68 / 90
第2部
23.薔薇と真紅(3)
しおりを挟む
高野さんは大地君の入院するあの病院を知っていた。つまりはこの男に命じられ、たびたび様子を見に来ていたということだ。なら、僕が顔を出すようになったこともすでに聞いていたはずだ。僕にまだ未練がある上で瑠奈の事情を知り、こうなるかもしれないことも予測していただろう。
樋野陽は紅の花弁を一枚契り足元に落とした。
「……血液と内臓の状態が悪かったんです」
低く艶やかな声からは何の思いも感じ取れない。それが返ってこの男の胸に渦巻く激情を示しているようにも思えた。
「どう言うことなんだ」
声は僕に問われるままに答える。
「瑠奈が、死ぬかもしれなかった」
大地君を妊娠したと判明した直後、瑠奈は突然倒れ病院に運び込まれたのだと言う。それから三日間生死の境をさまよった。母体の血液の状態が悪く、妊娠の継続には負担がかかり、危険が伴うと言われたのだそうだ。樋野陽は迷いなく瑠奈の命を選び、中絶をしてほしいと医師に頼んだ。ところが、母親である瑠奈が拒絶したのだ。
「瑠奈に絶対に嫌だと言われました。命は、そんな簡単に消していいものじゃないとも……」
もともと瑠奈の意志を汲むような男ではない。説得が無理ともなれば、力尽くでも中絶させるつもりだったらしい。ところが――。
「死んでやると言われました」
黒い瞳が戸惑いに揺れる。初めて見る途方に暮れた表情――迷子の子どものように見えた。
「この子を殺したらわたしも後を追うと、そう言われました」
「死にたい」ではなく「死ぬ」と言われたのだとあの男はぽつりと言った。瑠奈は瞳を潤ませながらも真っ直ぐに弟に目を向け、病院のベッドの上からこう告げたのだそうだ。
『陽がこの子を殺すなら、わたしも後を追って死ぬ。だって可哀想でしょう?暗闇しか知らずに日の光も見ずに、殺されるだなんて可哀想でしょう? だから寂しくないように一緒に逝ってあげるの』
「……本気でした」
瑠奈の心に一切迷いはなかったと樋野陽は言った。
「本気で瑠奈は死ぬつもりだった」
瑠奈は樋野陽がそれだけはできないと知っていて、子どもを守るために自分の命を盾にしたのだ。そして、わたしだけはこの命を喜んであげるのだと、縋るこの男を振り切り洋館を出て行った。援助も一切受け取ろうとしなかったのだそうだ。
「あれだけ怖がっていたのに」
僕は聞き捨てならない言葉にはっとなった。冷たく整った美貌を凝視する。
「怖がっていた……? 何をだ?」
もう何も隠すつもりはないのだろうか。樋野陽は小さく頷き薔薇を蔓ごと握り締めた。花がぐしゃりと潰れ形を失くす。掌に棘が刺さったのだろう――長い指と指との狭間から血が滲んで流れ出し、剥がれ落ちた紅色の花弁とともにぽたり、ぽたりと地に落ちた。どちらが薔薇で、どちらが血なのかも分からない。
「言った通りですよ。瑠奈は俺が犯すたびにもう止めてと叫んでいた。妊娠だけは嫌だと怖がり泣いていました。瑠奈が俺を受け入れてくれて、もう必要ないと思い無理に抱かなくなった。なのに、最後の夜に子どもができていた。ははっ……皮肉ですね」
樋野陽は紅の花弁を一枚契り足元に落とした。
「……血液と内臓の状態が悪かったんです」
低く艶やかな声からは何の思いも感じ取れない。それが返ってこの男の胸に渦巻く激情を示しているようにも思えた。
「どう言うことなんだ」
声は僕に問われるままに答える。
「瑠奈が、死ぬかもしれなかった」
大地君を妊娠したと判明した直後、瑠奈は突然倒れ病院に運び込まれたのだと言う。それから三日間生死の境をさまよった。母体の血液の状態が悪く、妊娠の継続には負担がかかり、危険が伴うと言われたのだそうだ。樋野陽は迷いなく瑠奈の命を選び、中絶をしてほしいと医師に頼んだ。ところが、母親である瑠奈が拒絶したのだ。
「瑠奈に絶対に嫌だと言われました。命は、そんな簡単に消していいものじゃないとも……」
もともと瑠奈の意志を汲むような男ではない。説得が無理ともなれば、力尽くでも中絶させるつもりだったらしい。ところが――。
「死んでやると言われました」
黒い瞳が戸惑いに揺れる。初めて見る途方に暮れた表情――迷子の子どものように見えた。
「この子を殺したらわたしも後を追うと、そう言われました」
「死にたい」ではなく「死ぬ」と言われたのだとあの男はぽつりと言った。瑠奈は瞳を潤ませながらも真っ直ぐに弟に目を向け、病院のベッドの上からこう告げたのだそうだ。
『陽がこの子を殺すなら、わたしも後を追って死ぬ。だって可哀想でしょう?暗闇しか知らずに日の光も見ずに、殺されるだなんて可哀想でしょう? だから寂しくないように一緒に逝ってあげるの』
「……本気でした」
瑠奈の心に一切迷いはなかったと樋野陽は言った。
「本気で瑠奈は死ぬつもりだった」
瑠奈は樋野陽がそれだけはできないと知っていて、子どもを守るために自分の命を盾にしたのだ。そして、わたしだけはこの命を喜んであげるのだと、縋るこの男を振り切り洋館を出て行った。援助も一切受け取ろうとしなかったのだそうだ。
「あれだけ怖がっていたのに」
僕は聞き捨てならない言葉にはっとなった。冷たく整った美貌を凝視する。
「怖がっていた……? 何をだ?」
もう何も隠すつもりはないのだろうか。樋野陽は小さく頷き薔薇を蔓ごと握り締めた。花がぐしゃりと潰れ形を失くす。掌に棘が刺さったのだろう――長い指と指との狭間から血が滲んで流れ出し、剥がれ落ちた紅色の花弁とともにぽたり、ぽたりと地に落ちた。どちらが薔薇で、どちらが血なのかも分からない。
「言った通りですよ。瑠奈は俺が犯すたびにもう止めてと叫んでいた。妊娠だけは嫌だと怖がり泣いていました。瑠奈が俺を受け入れてくれて、もう必要ないと思い無理に抱かなくなった。なのに、最後の夜に子どもができていた。ははっ……皮肉ですね」
0
お気に入りに追加
266
あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる