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第2部

34.夕陽と青空(3)

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 瑠奈は瑠奈としての最後の一ヶ月のうちの二週間を、元気だったころとほぼ変わらずに過ごした。さすがに家事こそできないものの、体調のよい日には庭を散歩すらする。とても死の間際だとは思えなかった。

 僕はこのまま奇跡が起き、生き延びてくれるのでないのかと、そう錯覚してしまった。瑠奈が何もできなくてもいい、ただ生きていてくれればいいと思った。そこにいてくれるだけでよかった。

 ところが、死の二週間ほど前からがくりと体力が落ちた。水とジュースしか飲めずにみるみる痩せ、死相がはっきりと浮かぶようになった。誰かが手助けをしなければ、起き上がることも歩くこともできない。

 このころには僕は看病のために長期の休暇を取り、大地も双子たちも頻繁に学校や職場を休むようになっていた。少しでも長く瑠奈の傍にいたいと考えていたのだ。なのに、よりによって「その日」――その日だけは、子ども達に外せない用事が入り、僕以外には家族がいなかった。



 時計の針が午後四時を刻んだ。

 夕暮れの色は世界のどこにいても変わらない。昼には眩しいほどに感じる日や命の輝きや煌めきが、ゆっくりと夕日に溶けて行くのが、人の死にも似ていると感じる。それゆえに、僕は夕暮れがこのころには嫌いになっていた。

「……ゆうひ、きれいね」

 瑠奈が目を細めぽつりと呟く。今にも消え入りそうな、小さな、小さな声だった。

 ここは庭に面するテラスだ。木々や花々が見たいと言う瑠奈のために、病人用のアームチェアを置き、そこにゆったりと座らせていた。

 青い芝生の上には子ども達が昔使った滑り台がまだ置かれている。庭の片隅には三本の木が黄昏の中に佇んでいた。大地の誕生日、双子たちの誕生日にそれぞれ植えた木だ。今ではすっかり三人の背丈を追い越している。

 僕も瑠奈の隣に立ち同じ空を見上げる。赤と紫の入り混じる西の空には、輪郭の曖昧な三日月も浮かんでいる。人の終わりを思わせる夕暮れの太陽と月――僕はその組み合わせに不吉を覚えた。胸に過った予感を振り払おうと、瑠奈の顔を覗き込み尋ねる。

「瑠奈、そろそろ喉が渇いただろう? 水を飲むか」

 瑠奈は答えの代わりに柔らかな微笑みを見せた。

「じゃ、少し待っていてくれ」

 瑠奈がキッチンに行く僕の背に向かい、唇だけで言ったその呟きは、僕の耳には届くことはなかった。

「……一樹君、今までありがとう」

――さようなら。

「ああ、迎えに来てくれたの……?わたしが行きたかったのに、わたし、ほんとダメだね」

――お姉ちゃんなのに。

「あの時は、約束を破って、ごめんね」

――今度こそ、ずっと傍にいるから。



 僕はキッチンで水を少し温め吸い飲みに入れた。途中、眉を顰め振り返りテラスの方向を見る。どこから 二人の小さな子どもの声が聞こえたのだ。やけに楽しそうだが庭で遊んでいるのだろうか。

……きゃあっ。あはは、ふふっ。

……あははっ。ははっ。ふふっ。

……って。まってよ、あきら。

……こっち、こっちだよ!!

 二人とも嬉しくて、嬉しくて仕方がないといった声だ。

「どこの子だ?」

 僕は吸い飲みを手にテラスへと向かった。ところが、子どもの姿などどこにもない。

「瑠奈、見ていなかったか?今ここに子どもが来ただろう?」

 男の子と女の子の声だっただろうか。どこかで聞いたことがある気がした。誰の声だっただろうと頭を捻り、次の瞬間思い当った人物に愕然となる。

 男の子の声は大地の子どものころ、女の子の声は杏奈・梨奈の子どものころの声と同じだ。

 僕はあの男の最後の言葉を思い出す。

『いつか返してもらいます』

――まさか。

『必ず返してもらう。瑠奈を……迎えに行く』

 僕は慌ててアームチェアに腰かける瑠奈の顔を覗き込んだ。

「瑠奈っ……」

 瑠奈は、瞼を閉じ幸せそうに笑っていた。子どものように無邪気な、あどけない笑顔だった。九月の風が瑠奈の肩までの長さとなった髪を柔らかになぜる。

「……っ」

 僕は体が小刻みに震えるのを感じた。分かってはいながらも、恐る恐る手を伸ばす。すでに呼吸も鼓動も感じられない。それでも――まだ体は温かかった。

「瑠奈、瑠奈、瑠奈っ……」

 無駄だと知りながらも何度も名前を呼ぶ。

「……っ」

 僕は瑠奈の手を取りその場に跪いた。

――連れて行かれてしまった。

 僕はその瞬間確信する。

 あの男もきっと死んだのだ。死んで瑠奈を迎えに来た。

「瑠奈……」

 瑠奈はもう戻らない。僕のもとには戻らないのだ。

 僕は瑠奈の名前を呼び続けた。大地と双子がようやく家に戻り、母親の死を知ってからも、ただその名前を呼び続けた。
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