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第2部

32.夕陽と青空(1)

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 今でも打ち明けられたあの日をはっきりと覚えている。徐々に悲しみは和らぎつつあるが、まだ穏やかな思い出にはなっていない。もっと早く気が付いていたのなら、もっと早く治療をしていたのならと、後悔に押し潰されそうになってしまう。

 瑠奈はと五月ごろからしきりに咳をするようになった。初めは風邪だと思い市販の薬で済ませていた。ところが一時的には収まるものの、なかなか完治してくれない。二ヶ月が過ぎホームドクターに相談したところ、一度精密検査をやってみてはどうかと、総合病院への紹介状を書かれたのだ。

 瑠奈は「大袈裟ね。どうせ風邪よ」と笑いながらも翌日総合病院へ行った。僕は軽い肺炎にでもかかっているのだろうと楽観していた。きっとこれまでの育児の疲れが出たに違いない、次の休みには二人で避暑地に旅行に行くのもいいかと、会社で仕事をしながら考えていたほどだ。

 ところが、三時にもならないうちに瑠奈から緊急で電話がかかってきた。

「一樹君、今から話すことを落ち着いて聞いて欲しいの。それから……帰ったら相談に乗ってくれる?」

 その時点で重病だったのかと言う程度の予測はついた。けれどもまさか――手を打たなければ余命半年、あるいは一年程度しかないとまでは考えてもいなかったのだ。



 午後六時を過ぎたが、まだ双子たちはハイスクールから帰っていない。今日は友人たちとクラブに踊りに行くと聞いている。帰宅は九時過ぎにはなるだろう。いつもは苦々しく思える二人の青春も、今日ばかりはありがたかった。こんな両親の様子を見せることなどできない。

 重苦しい沈黙と空気の中、僕たちはリビングのソファに向かい合い腰かけていた。瑠奈はコーヒーを飲みながら、「ごめんね」とまず頭を下げた。僕はなぜ謝るんだと叫び出したくなる。

 君は何ひとつ悪くないだろう? 何に対して謝っているんだ? 悪いのは君の不調にも気が付かなかった僕だろう?

 動揺し、脂汗を流し、小刻みに震える僕に対し、瑠奈は患者本人でありながらもどこまでも冷静だった。ただ淡々と順を追って病状を説明していく。

「今度一緒にお医者さんに行ってほしいんだけど、左の肺の心臓に近い位置に腫瘍があるらしいの。今まで影になってわかりにくかったみたい。電話でも言ったと思うけど、病院ではっきり言われたわ。このままだと動脈が破裂するから、すぐに手術したほうがいいって。それと転移があるかどうかはまだ分からないから、一度開腹して検査してみないとって言われたわ」
「……」
「大地に頼んでもっと詳しい専門医を紹介してもらったほうがいいかな? ただ手術はどちらにしろ早くしなくちゃいけないみたい」

 僕はようやく顔を上げ瑠奈の顔を見つめた。それなりの年を重ねた僕の顔とは違い、瑠奈は未だに若々しく可愛らしく、大地とも年の離れたきょうだいに間違われるほどだ。白く滑らかな頬はうっすらと赤く染まっている。とてもではないが死病にかかっているとは思えない。いつからか、彼女自身の意志で時を止めたようにも思えた。なのに、その体にガンを抱えていると言うのだ。

「……手術は分かった。明日にでも病院に行こう」

 とてつもなく嫌な予感がしていた。それでも僕は瑠奈が死ぬはずがないと、必死に自分に言い聞かせていた。まだ死ぬには早すぎる。まだ二十年も一緒にいないのだ。この世の誰が死んでも彼女だけは生き残るはずだった。

 僕はぐるぐる回る頭の中で、子ども達にどうと言おうかと考えていた。同時に、ふとあの男の顔が脳裏を過った。一瞬の迷いののち、即座に切り捨てる。

 決して告げないし、会わせない。瑠奈は僕と家族のものだ。一分も一秒も、あの男には渡さない。

 その時の僕は再び暗い情念に心を燃やされていた。

 ああ、そうだ。決してあの男だけには渡さない。



 僕たちは夫婦でよく話し合い、子ども達にも包み隠さず、ありのままに病状を告げようと決めた。この病気とは家族全員で戦わなければならず、そのためには正確な情報が必要だ――これが僕の意見だった。

 一週間後、僕は大地と双子をリビングに呼び出し、瑠奈とともにこの病気の真実と闘病の覚悟を告げた。大地はさすがに医師だけあって、即座に気を取り直し、ソファから立ち拳を握り締めた。

「父さん、手術は僕が手配する。僕の知り合いの……アメリカ随一の名医に頼む。母さんを……死なせたりなんかするもんか」

 そして是が非でも助けるのだと、すぐさま知人の名医に掛け合うため、電話を手に廊下へと出て行った。一方で、双子はショックのあまり泣き出してしまった。

「いやだ。嫌だよ。ねえ、梨奈、お母さん、助かるんだよね!?死なないよね!?」
「あ、当たり前でしょう!? お兄ちゃんもいるもん。助かるに決まっているわ!!」

 家族全員がただひたすら混乱し、それでもできることを探す中で、瑠奈だけはただひとり、あの眼差しでどこか遠くを見ていた。決して生を諦めていたわけではないとは思う。「双子を嫁に出すまでは死ねない」、と繰り返し言っていたのだから。

 ただ、今にして思えばになってしまうが、彼女は運命にも似た何か、生まれる前から知っていた何かを、そこに見ていたのかもしれなかった。
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