗弁当屋だ。
大半は開店と閉店の時くらいにしか顔を出さないツネさんという高齢の男性店主が営なむ、見た目も古くお世辞にも綺麗とは言えない店。
そんな洒落っ気もない店に私と同年代、まして年下なんて来ないだろうと踏んでいたのに、この有様だ。
神様はなんて意地悪なんだろう。
試練を課す人間を随分と偏らせてはいないだろうかと腹も立つ。
まあ、そんな関係ももう少しで終わりなのだけれど。
「はい、えっと二十一番さん……あぁ、秋山さん。出張から戻ってたんですね。すき焼き弁当と味噌汁お待たせしました」
「ありがとね。福岡、良かったよ。飯も美味いし。お陰でほら、腹もすっかり成長しちゃって。ラーメン、焼き鳥、鍋も食べて、魚もまた旨い。定年後は九州に住みたいね。しばらく見ない間に隼人君も焼けたんじゃない?」
「俺は冬の間はスノボー三昧でしたから。雪も結構焼けるんですよ」
「良いねえ、若いね。ことりちゃん、厨房暑いでしょ。大丈夫?」
この弁当屋のある公園の向かいに立つ製薬会社に勤める秋山さんが、隼人にお金を渡しながら、カウンター越しに厨房を覗き込んできた。
円形の地肌をほわりと覆う程度の薄毛頭がレジの陰からひょっこり見えて、私は出来るだけ溌剌とした声で
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
と答える。まだ僅かにひりつく手で菜箸を持ち、油の中で音を立てる大量の唐揚げと対峙していた。
首に巻いたタオルが噴き出る汗を吸い込んでいく。
老体に鞭打って稼働する扇風機の健気な風も、この気温の中では温風となってしまっていた。
客足が落ち着いた頃、「よし」と隼人が手を叩いた。
二時だ。
接客担当の隼人のその声を合図に、サンプルが並ぶ陳列棚が白い布で目隠しされ、その上のカウンターに準備中の札が立てられる。
通常であれば、これから一時間は休憩となるが、唐揚げ弁当二十七個の注文を前にした私はそういう訳にはいかない。
私は、この弁当屋で働き出して今年で六年目になる。
最初の頃は大量注文も時々はあったが、有名飲食店の進出や、そもそも会社での行事ごとを苦手とする世代が出たのもあって、ここ三年はこういった纏まった注文は無かった。
網の上で山積みになった唐揚げに、最後のグループをフライヤーから掬い上げた。
冷蔵庫からきんぴらごぼうとたくあん漬けを取り出し、卵焼きと、恐らく足りないであろうポテトサラダのボウルを準備する。
こっちはまた仕込みをしないといけない。
「あとは詰めるだけだろ?俺がやる」
「いや、でも……」
「あ、俺にはできないって思っただろ。ふふん、ほら見ろ」
エプロンのポケットから頭半分がはみ出たメモ帳を取り出し、裏表紙にクリップで留められたルーズリーフを広げた。
「なにこれ」
得意気に顔の前で開いた紙には、弁当八種類の絵が描かれていた。
不器用な私が羨む隼人の特技のひとつ。
きちんと色鉛筆で彩られた弁当の中身には線が引かれ、ひとつひとつのお惣菜の名前が記されている。
その字もまた、なんとも達筆。
この金髪で耳に穴が六つも空いている能天気男がこんな字を書くなんて、恐らく世界中誰も思わないはず。
隼人はその紙を厨房の壁に押しピンで留めて、弁当箱を作業台に並べた。
「俺、馬鹿だからさ。ことりみたいに効率よく厨房で動き回れないけど、こうやってきちんと見れば出来るんだぜ」
お客さんが商品を取りに来るまで、約一時間。
仕込んである他の総菜と、私が揚げた唐揚げを詰めるだけだ。確かに間に合う。
「じゃあ、お願いします。もし何かあったら教えてください」
「了解。任せといて」
階段を上る途中、弁当を詰める隼人を振り返る。
所々に汗染みが広がる黒いTシャツの、背中の金色の昇り龍と目が合って、胸裏で「もう少しの辛抱だ」と自分に言い聞かせた。
自信満々な隼人の笑顔は嘘を吐かなかった。
十五分前には詰め終わり、きちんと箸もお絞りも準備し、無事お客さんに渡す事が出来た。
隼人が洗った雑巾を干し、私はレジに鍵を掛ける。
店舗の奥にある住居部分からツネさんが出てきたのは、六時を少し過ぎた頃だった。
「じゃあまた明日、よろしくね」
「はい。お野菜もありがとうございます。助かります」
「ことりちゃんが店に来てくれるのもあと少しだねぇ」
