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第三章「侍女ですが、○○○に昇格しました。」

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「なっ……」

 反射的に後ずさる。まさか、隠し通路まで押さえられているとは思わなかったのだ。

「この地下道は古代の遺跡の一部だとお聞きした。元はクラルテル教徒のカタコンベ地下墓所だったそうだな」

 だだっ広く薄暗い石造りの地下道の両脇には、いくつもの横穴が掘られ、穴によっては朽ち果てた棺や骨の一部が転がっている。

 まだクラルテル教の歴史が浅く、現在とは反対に異教だと迫害されていた頃、信徒たちが死後遺体を辱められないため、このように地下に墓所を設けたのだとか。

 この場にいたのがシプリアンであれば、すぐさまその魂のために祈りを捧げ、神の御許での安息を願ったに違いない。

 だが、アレクサンドル二世はそんなことはどうでもよかった。

「な、何がほしい⁉」

 背後に転びそうになりつつなおも後ずさる。

「く、クローチェならくれてやるぞ。それとも、金か、女か⁉」

 国王はすらりと剣を鞘から抜いた。

 アレクサンドル二世は黒光りする刀身に息を呑む。

「俺が求めるものはただ一つ――」

 切っ先が喉元に突き付けられる。

「猊下の退位のみ」

「……っ」

 黒い瞳にはなんの感情の揺らぎもなく、殺意がまったく感じられないのが逆に恐ろしかった。足下から首筋に掛けて震えが走る。

 それでも、退位など冗談ではなかった。神の代理人となるために手を汚しただけではない。ありとあらゆるものを駒にし、生贄に捧げてきたのに。何か逃げ道はないかと往生際悪く足掻く。

「そ、そうだ。貴様の女だったか。あの女は魔女だが、この儂が認めてやろう」

 しかし、国王はこの言葉にもまったく揺らがなかった。

「俺の婚約者はもともとクラルテル教徒だ。食事前と就寝前には必ず祈りを捧げ、日曜日には必ずミサに出席するほど敬虔だ。もちろん、洗礼の記録もある」

 それも、シプリアンが洗礼を施していると。

「……っ」

 アレクサンドル二世はまたシプリアンかとギリリと唇を噛み締めた。

 思えばあの男が数十年前クラルテル教会に舞い戻り、出世街道を走り出した頃から、反比例して教皇権により管理できる範囲が徐々に狭められていった。

 現在では破門一つするにしても、まず枢機卿たちによる会議にかけ、賛同を得なければならない。その後の手続きも複雑になっている。数十年前のように教皇の鶴の一声で破門にできるわけではない。

 ――まさか。

 今更ながらはっとする。

 シプリアンは自分の力を削るために地位を固め、教皇庁での発言力を増していったのか。それも、あの温厚な微笑みを浮かべながら何十年も掛けて。

 執念に背筋が再びぞっとする。

 そして、エイエール王国に有利となったこの流れでは、間違いなく次の教皇の最有力候補はシプリアンだ。

 退位した上、敵が頂点に立った組織は、元教皇に対しどんな扱いをしようとするのかわからない。

 教皇庁だけではない。今まで多くの人々の恨みを買ってきた。それでも、教皇の地位にあったからこそ、強固な立場に守られ、復讐されることはなかったのだ。しかし、退けば研がれ続けてきた殺意の刃が一斉に向けられる。

 退位したくない。だが、退かなければこの国王にどんな目に遭わされるのかもわからない。口先の約束で済ませられる相手ではないことはもう十分に理解させられていた。

 前にも行けず後ろにも引けない。

「……っ」

 動揺のあまり背から倒れ込み、横穴の一つに尻餅をつく。

 尻の下で何かが割れる乾いた音がした。

「な、なんだこれは」

 手を突っ込んで目を見開く。

「ひっ……ひいいっ……」

 古代の信徒の骸骨の一部だった。

 這々の体で逃れようとしたその先が、国王の足下だったので今度は仰け反って再び尻餅をつき、臀部と両手を使って離れようとする。

 ふと、国王の漆黒の双眸が頭上に向いた。

「なるほど、今宵は満月か」

 釣られて同じところを見て絶句する。

 いつか見たあの悍ましい、一切光のない、暗黒そのものの闇が渦巻いていたからだ。

「ひっ……」

 恐怖のあまり声が出ない。腰が抜けて立ち上がることもできない。

「猊下は俺と同じく呪われた身であらせられるようだな」

 国王のそんな台詞も耳に入らなかった。

「しかも、魔は俺よりも猊下を好いているらしい」

 その闇に浮かぶ青の、緑の、茶の、黒の、手に掛けた無数の人々の憎悪の込められた目が、再びアレクサンドル二世を一斉に睨め付ける。

「みっ……見るなあ……っ‼」

 黒い目が『私はあなたに無実の罪で火刑に処されました』と声なき声でアレクサンドル二世の脳裏に囁く。

 次の瞬間、全身を激しい炎に包まれ、あまりの熱さに絶叫した。

「あっ……熱いっ……やっ……止めてくれぇーーっっ‼」

 肌を、肉を焼かれ灼熱で溶ける激痛に身悶え、喉が焼け焦げる苦しみに石畳の上を転げ回る。

 続いて青い瞳が教皇を見据えた。

『僕は両親と弟ともども教会騎士の矢で射貫かれ、殺された……。弟はまだ三歳だったのに……』

 火刑の幻覚が終わるが早いか、今度は全身を矢で射貫かれた。背を、喉を、胸を、最後に目を貫通され悲鳴を上げる。

「うあっ……目、が……儂の目がぁぁぁあああーーっ‼」

 更にハシバミ色の目が唸る。

『貴様に魔女だと断罪された私の妻は……剣でその柔らかな胸を貫かれた……。我が子だけではなく領民の孤児を引き取り、養育した優しい女だったのに……』

 背からどっと鋭い刃で貫かれる。

「あ……あああっ……‼」

 喉の奥からゴブリと赤黒い血が吐き出された。

 ――実際のアレクサンドル二世は無傷だった。

 だが、魔と化した人々の怨念がアレクサンドルを断罪し、かつておのれの受けた罰を現実の苦痛以上の幻覚で返していく。

 恐慌状態に陥ったアレクサンドル二世に、もはや実際と幻覚の区別がつくはずもなく、その後も筆舌に尽くしがたい無数の苦痛を味わうことになった――。
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