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第2部
10.大地と樹木(4)
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あれから早く 一週間が過ぎ、僕は機上の人となっていた。
ここはニューヨークへと向かう飛行機のビジネス席だ。僕は直属の上司であるマークとともに、来年に向け米国の本社へ出張することになっていた。平日だからか席はガラガラである。その分気兼ねなくゆっくりすることができ、考えたくもないことまで考えてしまった。
十代の頃のほうがはるかに理性があったとは、二十代半ばの僕の精神構造はどうなっているんだ? ケダモノの部分だけが退化どころか進化し、あげく瑠奈にあんな真似をしてしまうだなんて。
僕はひたすら溜息を吐き、暗い顔で何杯もコーヒーを飲んでいた。隣のマークがおもむろにアイマスクを取り、その青い目で僕をなぜか楽しげに眺める。
『一樹、可愛いボーイ、悩み多き青少年よ、何があったんだい。君がヤケ酒ならぬヤケコーヒーを飲んでいるのは初めて見たよ』
僕は五杯目のコーヒーを飲みつつ眉をひそめた。
『……もうボーイと言う年では』
『わたしからすればボーイでしかないさ。おじさんに相談してみる気はないかい。最近息子も娘もすっかり独立し、パパはとっても寂しいんだ』
『……』
金髪碧眼のイギリス系アメリカ人――この男が僕の上司であるマーク・スタンリーだ。今年五十歳となる奇妙な経歴の持ち主である。名門イギリス貴族出身なのだが、十八歳の頃身一つで世界に飛び出し、ハンガリー・トルコ・ロシア・中国の奥地・ベトナムを転々としたのだそうだ。
二十三歳の頃にアメリカの大学に入学し、卒業後にはいくつかの起業を経て、僕の勤務先である米系金融に入社している。最後に日本への駐在を希望して、現在に至ると言うわけだ。ちなみに各国で必ず一度は結婚し、バツ一どころかバツ六、昨今の奥さんは日本人だ。
マークは足を組み僕の顔を覗き込んだ。
『君の悩みを当ててみようか? 女だな。昔の恋人と再会し、焼け木杭に火がつきそうになっている。ただし君の一方的なもので、相手の女性はまだはっきりしていない』
『なっ……』
さすがにマークの目を凝視してしまった。マークはHAHAHAと笑い僕のコーヒーを奪った。一口飲みニヤリと人を食ったような顔で笑う。
『わたしはこれでもホームズの国の生まれだよ。種明かしをしてみようか。まず、世の中の男の悩みはほぼ六つに分類される。プライド、仕事、家族、健康、金、女さ。まず君には無駄なプライドがない。省かれる。次に仕事。極めて順調だ。省かれる。三番目に家族。君は天涯孤独だろう? 省かれる。四番目に健康。言うまでもない。省かれる。五番目に金。君は借金も贅沢もしないタチだ。省かれる。
ともなれば女しかない。おまけに君にはこの三年特定の恋人がなく、ワンナイトスタンドばかりを楽しんでいた。君のような性格のボーイには珍しいと不思議に思っていたんだ。本来遊びで女を抱くタイプではないからね。なら、過去にきっと女性不信になる出来事があったのだろうと思ったのさ』
『……』
『おまけに君は一週間前までの休暇中に、里帰りをしてくると言っていただろう? 様子が若干変わったのはそれからだ。なら、郷里でトラウマのもとの女に会ったと考えるのが自然だ。昔の恋人と言うのは特別なものさ。封を切り一口だけ飲んだブランデーのようなものだ。年月が経ったものほど深みが増し、もう一度味わいたいと感じる。ん?なぜ恋愛だとわかったのかって?わたしの経験値と観察眼を舐めちゃいけないよ。わたしは人生で三十回は女性と恋に落ちているんだから』
ここまで見透かされてしまえば開き直るしかない。
僕は額を覆うと天井を仰いだ。
『どうすればいいと思いますか?』
百戦錬磨のマークなら答えられるかもしれないと思う。
『もう瑠奈を諦めたくはないんです。僕と一緒に生きて欲しい。僕を彼女の意志で選んで欲しいんです』
『……これは本気だね。君の思い人はルナか。素敵な名前だ』
マークはふむと顎に手を当てた。
『その人だと決めたのなら手段を選んではいけない。何でもすると言う気概がなければね。その女性に何か特徴はあるかい? 弱みと言ってもいいだろう』
『弱み……?』
『そう、弱みを掴んでゆすぶる。交渉の基本のひとつでもある』
僕は大地君の名前を思い浮かべた。
『結婚はしていませんが子どもがいます。生活にも苦労しているみたいです』
『ああ、なら簡単じゃないか!!』
マークは満面の笑顔を浮かべ、僕の肩を二度強く叩いた。
