15 / 90
第1部
14.紅蓮と遺言(5)
しおりを挟む
「ただいま」
わたしは引き戸を開け家に入った。今日の学校と放課後は楽しかったと、ついニコニコと笑ってしまう。一時間だけだけれども放課後に一樹君とデートができ、二ヶ月ぶりに明るい気分になっていたのだ。
さっそく靴を脱ぎお母さんが言った通りに左端に揃える。そこでお父さんの靴があるのに気が付き首を傾げた。お父さんが会社から帰るのは午後七時だ。まだ六時なのにいったいどうしたのだろうか。
わたしは洗面所で手を洗いキッチンを目指した。そろそろお母さんが夕食の支度を始める。手伝わなければならないと思ったのだ。わたしは入り口を潜り次の瞬間その場に立ち尽くした。
ダイニングのテーブルに両親が並んで腰かけている。お父さんはスーツ姿のままテーブルに手を組み、たった今この世が終わった――そんな疲れた顔をしていた。二人は立ち尽くしているわたしを認め溜息を吐く。
「……瑠奈、来なさい。いいえ、どうかお座りください」
お父さんはわたしに躊躇いすら許さず告げる。わたしは言われるままに腰を下ろした。
「瑠奈様、おれ……今日わたしはM商事を解雇されました」
「え……」
わたしは絶句しお父さんの顔を見つめた。お父さんの口調が家族のものから、使用人のそれへと変わったことには気が付かなかった。
お父さんはショックを受けるわたしに追い打ちをかける。お父さんはわたしを樋野家から引き取って以降その見返りとして、M商事の管理職として支部のひとつに勤めていたのだと言う。なのに、パパの急死とともに経営陣が刷新されたとたん、用済みとばかりにリストラされたのだそうだ。樋野家からわたしの養育費として支給されていた手当も打ち切られた。それらのお金の流れはわたしが何ひとつ知らなかった事実だった。
「我が家には莫大なローンも借金もある。もうあなたしか手段がありません。どうか秋嶋様に取り成しをしていただけませんか」
お父さんの表情は一七年間家族として共に暮らし、父親と娘として過ごしたとは考えられなかった。縋るような目とどこまでも媚びる顔つき――荘田の家族を信じていたわたしには耐えられなかった。
「おと……さん、何言っているの。わたし、何もできないよ?」
「いいえ、瑠奈様。あなたは樋野家のお嬢様です。ああ、そうだ。社長の遺産の遺留分があるでしょう? そちらを回していただくことはできませんか。わたしたちは一七年あなたを育ててきたんですよ?」
パパのたった一言に一七年に築き上げた絆が呆気なく、一瞬にしてガラガラと音を立て崩れ落ちる。三歳のころの親子連れの遠足も、七歳の誕生日に一緒ケーキを作った思い出も、一〇歳のバレンタインにネクタイを送った記憶も、みんなみんな崩れていく――。
「お願いします瑠奈様。どうか秋嶋様にお取り成しを。どうか、どうかお助けを……」
わたしは呆然とお母さんを見つめた。
「ね、お母さん。嘘だよね?」
お父さんもお母さんもお金と引き換えにわたしを育てていた。わたしは樋野家からお金で押しつけられた子どもだった――知ったばかりのそんな事実を受け入れられるはずがない。けれどもどこまでも誠実で嘘のつけない二人は、残酷な事実をわたしに告げるしかなかったのだ。
一七年お母さんと呼んできた人は一瞬泣きそうな顔になり、次いでふらふらと立ち上がりわたしのすぐ傍に土下座をした。
「瑠奈様、お願いします」
お母さんの頭には白髪が混じり始めている。二ヶ月前には見受けられらなかった色だ。
「私と夫をお助けください。もうあなたに縋るしかすべがありません。このままでは私どもは死ぬしか……」
「……っ」
わたしは立ち上がりただ首を振った。
「瑠奈様?
