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堕ちる者と堕ちない者と(4)
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しかし、真琴は誰が誰の子だと打ち明けられたところで、記憶のすべてが濃い霧の向こうにありわからなかった。ただ早く肉体から開放されて、心の望むところに旅立ちたかった。
ところが、心身を現世に繋ぎ止めようとするかのように、力強い手がか細い腕をシーツに押さえ付ける。
「真琴、君も優しい女だ。……情の深い女だ。きっとあの坊やを見捨てられず、関係を持つしかなかったのだろう? ずっと育ててきた子どもを男として意識するのは、君のような女には難しかったはずだ」
「……」
「なら、私との子も見捨てることはない」
今後は孕むまでは薬も飲ませず正気に戻し、避妊もしないと艶のある低い声が耳元に囁いた。
「代わりに君と子どもにはこの家のすべてをやろう。ともに呪われた人生を歩もうじゃないか」
衣擦れの音とともに薄闇で冷えた空気と、それとは対照的な熱い骨張った手が肌に触れる。
ところが、着物を脱がされかけたところで、どこからか焦げ臭い匂いが鼻に届いた。
「なんだ、この匂いは」
ふと体から男の重みが消えたかと思うと、直後に老いた女の狼狽した叫び声と、ドアが激しく叩かれる音が室内に響き渡る。
「旦那様……!」
間もなく開け放たれたのと同時に、もうもうと薄灰色の煙も入り込んで来た。
「旦那様、大変です。煙があちこちに」
「火事か?」
「わかりません。警報機は鳴ったんですが、火元がわからなくて……」
「今確かめに行く」
二人の慌ただしい足音が消えたあとは、あるかなきかのみずからの呼吸だけになり、命が消えかけていることを感じるからか、ただ音のない世界よりもずっと静かに思えた。
真琴にとって死はもはや願いであり、喜びであり、希望ですらあった。
だから、再びドアが今度は音もなく開けられ、長身の人影が声を潜めて現れた時には、またあの世へ行くのを邪魔されるのかと煩わしかったのだ。
そう、聞き慣れた声が自分の名前を呼ぶまではーー
「……真琴、真琴だな!?」
低く掠れた声だった。
「こんなところに……」
誰かが駆け寄り近くに跪く気配がする。脈拍と呼吸を確認され軽く頬を叩かれた。
「真琴、自分の名前が言えるか。俺が誰だかわかるか?」
(私の、名前……?)
名前とはなんだろうと目を瞬かせる。
「……クソッ」
人影は悔しそうに低く呻いたものの、すぐに気を取り直したらしく、すっかり痩せた右足首をそっと手に取り、足枷の鍵穴を確認しているようだった。
「単純な形式だからすぐに外れる。もう大丈夫だから安心しろ」
鉄とまた別の硬いものが擦れ合う、カチャカチャとした音がしばらくしたかと思うと、不意に右足首から足枷の冷たさが取り払われた。
「さっき救急車と消防車を呼んだ。すぐに病院に連れて行くから落ち着いて……」
広い胸に抱きかかえられ、目を覗き込まれて息を呑んだ。愛する者を失う恐れの宿る黒い瞳だった。
意識がたちまち色鮮やかさを取り戻す。
「か、おる……?」
そうだ、なぜこの瞳を忘れてしまっていたのかと、震える手を伸ばして鋭い線を描いた頬に触れる。
(……薫だけは忘れちゃいけなかったのに)
「薫……薫なんだね?」
薫は背に手を回して「ああ、そうだ」と溜め息を吐いた。続いて体が潰れてしまうかと思うほどかたく抱き締められる。
だが、苦しいとはまったく感じなかった。縋り付いてただ嗚咽して涙を流す。
「こ、怖かった……。怖かったよお……。わ、私……」
「もう大丈夫だから」
「うちに帰りたい。もう、帰りたい……」
「ああ、わかった。一緒に返ろう」
繰り返し優しく背を撫でられながら、赤ん坊のように泣きじゃっていたからだろうか。真琴は立ち込める煙の壁の向こうに、何者かが佇んでいるのに気付かなかった。
気付いたのは地獄の底の魔物を思わせる、怨念に満ちた声が耳に届いたからだ。
「どこのどいつの仕業かと思っていたら、悪い虫が一匹入ってきたようだな」
煙に覆われ曖昧だった人影が、一歩、また一歩とこちらに近付いて来るにつれ、徐々にはっきりと輪郭を取って行く。
真琴はその姿に慄然とした。
「せ、先生……」
唇の端に笑みを浮かべすらした男が、猟銃を手に薫を見つめている。琥珀色を帯びた瞳には憎悪ではなく、迷いのない殺意だけがあった。
銃身は煙と薄闇に視界を閉ざされていてすら、氷輪にも似た研ぎ澄まされた光を放っている。命を一瞬で切り裂く非情な光だった。
だが、薫に臆した様子はまったくない。真琴を守るかのように立ち塞がる。
「あなたは自分が何をしでかしているのか、理解されてそうした行動を取っているのですか?」
低く艶のある声が優雅に応じた。
「ああ、もちろん。私はこの家の血を引いているからね。貴様が我が子だろうと真琴を奪う男は敵でしかない」
カチリと引き金を低く音が背筋をぞっとさせる。
「薫、薫っ……!」
次の瞬間、真琴はなんの迷いもなく薫の前に飛び出していた。薫は自分が守らなければならないのだと、それだけしか考えられなかった。
「真琴……!?」
人一人を壊すにはあまりに乾いた、呆気なくも残酷な音だった。直後に腹部に受けた衝撃に、呼吸と言葉を失い、その場にくずおれる。激痛にもう体を起こすことすらできない。
「真琴ぉっ……!!」
遠くでこの世で誰よりも大切な義弟の声が聞こえる。
(ああ、よかった……)
薫が無事だったのだと安堵し、それだけで十分だと思えた。
喉に鉄の味のする何かが詰まり声が出ない。
「真琴、真琴……!!」
今はただ笑い合えたあの頃に、あの家に帰りたかった。
どうにか目を開いて問い掛ける。
「……ねえ、薫、夜ご飯、何が、いい?」
(エビチリも唐揚げと同じくらい好きだったよね。今夜奮発してたくさん作っちゃうよ)
その思いは言葉として紡がれる前に宙に消えた。
ところが、心身を現世に繋ぎ止めようとするかのように、力強い手がか細い腕をシーツに押さえ付ける。
「真琴、君も優しい女だ。……情の深い女だ。きっとあの坊やを見捨てられず、関係を持つしかなかったのだろう? ずっと育ててきた子どもを男として意識するのは、君のような女には難しかったはずだ」
「……」
「なら、私との子も見捨てることはない」
今後は孕むまでは薬も飲ませず正気に戻し、避妊もしないと艶のある低い声が耳元に囁いた。
「代わりに君と子どもにはこの家のすべてをやろう。ともに呪われた人生を歩もうじゃないか」
衣擦れの音とともに薄闇で冷えた空気と、それとは対照的な熱い骨張った手が肌に触れる。
ところが、着物を脱がされかけたところで、どこからか焦げ臭い匂いが鼻に届いた。
「なんだ、この匂いは」
ふと体から男の重みが消えたかと思うと、直後に老いた女の狼狽した叫び声と、ドアが激しく叩かれる音が室内に響き渡る。
「旦那様……!」
間もなく開け放たれたのと同時に、もうもうと薄灰色の煙も入り込んで来た。
「旦那様、大変です。煙があちこちに」
「火事か?」
「わかりません。警報機は鳴ったんですが、火元がわからなくて……」
「今確かめに行く」
二人の慌ただしい足音が消えたあとは、あるかなきかのみずからの呼吸だけになり、命が消えかけていることを感じるからか、ただ音のない世界よりもずっと静かに思えた。
真琴にとって死はもはや願いであり、喜びであり、希望ですらあった。
だから、再びドアが今度は音もなく開けられ、長身の人影が声を潜めて現れた時には、またあの世へ行くのを邪魔されるのかと煩わしかったのだ。
そう、聞き慣れた声が自分の名前を呼ぶまではーー
「……真琴、真琴だな!?」
低く掠れた声だった。
「こんなところに……」
誰かが駆け寄り近くに跪く気配がする。脈拍と呼吸を確認され軽く頬を叩かれた。
「真琴、自分の名前が言えるか。俺が誰だかわかるか?」
(私の、名前……?)
