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第1部

15.紅蓮と遺言(6)

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――今夜は新月だ

 わたしはぼんやりと空を見上げた。

 ここは神戸の街並みが一望できる展望台のひとつだ。昔から悲しい時にはよくここに来ていた。手すり越しにネオン街の赤や緑や黄の灯りを見下ろす。高台から吹く風がコートのない体を冷やす。二月の終わりの風はまだ凍てつくように寒い。思わず自分で自分を抱き締める。

 今日は週末だからか展望台には観光客やカップルが多い。そんな中でセーラー服姿のわたしはいっそう寂しく見えた。すぐ隣のコイン双眼鏡を覗く気にもなれない。

「お父さん、お母さん……」

 手すりに身を預けまた涙を流す。このまま消えてしまいたいと思った。なのに、ここから飛び降りるほどの勇気はない。二月の寒風がわたしの髪を宙に舞い上げた。

 わたしはどこに帰ればいいのだろう? 荘田の実家にはもう居場所はない。

「ふぇっ……」

 わたしは手すりに突っ伏し嗚咽を洩らした。

「パパ……ママ……お父さん……お母さん……」

 手すりに突っ伏しまた涙を流す。視界が涙でいびつに歪んでいた。

 わたしは何て情けないのだろう。結局、陽の出来損ないでしかない。

 そうだ、陽。

 わたしは顔を上げ弟の名前を呼んだ。

「あきら……」

 そう、陽ならわたしを助けてくれる。いつだってわたしの味方だったもの。生まれる前から一緒にいたわたしの半身――。



*



 わたしが樋野家の正門の前に立った時、陽はすぐに気が付いたのだと言う。廊下の窓をたまたま覗いていたのだそうだ。呼び出しのチャイムを押すまでもなく、わたしを迎えにすぐに飛んできてくれた。

「こんな寒空にコートもなしで何があったんだ?」

 陽は呆れながらもわたしを自分の部屋へと入れた。陽の部屋は「金枝の間」と呼ばれる個室だ。代々樋野家の長男のみが割り当てられる。金枝の間の名前の由来は窓から見えるケヤキの木だ。このケヤキにはヤドリギが生えている。そのヤドリギが月の輝く夜には金に照らされ、えも言われぬ幻想的な景色を生み出すのだそうだ。

 この部屋に来るのは何ヶ月ぶりだろうか。金枝の間は広い間取りと暖炉は明治のままだけれども、内装の一部は現代風に作り替えられている。清潔感のある白い壁に広い窓――その窓の前には、パソコンの置かれた黒いデスクがあった。あとはベッドと本棚とずらりと並ぶ専門書以外には何もない。相変わらず生活感がなく殺風景にすら見える部屋だった。

「ほら、来い」

 陽はベッドを叩きわたしに隣に座れと促した。わたしはこくりと頷きおずおずと腰を下ろす。

「遠慮なんて瑠奈らしくないな」

 陽はわたしの顔を覗き込んだ。

「いつもの元気もない」
「……」

 洋館に来るまでは陽にすべてを打ち明け相談しようと考えていた。なのに、それでいいのだろうかかと思い直しつつある。わたしは辛い時にはいつも頼り甲斐のある弟に甘えてきた。けれども、それでは成長も進歩もないと思い始めている。

 わたしはこれから一樹君と二人で生きていくためにも、自分の力でこの問題を解決しなければならない。両親と正面から向き合い話し合わなければならない。

「何かあったのか?」
「……」

 わたしは陽の問いに答えられなかった。

「気が済むまでいるといい。ここは瑠奈の家でもあるんだから」

 わたしの家――。

 荘田の両親と過ごした平凡で幸福な一七年を思い出す。両親はわたしをお金と引き換えに育てたのかもしれない。でも、真実はひとつしかないのだとは思えない。お父さんとお母さんの優しさは本物だった。演技だけで、騙し続けるためだけに一七年を暮らすのは難しい。わたしは陽に比べれば子どもでしかないけれど、人の心は善と悪、光や闇と言ったように、簡単に分けられないことは嫌でも分かっていた。

「陽」

 わたしは陽を真っ直ぐに見つめる。

「風が収まったらわたし帰るね。ごめんね。せっかく入れてくれたのに」

 わたしはやっぱり荘田の家の娘だ。パパもママも大好きだったけれども、生きているあの二人が大切なのだ。もしもわたしに遺留分があると言うのなら、お父さんの望みどおりに渡そうと思った。陽はそうかとだけ言い、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。

「早く仲直りして来いよ。親子喧嘩なんて中学までだ」

 ああ、やっぱり陽には見透かされていた。

「ありがと」

 わたしは陽の肩にこつんと額を当てた。

「陽が弟で、わたし、よかった」
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