「ごめんなさい。遺留分とか取り成しとか、わたし分からないし、ぜんぜん知らない」
無意識のうちに出た言葉がそれだった。くしゃりと顔が崩れて涙が止められない。
――みんな、みんなわたしのせいだ。わたしがお父さんとお母さんを不幸にした。お父さんとお母さんにこんな顔をさせた。
わたしは一歩後ずさり首を振った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。わ、わたし何もできません。本当にごめんなさい……」
わたしは二人にとって望まれた子どもでなかったのだ。そしてわたしは二人を助けられる力を何ひとつ持たない。その事実は思った以上にわたしの心を深く抉った。わたしの顔にお父さんがはっと息を呑み、思わずと言ったように手を伸ばす。
「る――」
わたしは名前を呼ばれる前に身を翻し、ダイニングから駆け足で飛び出した。
「瑠奈、すまなかった!! 戻ってきてくれ……!!」
「瑠奈!! ああ、瑠奈っ……、ごめんなさいっ……!!」
お父さんとお母さんの悲痛な絶叫は聞こえなかった。わたしは17年住み慣れた家から、潰れてしまいそうな心を抱え飛び出した。
わたしは引き戸を開け家に入った。今日の学校と放課後は楽しかったと、ついニコニコと笑ってしまう。一時間だけだけれども放課後に一樹君とデートができ、二ヶ月ぶりに明るい気分になっていたのだ。
さっそく靴を脱ぎお母さんが言った通りに左端に揃える。そこでお父さんの靴があるのに気が付き首を傾げた。お父さんが会社から帰るのは午後七時だ。まだ六時なのにいったいどうしたのだろうか。
わたしは洗面所で手を洗いキッチンを目指した。そろそろお母さんが夕食の支度を始める。手伝わなければならないと思ったのだ。わたしは入り口を潜り次の瞬間その場に立ち尽くした。
ダイニングのテーブルに両親が並んで腰かけている。お父さんはスーツ姿のままテーブルに手を組み、たった今この世が終わった――そんな疲れた顔をしていた。二人は立ち尽くしているわたしを認め溜息を吐く。
「……瑠奈、来なさい。いいえ、どうかお座りください」
お父さんはわたしに躊躇いすら許さず告げる。わたしは言われるままに腰を下ろした。
「瑠奈様、おれ……今日わたしはM商事を解雇されました」
「え……」
わたしは絶句しお父さんの顔を見つめた。お父さんの口調が家族のものから、使用人のそれへと変わったことには気が付かなかった。
お父さんはショックを受けるわたしに追い打ちをかける。お父さんはわたしを樋野家から引き取って以降その見返りとして、M商事の管理職として支部のひとつに勤めていたのだと言う。なのに、パパの急死とともに経営陣が刷新されたとたん、用済みとばかりにリストラされたのだそうだ。樋野家からわたしの養育費として支給されていた手当も打ち切られた。それらのお金の流れはわたしが何ひとつ知らなかった事実だった。
「我が家には莫大なローンも借金もある。もうあなたしか手段がありません。どうか秋嶋様に取り成しをしていただけませんか」
お父さんの表情は一七年間家族として共に暮らし、父親と娘として過ごしたとは考えられなかった。縋るような目とどこまでも媚びる顔つき――荘田の家族を信じていたわたしには耐えられなかった。
「おと……さん、何言っているの。わたし、何もできないよ?」
「いいえ、瑠奈様。あなたは樋野家のお嬢様です。ああ、そうだ。社長の遺産の遺留分があるでしょう? そちらを回していただくことはできませんか。わたしたちは一七年あなたを育ててきたんですよ?」
パパのたった一言に一七年に築き上げた絆が呆気なく、一瞬にしてガラガラと音を立て崩れ落ちる。三歳のころの親子連れの遠足も、七歳の誕生日に一緒ケーキを作った思い出も、一〇歳のバレンタインにネクタイを送った記憶も、みんなみんな崩れていく――。
「お願いします瑠奈様。どうか秋嶋様にお取り成しを。どうか、どうかお助けを……」
わたしは呆然とお母さんを見つめた。
「ね、お母さん。嘘だよね?」
お父さんもお母さんもお金と引き換えにわたしを育てていた。わたしは樋野家からお金で押しつけられた子どもだった――知ったばかりのそんな事実を受け入れられるはずがない。けれどもどこまでも誠実で嘘のつけない二人は、残酷な事実をわたしに告げるしかなかったのだ。
一七年お母さんと呼んできた人は一瞬泣きそうな顔になり、次いでふらふらと立ち上がりわたしのすぐ傍に土下座をした。
「瑠奈様、お願いします」
お母さんの頭には白髪が混じり始めている。二ヶ月前には見受けられらなかった色だ。
「私と夫をお助けください。もうあなたに縋るしかすべがありません。このままでは私どもは死ぬしか……」
「……っ」
わたしは立ち上がりただ首を振った。
「瑠奈様?
「ごめんなさい。遺留分とか取り成しとか、わたし分からないし、ぜんぜん知らない」
無意識のうちに出た言葉がそれだった。くしゃりと顔が崩れて涙が止められない。
――みんな、みんなわたしのせいだ。わたしがお父さんとお母さんを不幸にした。お父さんとお母さんにこんな顔をさせた。
わたしは一歩後ずさり首を振った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。わ、わたし何もできません。本当にごめんなさい……」
わたしは二人にとって望まれた子どもでなかったのだ。そしてわたしは二人を助けられる力を何ひとつ持たない。その事実は思った以上にわたしの心を深く抉った。わたしの顔にお父さんがはっと息を呑み、思わずと言ったように手を伸ばす。
「る――」
わたしは名前を呼ばれる前に身を翻し、ダイニングから駆け足で飛び出した。
「瑠奈、すまなかった!! 戻ってきてくれ……!!」
「瑠奈!! ああ、瑠奈っ……、ごめんなさいっ……!!」
お父さんとお母さんの悲痛な絶叫は聞こえなかった。わたしは17年住み慣れた家から、潰れてしまいそうな心を抱え飛び出した。
0
お気に入りに追加
262
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
稚拙ながらも投稿初日(11/21)から📝HOTランキングに入れて頂き、本当にありがとうございます🤗 今回初めてHOTランキングの5位(11/23)を頂き感無量です🥲 そうは言いつつも間違ってランキング入りしてしまった感が否めないのも確かです💦 それでも目に留めてくれた読者様には感謝致します✨
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる