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堕ちる者と堕ちない者と(5)

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 その後、薫の通報で駆け付けた消防車と救急車により、高柳家別邸の玄関付近で発生した小火は消し止められ、真琴は鎌倉市内の総合病院に担ぎ込まれた。

 幸い命は助かり・・・・・、現在入院中である。

 一方、冬馬は人間に発砲したとのことで、一時警察に取り調べを受けたが、すでに釈放され金沢に帰郷していた。

 薫は真琴の希望もあって、金沢に戻り修習を続けていたのだが、ある日の帰り際、流山に待ち伏せをされて呼び止められた。

「狩野君、話がある」

「……」

 いつかは対峙しなければならなかった。

 連れ立っていた同期の修習生に、予定していた飲み会の参加の断りを入れ、おとなしく流山のあとについて行く。

 流山の向かった先は町外れにある、こぢんまりとした墓地だった。

 今日は日が長くまだ明るく、夕焼けがなんとも美しい。墓地に人気は無かったが、物寂しさは感じなかった。空と同じ華やかな銀朱色に染まっているからだろうか。

「ここには流山さんの実家のお墓があるのでしょうか?」

「……いいや、違う」

 流山は南無阿弥陀仏と刻み込まれた、黒御影石の墓石の前で足を止めた。

「これは葉月の実家の墓だよ。あいつの親父さんも最近亡くなって、娘と同じところに入ってる」

 それ以上の余計な前置きはせず、「なぜ俺の指示を無視した」と、敵意丸出しの視線で睨め付ける。

「もう少しで誘拐と監禁の証拠が揃ったんだ。なのに、なぜ先走った。それに、別邸に放火したのは君だな? あの男を炙り出すつもりだったんだろう」

「……」

 恐らく証拠が揃うのを待っていたら、真琴の精神が保たなかった。

 美しい女が攫われ、その後何をされるのかは、どれほど馬鹿でもわかる。真琴はすでに自分との行為で深い心の傷を負っており、あれ以上耐えられるとは思えなかった。
 
 だから、恩を仇で返す形で流山を裏切ったのだ。

 薫は苦笑しつつ肩を竦めた。

「何をおっしゃっているんですか? 僕も妻と同じく招待されたから、あの別邸を訪ねただけです。それに、あの小火は事故ですよ。叔父が自分で煙草を捨てたからだと証言したでしょう」

「君はっ……いつから高柳家の犬になった!! どんな取り引きをした!? 一体いくら掴まされたんだ!?」

 流山は一瞬激昂したものの、理性を総動員したのだろう。すぐに鎮まり、悔しげに「……なぜだ」と唸った。

「君が検察官を目指したのは、法曹界や警察とのコネを作って、高柳家を裁けるかどうかを確かめようとしたからじゃないのか。両親の仇なんだろう?」

 確かに高柳家の罪を暴くのが目標だった。父親の優しさ、厳しさを教えてくれた義父の真之と、辛い境遇でも自分を産んでくれた母の月子の仇を打ちたかった。

 真琴にも流山にも打ち明けず、自分一人の胸に秘めていることがある。それは、真之の形見のパソコンには月子の写真だけではなく、ワープロで作成された日記帳があったことだ。

 そこには月子の過去を知ってしまったことも、近頃取引先の高柳産業との交渉がうまく行かないことも、長年貢献してきた勤め先から、自主退職を迫られていることも生々しく書かれていた。

 ようやく幸福を掴んだ月子と真之の無念を思うと、今でも悔しくてたまらずに体に震えが走る。

 だが、すでに死者の名誉よりも何よりも、守らなければならないものがあったのだ。

 流山は是が非でも口を割るまいという、薫の鋼の意志を感じ取ったのだろう。今度は泣き落としで説得しようとしたのか、なんと十五以上年下の若造に深々と頭を下げた。

「頼む。真琴さんに誘拐され、殺されかけたと証言させてくれ。それで殺人未遂でも高柳冬馬を引っ張れる」

 だが、すでに覚悟を決めた薫は、流山を哀れだとは思ったが、それ以上心を動かされることはなかった。

「僕もそう思い込んでいたのですが、真琴は監禁などはされていなかったのです。そう、自分の意志で叔父のもとへ行った……。ずっと独楽井快のファンだったそうです。勘違いでお騒がせしてしまい申し訳ございませんでした」
 
「……っ」

 流山は唇を噛み締めていたが、滲んだ血を手で拭って溜め息を吐いた。

「……なら、君は真琴さんが撃たれたのは誤射でしかなく、あくまで過失傷害だと主張するんだな? 高柳氏に殺意は一切なかったと」

「はい、そうです。叔父は火事場泥棒が入り込んだと勘違いし、煙でよく確認できずに、誤って真琴に発砲してしまったのです。僕も現場にいましたから証言できます」

「馬鹿な……。そんな馬鹿なことがあるはずが……」

 暴行や傷害の故意がなく、過失で人を死に至らしめた場合、非親告罪の過失致死罪となる。非親告罪とは被害者などの告訴がなくとも、公訴を提起できる犯罪であり、もし真琴が死んでいれば、冬馬を逮捕できていたかもしれない。

 しかし、真琴は生き延びた。

 この場合には過失傷害罪となり、一転して親告罪に分類される。親告罪とは検察官が公訴を起こす際、被害者の告訴が必要となる。つまり、真琴や自分が訴えなければ警察は何もできない。