「そうですね。すみません、急に辞めるなんて言い出して」
「良いんだよ。うちもそろそろ店仕舞いしなきゃならないからね。潮時だよ」
言いながら、店のシャッターを引き下ろす。
きい、がらがらと甲高い錆びた音が、夕空を反射するオフィスビルの町に響き渡った。
ツネさんは半開きのシャッターの下から「またね」と恵比寿顔で会釈をすると、一気にシャッターを下ろした。
昭和な装いの錆びれた弁当屋を覆い隠すようにそびえ立つビルの群れから、仕事を終えた人たちが皆一様に手にしたスマホに視線を落として出てくる。
まるでどこで曲がるか、どこに信号があるかわかっているみたいに。
視線は変わらず手元にあるのに、交差点の歩道の縁で足を止め、青信号に変わる音が鳴ると横断歩道に踏み出すのだ。
足早に駅に向かうスーツやオフィスカジュアルな服装の人々が、地下鉄へと降りる階段に吸い込まれていく見慣れたいつもの風景。
ツネさんはこの店の他に、ここから三駅離れた町の山沿いに自宅がある。
もう二十年も前に亡くなった奥さんと結婚してから住んでいる家だ。
その近くの市民農園で育てている、ビニール袋いっぱいのほうれん草を自転車の籠に乗せた。
青々とした葉は肉厚で、これを趣味で留めておくなんて勿体ないと思う。
これまでも様々な野菜を貰い、そのどれもがとてつもなく美味しかった。
ツネさんの手は魔法の手だよな――。
いつだったか、仕事の片づけをしている時に隼人が言った。
『あの人の手から沢山の弁当が生まれて何十年とお客さんに愛されてきたんだぜ。野菜まで作ってさ。すげぇよな』
確かにそうだと思った。
種類様々な弁当の中には、奥さんと考えたものもあるらしい。
弁当屋なんて来なくとも、他にも飲食店やテイクアウトの店はいくらでもあるのに、ずっとここの弁当を買いに来る常連が多い。
古くからの常連だけでなく、美味しいと噂を聞いて新入社員の若い人たちも来る。
現代的なオフィス街には明らかに異質な、古く傾いた弁当屋に来るのだ。
そんな店を作るツネさんの手は魔法の手なのは間違いない。
「そんな風に生きられたら、人生も充実するんだろうなあ」
自分が誰かを幸せに出来るなんて、到底思えないけれど。
夕照に染まるビルのガラス窓を見上げる。
ここを辞めたらこの景色を見ることもなくなるのだなと思うと、心惜しいような気持がふつと湧いて、頭を振った。
サドルにまたがり、ペダルに右足を掛ける。
「あれ?――ってちょっと、やめてください」
「捕まえた」
いたずらっぽく片眉を上げて笑う隼人に、あからさまに眉をひそめる。
本当に嫌だ。こういうノリが更に嫌い。
何か意地悪をされたわけでも無いけれど、第一印象からしてもう無理だった。男性が苦手な私に、この馴れ馴れしさ。
出会って三秒で私の中で「無理な人」のカテゴリに迷いなく割り振られた。
「今月で終わりでしょ、ここのバイト」
「そうですよ」
試しにもう一度ペダルを踏みこんでみるが、タイヤはびくともしない。
この男、涼しい顔して喋りながらも、私が逃げないように荷台から手を放す気は無いらしい。
「引っ越すんだっけ」
「そうですけど」
ため息を吐きながら、汗でべたついたうなじを撫であげた。
ポニーテールにした髪も、なんとなく湿っている気がする。
「ねえ、これからご飯行こうよ」
「は?いやいや、無い。無いです、行かないです」
「えー、今日だけ。早いけど送別会だよ」
「別にそんなのして頂かなくて大丈夫です」
「今日だけ、ね。ここ辞めたらもう一生会えないかもしんないじゃん?」
「一生って……」
まあ、でもそうだろう。私はもうこの町を離れる。この店を辞めたらこの人とは一生会う事も無いのかもしれない。
夕日を背にした隼人のピアスが反射して、細い光を放つ。
見た目も性格も真逆な私にここまで関わろうとしてくるのも珍しい。
少なくとも、これまでの人生で彼のようなタイプから声を掛けられるなんて事は一度も無かった。男女問わず。
無意識に人の顔色を窺ってしまう私は、あまり友達が多い方でも無い。
というか、大人になるまで「友達だ」と言える友達は、ひとりもいない。
「じゃ、行こう!」
「いや、まだ行くなんて言ってな――」
「ことりはお酒飲める人?」
諦めて自転車から降りると、ようやく荷台から手を放してくれた。
私は「いえ」と首を振った。飲めないわけじゃないが、お酒は苦手だ。