『子どもをまず先にうまく手懐けるんだ。日本人はまともな母親でさえあれば、自分より子どもを基準にものを考える。彼女の子どもに気に入られれば、君を父親候補、夫候補として考えてくれるかもしれないぞ』
ここはニューヨークへと向かう飛行機のビジネス席だ。僕は直属の上司であるマークとともに、来年に向け米国の本社へ出張することになっていた。平日だからか席はガラガラである。その分気兼ねなくゆっくりすることができ、考えたくもないことまで考えてしまった。
十代の頃のほうがはるかに理性があったとは、二十代半ばの僕の精神構造はどうなっているんだ? ケダモノの部分だけが退化どころか進化し、あげく瑠奈にあんな真似をしてしまうだなんて。
僕はひたすら溜息を吐き、暗い顔で何杯もコーヒーを飲んでいた。隣のマークがおもむろにアイマスクを取り、その青い目で僕をなぜか楽しげに眺める。
『一樹、可愛いボーイ、悩み多き青少年よ、何があったんだい。君がヤケ酒ならぬヤケコーヒーを飲んでいるのは初めて見たよ』
僕は五杯目のコーヒーを飲みつつ眉をひそめた。
『……もうボーイと言う年では』
『わたしからすればボーイでしかないさ。おじさんに相談してみる気はないかい。最近息子も娘もすっかり独立し、パパはとっても寂しいんだ』
『……』
金髪碧眼のイギリス系アメリカ人――この男が僕の上司であるマーク・スタンリーだ。今年五十歳となる奇妙な経歴の持ち主である。名門イギリス貴族出身なのだが、十八歳の頃身一つで世界に飛び出し、ハンガリー・トルコ・ロシア・中国の奥地・ベトナムを転々としたのだそうだ。
二十三歳の頃にアメリカの大学に入学し、卒業後にはいくつかの起業を経て、僕の勤務先である米系金融に入社している。最後に日本への駐在を希望して、現在に至ると言うわけだ。ちなみに各国で必ず一度は結婚し、バツ一どころかバツ六、昨今の奥さんは日本人だ。
マークは足を組み僕の顔を覗き込んだ。
『君の悩みを当ててみようか? 女だな。昔の恋人と再会し、焼け木杭に火がつきそうになっている。ただし君の一方的なもので、相手の女性はまだはっきりしていない』
『なっ……』
さすがにマークの目を凝視してしまった。マークはHAHAHAと笑い僕のコーヒーを奪った。一口飲みニヤリと人を食ったような顔で笑う。
『わたしはこれでもホームズの国の生まれだよ。種明かしをしてみようか。まず、世の中の男の悩みはほぼ六つに分類される。プライド、仕事、家族、健康、金、女さ。まず君には無駄なプライドがない。省かれる。次に仕事。極めて順調だ。省かれる。三番目に家族。君は天涯孤独だろう? 省かれる。四番目に健康。言うまでもない。省かれる。五番目に金。君は借金も贅沢もしないタチだ。省かれる。
ともなれば女しかない。おまけに君にはこの三年特定の恋人がなく、ワンナイトスタンドばかりを楽しんでいた。君のような性格のボーイには珍しいと不思議に思っていたんだ。本来遊びで女を抱くタイプではないからね。なら、過去にきっと女性不信になる出来事があったのだろうと思ったのさ』
『……』
『おまけに君は一週間前までの休暇中に、里帰りをしてくると言っていただろう? 様子が若干変わったのはそれからだ。なら、郷里でトラウマのもとの女に会ったと考えるのが自然だ。昔の恋人と言うのは特別なものさ。封を切り一口だけ飲んだブランデーのようなものだ。年月が経ったものほど深みが増し、もう一度味わいたいと感じる。ん?なぜ恋愛だとわかったのかって?わたしの経験値と観察眼を舐めちゃいけないよ。わたしは人生で三十回は女性と恋に落ちているんだから』
ここまで見透かされてしまえば開き直るしかない。
僕は額を覆うと天井を仰いだ。
『どうすればいいと思いますか?』
百戦錬磨のマークなら答えられるかもしれないと思う。
『もう瑠奈を諦めたくはないんです。僕と一緒に生きて欲しい。僕を彼女の意志で選んで欲しいんです』
『……これは本気だね。君の思い人はルナか。素敵な名前だ』
マークはふむと顎に手を当てた。
『その人だと決めたのなら手段を選んではいけない。何でもすると言う気概がなければね。その女性に何か特徴はあるかい? 弱みと言ってもいいだろう』
『弱み……?』
『そう、弱みを掴んでゆすぶる。交渉の基本のひとつでもある』
僕は大地君の名前を思い浮かべた。
『結婚はしていませんが子どもがいます。生活にも苦労しているみたいです』
『ああ、なら簡単じゃないか!!』
マークは満面の笑顔を浮かべ、僕の肩を二度強く叩いた。
『子どもをまず先にうまく手懐けるんだ。日本人はまともな母親でさえあれば、自分より子どもを基準にものを考える。彼女の子どもに気に入られれば、君を父親候補、夫候補として考えてくれるかもしれないぞ』
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