名前とはなんだろうと目を瞬かせる。
「……クソッ」
人影は悔しそうに低く呻いたものの、すぐに気を取り直したらしく、すっかり痩せた右足首をそっと手に取り、足枷の鍵穴を確認しているようだった。
「単純な形式だからすぐに外れる。もう大丈夫だから安心しろ」
鉄とまた別の硬いものが擦れ合う、カチャカチャとした音がしばらくしたかと思うと、不意に右足首から足枷の冷たさが取り払われた。
「さっき救急車と消防車を呼んだ。すぐに病院に連れて行くから落ち着いて……」
広い胸に抱きかかえられ、目を覗き込まれて息を呑んだ。愛する者を失う恐れの宿る黒い瞳だった。
意識がたちまち色鮮やかさを取り戻す。
「か、おる……?」
そうだ、なぜこの瞳を忘れてしまっていたのかと、震える手を伸ばして鋭い線を描いた頬に触れる。
(……薫だけは忘れちゃいけなかったのに)
「薫……薫なんだね?」
薫は背に手を回して「ああ、そうだ」と溜め息を吐いた。続いて体が潰れてしまうかと思うほどかたく抱き締められる。
だが、苦しいとはまったく感じなかった。縋り付いてただ嗚咽して涙を流す。
「こ、怖かった……。怖かったよお……。わ、私……」
「もう大丈夫だから」
「うちに帰りたい。もう、帰りたい……」
「ああ、わかった。一緒に返ろう」
繰り返し優しく背を撫でられながら、赤ん坊のように泣きじゃっていたからだろうか。真琴は立ち込める煙の壁の向こうに、何者かが佇んでいるのに気付かなかった。
気付いたのは地獄の底の魔物を思わせる、怨念に満ちた声が耳に届いたからだ。
「どこのどいつの仕業かと思っていたら、悪い虫が一匹入ってきたようだな」
煙に覆われ曖昧だった人影が、一歩、また一歩とこちらに近付いて来るにつれ、徐々にはっきりと輪郭を取って行く。
真琴はその姿に慄然とした。
「せ、先生……」
唇の端に笑みを浮かべすらした男が、猟銃を手に薫を見つめている。琥珀色を帯びた瞳には憎悪ではなく、迷いのない殺意だけがあった。
銃身は煙と薄闇に視界を閉ざされていてすら、氷輪にも似た研ぎ澄まされた光を放っている。命を一瞬で切り裂く非情な光だった。
だが、薫に臆した様子はまったくない。真琴を守るかのように立ち塞がる。
「あなたは自分が何をしでかしているのか、理解されてそうした行動を取っているのですか?」
低く艶のある声が優雅に応じた。
「ああ、もちろん。私はこの家の血を引いているからね。貴様が我が子だろうと真琴を奪う男は敵でしかない」
カチリと引き金を低く音が背筋をぞっとさせる。
「薫、薫っ……!」
次の瞬間、真琴はなんの迷いもなく薫の前に飛び出していた。薫は自分が守らなければならないのだと、それだけしか考えられなかった。
「真琴……!?」
人一人を壊すにはあまりに乾いた、呆気なくも残酷な音だった。直後に腹部に受けた衝撃に、呼吸と言葉を失い、その場にくずおれる。激痛にもう体を起こすことすらできない。
「真琴ぉっ……!!」
遠くでこの世で誰よりも大切な義弟の声が聞こえる。
(ああ、よかった……)
薫が無事だったのだと安堵し、それだけで十分だと思えた。
喉に鉄の味のする何かが詰まり声が出ない。
「真琴、真琴……!!」
今はただ笑い合えたあの頃に、あの家に帰りたかった。
どうにか目を開いて問い掛ける。
「……ねえ、薫、夜ご飯、何が、いい?」
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