特に、誰かが飲む姿はあまり見たくない。
「お、良いね。俺も。じゃあ駅前のパスタでも良い?ほら、新しい店できたじゃん。昼間はすげぇ行列だけど、この時間は空いてるっぽいんだよね」
この春に新しくできたパスタ屋さんは、隼人の言う通り昼間はいつ見ても、店から五軒離れたコンビニの前まで行列ができる人気店だった。
オフィス街に出来たお洒落なパスタ屋ともなればテレビの取材も勿論来ている。
昼間の長蛇の列に並べるほど、隼人と二人でまわしている弁当屋の昼休憩は長くない。
どうせ近いからいつでも行けるという安心感も相まって、結局一度も行けずじまいだ。
何故か「俺が押していくよ」と、私の自転車を押す隼人と並んで歩いた。
信号待ちをしている間、隼人は先週から飼いだしたというメダカの話をしはじめた。
私が豆苗を育ててみようと思ったきっかけがこれだ。
日々成長していくメダカたちの姿を事細かに教えてくるのを聞いているうちに、何となく気になりだしたのだ。
――朝、起きる楽しみが出来たんだよね。
そんな一言で、私は豆苗を育て始めた。
「スマホ鳴ってない?鞄の中かな」
横断歩道の中頃で、トートバッグの中からスマホの着信音が聞こえた。
「電話じゃない?」
隼人の視線が私のバッグに向けられる。
気が進まないままスマホを取り出し、画面に表示された電話番号を確認したのと同時に音が止まった。
「かけ直さないの?」
横断歩道を渡り切った所で足を止めた隼人を、私はゆっくり追い抜いて歩き続けた。
「良いの?」
「うん」
短く答えてスマホをバッグの内ポケットに突っ込んでファスナーを締める。
隼人は、ふうん、とだけ言うと、それ以上詮索してくることは無かった。
もうすぐ桜も満開だね。来週は雨だけど桜は散らないかな。あんなに汗をかく仕事をしても中々痩せない――私はどうでもいい話で適当に間を繋いだ。
隼人はそんな適当な繋ぎ話にいちいち相槌を打っては、真剣に桜が散るかもしれないという心配をしていた。
子供たちの入学式まで残っていれば良いのになんて、自分には全く関係ない事を本気で願っているようだった。
いきなり沈黙が続いた時は流石に気まずくて、何か喋らないと横目で隼人を見上げた。
相変わらずの能天気顔で先月出来たばかりの雑貨店を横目で見る隼人に、胸中をざわつかせていた焦りは、すうっとどこかへ消えてしまった。
レンガ造りにモスグリーンの屋根。
アーチ状の出窓が並び、イタリアの国旗が夕風にはためいている店の駐輪スペースに、どう見ても不釣り合いなミントグリーンのボロ自転車を停めた。
あちこち剥げたり錆びたりした中古自転車の前籠に、袋がはちきれそうなほうれん草。
古着屋で買った無地のTシャツとジーパン姿の私と、黒と金色を基調としたど派手な隼人。
一瞬、追い出されるんじゃないかと不安になったが、そんな心配は必要なかった。
にこやかに出迎えてくれた店員さんに案内され、オレンジの間接照明で彩られたお洒落な店内を歩く。
窓辺の席に向かい合って座った。
私はミートソース。隼人はカルボナーラを頼んだ。
他にもお洒落なパスタは色々あったのに、結局は家でも作れそうな物を選んでしまうあたり庶民性というのは抜けないらしい。
「チーズって万能だと思わん?しかも美味い。俺、最後の晩餐はチーズ食べ放題で良いと思ってるくらい」
言いながらフォークに巻き付けたパスタを持ち上げると、クリームソースの合間からチーズの糸が伸びた。
それを隼人は限界まで大口を開けて食らいつく。
なんて美味しそうに食べるのだろう。
私はミートソースが口の端に付かないように少量を巻き付けて、そっと口に運んだ。
トマトの酸味が程よく、仄かな塩味が感じられる。
余計なものを排除した、トマトの味を最大限に生かしたソースはとても美味しい。
小さなサイコロ状に切られた野菜がまた、くったりとした触感でソースに馴染んでいた。
お洒落なビジネス街で見た目重視のお店だろう。
テレビで取材されて、ミーハーな客が集まっているだけだ――心のどこかでそんな偏見染みた思いを持っていた自分を張り手したい気分だ。
食べている間、隼人が色々と喋っていた気がするが、私は適当に頷き適当に相槌を打つだけで、心は完全に目の前のミートソースパスタに奪われていた。
パスタは隼人がご馳走してくれた。