「お話はそれだけでしょうか? では、僕はここで失礼します」

「……待て!」

 振り返るとそこにはいまだに執念を燃やし、真実と復讐に生きようとする男の姿があった。

「俺は決して諦めないぞ……。いつか必ずお前の罪も暴いてやる」



 真琴の入院する病院は昨年建て直されたばかりで、カフェやコンビニエンスストアも併設されている。オフホワイトを基調としたスタイリッシュな空間は、白衣姿の医師や看護師の姿がなければ、ショッピングモールと見間違えそうだった。

 病室も明るく広々とした快適な空間で、これなら治りも早くなるだろうと励まされる。

 土産物のプリンの箱を手にドアを開ける。

 真琴は寝転がったままスマートフォンをいじっていた。どうやらゲームをしているらしく、コミカルな音楽が聞こえてくる。

「あ、薫。久しぶり!」

 義弟を目にするなりぱっと顔を輝かせ、スマートフォンを枕元に置いた。

「何か持ってきてくれたの?」

「ああ、近くのケーキ屋でプリン買ってきた。これなら食べられるんだろう?」 

「そうそう、ありがとう! ここの病院食、不味くはないんだけど、やっぱり飽きちゃうんだよね。ねえ、一緒に食べようよ」

「じゃ、そうしようか」  

 ベッドの縁に腰掛け箱を開けると、真琴にプリンとスプーンを手渡し、午後の日差しの差し込む中で、二人で会話と甘味とを楽しむ。

「あっ、そう言えば怪我だけど、痕は割と目立たなくなるって」

「それはよかったな」

「高柳先生もこれで気にしなくなるといいんだけどね」

 真琴は冬馬に腹部を撃たれ、一時期は危篤状態に陥ったが、救急外来の医師らの懸命の手当てで一命を取り留めた。現在はもう起き上がれるまでになっている。

 小腸の一部を切除したものの、日常生活には問題がなく、妊娠・出産も帝王切開にはなるが可能だという。

 また、真琴は小腸の一部以外にも失ったものがあった。

「しっかし、薫の叔父さんがあの独楽井快だったなんて驚いた。銃で撃たれたって聞いた時よりもびっくりしたかな」

「……真琴のびっくりの感覚っておかしくないか?」

「だって、その辺なんにも覚えてないんだもの」

 意識を取り戻した真琴は、卒業式の夜以降の記憶を、綺麗さっぱり失くしていた。酒盛り後にベッドに横になったところまでは覚えていたが、目を覚ますといきなり病院で人工呼吸器やら点滴やらに繋がれていた。何事かと仰天して飛び起きようとし、痛みに呻く羽目になったのだそうだ。

 つまり、あの別邸での事件も、自分たちの関係が激変した一年も、冬馬の存在もすべて忘れており、銃で撃たれたのだと聞いても、ピンと来ないようだった。

 精神科の医師が説明していたように、撃たれたショックが原因だとは考えられなかった。辛く苦しい記憶を消し去らなければ、真琴は生きて行けなかったのだろう。

 薫は愛する者を追い詰めた男の一人が、他ならぬおのれなのだと、嫌というほど自覚していた。これ以上真琴を不幸にしたくはなかった。

 流山の望むままに冬馬を逮捕し、起訴してしまえば、真琴は被害者として、また証人として法廷に立ち、記憶を掘り起こさなければならない。そうなれば今度こそ本当に壊れてしまうだろう。

 もう二度と失いたくはなかった。

 だから、検察官を目指すのであれば許されない、目の前の犯罪を見逃すという、してはならない罪を犯したのだ。流山に告げたように、撃たれた件については、真琴にも偽りの理由を話してある。

 真琴は薫の沈黙を他所に、プリンを美味しそうに食べていたが、不意に手を止め、

「あっ、びっくりしたことがもう一つあった」

、と笑った。
 
「薫と結婚していたこと」

 真琴には記憶がない間に男女の関係になり、先日籍を入れたところだと説明してある。何度も強引に抱いたことは、一生心に秘めておくつもりだった。

 また、真琴が望むのであれば、このまま別れるつもりもあった。自分のものでなくなろうとも、真琴が幸福でさえあれば、何も構わなくなっていたのだ。

 それでも、離婚を切り出した時には、胸に刺されるような痛みを覚えた。

「それで、これからのことだけど、やっぱり離婚するか? 覚えていないなら、俺との結婚なんて冗談じゃないだろう」

 真琴はスプーンを口に入れたままきょとんとしていたが、やがて本来の彼女らしい明るく元気な笑顔を見せた。もうあの妖しいほどに儚い美しさは無くなっていた。

「えっ、どうして? このままでいいよ」

「だけど……」

「いいって言っているんだから、素直にありがとうと答えなさいよ」

 「どうしてかな?」と首を傾げつつまた笑う。

「ほら、薫には私がいなくちゃダメじゃない。そうでしょ? 私も薫と一緒がいい」

「……」

「覚えてなくてほんとごめんね! でも、いつか思い出すかもしれないし……」

 目と胸の奥から込み上げる熱いものを堪える。

「いいよ、思い出さなくても……」

 自分のすべてをかけて幸福にしようと誓った。幸福で他に何も考えられなくなるほどに。そして、いつか愛し合える日が来ればいい。来なくとも真琴の言葉だけでもう満足だった。

――何ヶ月かぶりに冬馬に再会したのは、その日の見舞いからの帰り道でのことだった。
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