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第1部

14.紅蓮と遺言(5)

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「ただいま」

 わたしは引き戸を開け家に入った。今日の学校と放課後は楽しかったと、ついニコニコと笑ってしまう。一時間だけだけれども放課後に一樹君とデートができ、二ヶ月ぶりに明るい気分になっていたのだ。

 さっそく靴を脱ぎお母さんが言った通りに左端に揃える。そこでお父さんの靴があるのに気が付き首を傾げた。お父さんが会社から帰るのは午後七時だ。まだ六時なのにいったいどうしたのだろうか。

 わたしは洗面所で手を洗いキッチンを目指した。そろそろお母さんが夕食の支度を始める。手伝わなければならないと思ったのだ。わたしは入り口を潜り次の瞬間その場に立ち尽くした。

 ダイニングのテーブルに両親が並んで腰かけている。お父さんはスーツ姿のままテーブルに手を組み、たった今この世が終わった――そんな疲れた顔をしていた。二人は立ち尽くしているわたしを認め溜息を吐く。

「……瑠奈、来なさい。いいえ、どうかお座りください」

 お父さんはわたしに躊躇いすら許さず告げる。わたしは言われるままに腰を下ろした。

「瑠奈様、おれ……今日わたしはM商事を解雇されました」
「え……」

 わたしは絶句しお父さんの顔を見つめた。お父さんの口調が家族のものから、使用人のそれへと変わったことには気が付かなかった。

 お父さんはショックを受けるわたしに追い打ちをかける。お父さんはわたしを樋野家から引き取って以降その見返りとして、M商事の管理職として支部のひとつに勤めていたのだと言う。なのに、パパの急死とともに経営陣が刷新されたとたん、用済みとばかりにリストラされたのだそうだ。樋野家からわたしの養育費として支給されていた手当も打ち切られた。それらのお金の流れはわたしが何ひとつ知らなかった事実だった。

「我が家には莫大なローンも借金もある。もうあなたしか手段がありません。どうか秋嶋様に取り成しをしていただけませんか」

 お父さんの表情は一七年間家族として共に暮らし、父親と娘として過ごしたとは考えられなかった。縋るような目とどこまでも媚びる顔つき――荘田の家族を信じていたわたしには耐えられなかった。

「おと……さん、何言っているの。わたし、何もできないよ?」
「いいえ、瑠奈様。あなたは樋野家のお嬢様です。ああ、そうだ。社長の遺産の遺留分があるでしょう? そちらを回していただくことはできませんか。わたしたちは一七年あなたを育ててきたんですよ?」

 パパのたった一言に一七年に築き上げた絆が呆気なく、一瞬にしてガラガラと音を立て崩れ落ちる。三歳のころの親子連れの遠足も、七歳の誕生日に一緒ケーキを作った思い出も、一〇歳のバレンタインにネクタイを送った記憶も、みんなみんな崩れていく――。

「お願いします瑠奈様。どうか秋嶋様にお取り成しを。どうか、どうかお助けを……」

 わたしは呆然とお母さんを見つめた。

「ね、お母さん。嘘だよね?」

 お父さんもお母さんもお金と引き換えにわたしを育てていた。わたしは樋野家からお金で押しつけられた子どもだった――知ったばかりのそんな事実を受け入れられるはずがない。けれどもどこまでも誠実で嘘のつけない二人は、残酷な事実をわたしに告げるしかなかったのだ。

 一七年お母さんと呼んできた人は一瞬泣きそうな顔になり、次いでふらふらと立ち上がりわたしのすぐ傍に土下座をした。

「瑠奈様、お願いします」

 お母さんの頭には白髪が混じり始めている。二ヶ月前には見受けられらなかった色だ。

「私と夫をお助けください。もうあなたに縋るしかすべがありません。このままでは私どもは死ぬしか……」
「……っ」

 わたしは立ち上がりただ首を振った。

「瑠奈様?
「ごめんなさい。遺留分とか取り成しとか、わたし分からないし、ぜんぜん知らない」

 無意識のうちに出た言葉がそれだった。くしゃりと顔が崩れて涙が止められない。

――みんな、みんなわたしのせいだ。わたしがお父さんとお母さんを不幸にした。お父さんとお母さんにこんな顔をさせた。

 わたしは一歩後ずさり首を振った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。わ、わたし何もできません。本当にごめんなさい……」

 わたしは二人にとって望まれた子どもでなかったのだ。そしてわたしは二人を助けられる力を何ひとつ持たない。その事実は思った以上にわたしの心を深く抉った。わたしの顔にお父さんがはっと息を呑み、思わずと言ったように手を伸ばす。

「る――」

 わたしは名前を呼ばれる前に身を翻し、ダイニングから駆け足で飛び出した。

「瑠奈、すまなかった!! 戻ってきてくれ……!!」
「瑠奈!! ああ、瑠奈っ……、ごめんなさいっ……!!」

 お父さんとお母さんの悲痛な絶叫は聞こえなかった。わたしは17年住み慣れた家から、潰れてしまいそうな心を抱え飛び出した。
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