流石に申し訳ないからと自分の分くらいは出すと言ったが、隼人は送別会だから、と頑なだった。
ありがたくご馳走になり、店を出てから、改めて深々と頭を下げた。
アパートの玄関で電気を点けると、暗い和室から豆苗が出迎えてくれた。
手を洗って、すぐに豆苗の水を変える。
こうして家を空けていた数時間では大した変化は解らないが、確実に成長しているのだ。
犬でも猫でも無い、豆苗。
愛着が湧いてしまい、蛍光灯に翳してうっとりしていた私を現実に引き戻したのはスマホだ。
画面には登録していない電話番号。
すっかり見慣れてしまった番号であり、絶対に出る気も無い着信画面を、切れるまで冷めた目で見下ろしていた。
桜はあっという間に満開になり、町中をピンクに染め上げていた。
桜の名所でもある町の北側を通る川沿いには、普段見ないほどの人込みが列を成し、この時期以外では全く見向きもしない桜の木を、人々は揃って見上げていた。
私はと言うと、初めて育てた豆苗はなんとコバエが湧き、そして枯れた。
枯れたと言うより腐ったに近い。
見るに堪えない姿になり、数日前からまた新たな豆苗を育て始めていた。
どこか浮かれたような世間の雰囲気のなか、私は週に五日、弁当屋へと出勤する。
日曜日は定休日。土曜日は隼人とツネさんが店に立っていた。
代わりに金曜日は私とツネさんが店に立つ。
三日続いた雨風にも桜の花は枝にしがみついていた。
無残にも散って、赤茶に傷んだ花弁が地面を所々と覆っていたものの、まだ開いていない蕾が残っている。
このままなら、何とか入学シーズンには桜が残っているだろうね――。
隼人と帰り道に話した翌週、予定より一週間早くに仕事を辞める事になった。
予定が変わったのは昨夜。引っ越すのは明後日だ。
本来なら、辞めるまであと一週間あったのに。
エプロンを腰に巻き付けて厨房へ降りる。
シャッターを開けた隼人が陳列台の布を剥がしているところだった。
「無理に働かなくても良いんだよ。引っ越しの準備とかあるんじゃないの」
プラスチックの弁当容器を吊り下げ棚に補充しながらツネさんが言う。
「荷物はそんなに無いんです。出勤前に宅配で送る荷物は詰めてきましたし、不動産屋にも連絡は済ませてあるので。細かい手続きとかは明日終わらせて、明後日には出られるはずですから」
ツネさんは「そうかい」と心配そうに眉をひそめた。本当はあのアパートも残しておくつもりだったのだ。それなのに――。
昨日、仕事から帰ると郵便受けに手紙が入っていた。
手紙というには粗末な、チラシの裏に殴り書きしたメモだった。
恐らく部屋を訪ねて誰も出て来ず、そのまま帰るのは気に食わないのか。
感情に任せた字体で、でも内容はできるだけ怒りや不満をできるだけ抑えたのだろうと推測できるものだ。
【どうして電話に出ないんだ。お前が弁当屋で働いてるのも知ってる。一度話をさせてくれ】
やっぱりね。働いてる場所も知られてると思ったわ。執念深いやつ。
心のなかでひとりごちる。
その文章は震え、ナメクジが這ったような物々しい雰囲気だった。
吐き気がした。スマホには、夕方から三十分ごとに着信履歴が残っていた。
メッセージは無し。
いつもそうだった。
これだけ話の内容を頑なに残さないのだから、恐らく話をする目的というよりも、会う事に意味があると思っているのだろう。
そう考えると、余計に会いたくない。
これを書いたのは、私の父だ。生物学上の父親。
私にとってはそういう存在の人間。離婚して父と母は他人になれても、私と父だけは他人になれない。
血の繋がりだと言われればそれまでだ。
でも出来るのであれば、私と父の繋がりなんて、気持ちだけで言えばとっくに赤の他人。
父がいなければ私はいない。それでも父に恩を感じる気にはなれない。
幼い時は――それこそ物心が付く前がどうだったかは知る由も無い。
ただ、私の一番古い記憶である幼稚園の年中あたりには、既に父に対する恐怖心は芽生えていた。
私が小学三年生の二学期に離婚したが、その頃には心は真っ黒に塗りつぶされていた。
小学校、中学校、高校と上がるにつれ、その感情は恐怖から嫌悪感と憎悪に変わっていく。
それはきっと一般的な反抗心がもたらすものではなく、父が私――主に母にしてきた精神的暴力を目の当たりにしたせいだ。
幼い私の記憶に留めておける容量がそれだけだっただけで、実際には他にも色々あっただろう。
成長するにつれ、幼い頃に見た光景がいかに異常で酷いものだったかが理解できるようになったからだった。
離婚して二十年近く経った今も、居場所がわからない母を探し、私の居場所を突き止めた父に対して、嫌悪と憎悪は日々膨れ上がっていく。
理由は知らない。何が目的なのかも知らないが、知りたくも無い。
気持ち悪い。むかつく。
どろりとしたタール状の黒い感情が心に流れ込み、考えるだけで無意識に歯を食いしばってしまう。
そのせいか、私の歯はあちこち欠けていて。母に至っては、奥歯が大きく真っ二つに割れている。
そして、そんな父からのメモに苛立った翌日の今朝。
二度目になる豆苗にカビが生えた。
きっと何か理由があるのだろうが、私の苛々がこの豆苗にうつってしまったんじゃないかと思った。
それくらいに昨夜は荒れていたから。
一生懸命再生しようとしていた豆苗に、心底申し訳ないと思った。
カビの生えた豆苗は、謝りながらゴミ袋に捨ててしまった。
「ことり、ことり」
「あ、はいっ」
隼人が「そろそろ」と、私の後ろの壁にある時計に視線を送る。
九時半だ。慌てて仕込みの材料を取りに冷蔵庫を開いた。
「ことりちゃん、お疲れ様。はい、最後のお給料。今日までの分ね」
着替えを済ませて階段を降りてきた私に、ツネさんが茶封筒に入った給料を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。このエプロン、今日中に洗って明日返しに来ます」
「あぁ、良いの。それ、貰っとくよ。はい、どうも。今までありがとね。本当、助かったよ」
しわくちゃのツネさんの恵比寿顔を前にしたら、急に胸が詰まって、目頭がじわりと熱くなってきた。
ツネさんのすぐ後ろには、帰る支度を済ませた隼人が立っている。
駄目、泣いちゃ駄目。
「隼人君にはもう伝えてあるんだけど、この店も来月いっぱいで畳もうと思っていてね」
「そんな――」
それ以上、私に言える資格は無かった。ここを辞める人間なのだ。
それも身勝手な理由で急に予定を早めてしまった。
料理が出来ない隼人と二人ではそう長く続けていけないのかもしれない。
新しいバイトだって、なかなか応募は来ないのだと笑っていたのを思い出した。
その時のツネさんはあまり気にしていないような口ぶりで笑っていたけれど、それがこの店の存続に直結する問題だとは、当時は深く考えていなかった。
その頃の私は、ここを辞めるつもりも無かったのだ。
だから、ツネさんが元気なうちはやっていける。
新しいバイトが入らなくたって大丈夫だろう――無責任に「そうなんですね」と軽く聞き流していた。
「まあ、僕も歳だからねえ。常連さんには申し訳ないけれど、他にも美味しいご飯屋さんは沢山あるから」
「そうですか……」
私はもう何も言えなくなって、ただ「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
人づきあいが苦手な私を、優しく迎え入れてくれたツネさん。
確か今年で七十九歳になるはずだ。
またいつか戻りたいが、多分それはもうできない。
本当にツネさんとはこれで最後だと思うと、鼻の奥がツンとして、瞼の裏に溜まった涙が今にも決壊しそうなのを堪えるように、ごくりと唾を飲み込んだ。
アルバイト最後の日。
ツネさんがシャッターを下ろす間際に見せてくれた笑顔と、無機質なガラス張りのビル群がふいにとても綺麗だと思ったことは、一生忘れないだろうと思った。
それから二日後、私は母がひとりで暮らす島へと向かった。
千円で買った、異常にキャスターの音がうるさいキャリーケースを引きながら、電車を乗り継ぎ、片道チケットを買って船に乗った。
陸路が無いわけではない。
それでも船を選んだのは、陸地から次第に遠のく風景を目に焼き付けておきたかったからだ。
この場所へは帰れない。
そう私自身の心に刻むように。
隼人は店を辞めた後どうするのだろう。
ふとそんな考えが過ったが、そんなのも私には関係のない事だ。
ぼー、と響き渡る汽笛を合図に、コバルトブルーの海へ放たれた連絡船が、薄青く浮かび上がる対岸へと動き出した。
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