上 下
32 / 47

君だけしかいらない(1)

しおりを挟む
――真琴が姿を消して二日が経った。

 先日、帰宅して「ただいま」と声を掛けたのに返事がなく、部屋の明かりは消されたままで暗く、真琴の体温がどこにも感じられずに目を瞬せた。

 いつもなら作り立ての味噌汁の香りとともに、「お帰り。すぐにご飯がいい?」と迎えに出てくれるのに。

 LINEのメッセージも「夕飯生姜焼きでもいい?」が最後で、以降はどれだけ待っても返信はなく、電話を掛けてもまったく出ない。

 がらんとした部屋に生まれて初めて恐怖を覚えた。

 その日薫は休日を利用し、真琴の知人友人に片端から電話を掛け、真琴がそちらに行っていないか、来たらすぐに連絡をくれと頭を下げた。もちろん、真琴の元恋人である直樹にもだ。

 直樹はツーコール目で電話を取り、薫なのだと知るなり、「なんでお前が俺に電話!?」と仰天していた。真琴が二日前から帰宅していない事情を説明すると、「そりゃあいつらしくないな」と唸り、「了解。そうなったらすぐに連絡するから」と力強く約束してくれた。

「でもな、真琴が俺のところに来るとは思えないんだよ。前も婚約者に悪いからって連絡取り合うのも断られたし、俺もこれ以上未練がましい真似はなあってなって……って、ちょっと待て。なんで真琴がそっちにいるわけ? と言うか、お前について行ったってどういうこと?」

 真琴の婚約者は自分だと打ち明けると、直樹はしばし絶句し、

「え、え、え、お茶の間にそんなことに!? 嘘だろおおおぉぉぉ!?」

、と騒ぎ出したので話を打ち切り、連絡の念押しをして電話を切った。

 ダイニングのテーブル席に腰掛け、手を組んで深く重い溜め息を吐く。
 
 自由など欠片も与えるべきではなかったと、後悔が津波となって押し寄せて来た。閉じ込めておけばこのようなことにはならなかったのだ。

 だが、卒業式のあの夜以来、真琴が次第に真琴らしくなくなり、影すら薄くなってきたので、危機感を覚えて最大限の譲歩をしたのである。

 とはいえ、真琴が家出をしたとは思えなかった。やっと、ようやくすべてを受け入れてくれたばかりなのだ。一度選んだ道から逃げる人ではないと、長年に渡る付き合いからよくわかっていた。

 つまり、出先でなんらかの事故に遭ったか、事件に巻き込まれたものと考えられる。真琴ほどの美しい女なら有り得る話だった。

 今頃どのような目に遭っているのかと想像するだけで、胸を掻きむしり世界を破壊したくなる衝動に駆られる。

(……冷静になれ)

 眼鏡を掛け直しておのれに言い聞かせる。

 落ち着かなければ何もできない。あらゆる可能性を考え、あらゆる手段を取らなければならなかった。

 真琴のスマートフォンにはGPSを仕込んでいたのだが、電源が切れたのか切ったのか、結局現在の居場所はわからなかった。もともと真琴はガジェットに疎く、スマートフォンすらあまり使わないので、大して期待してはいなかったのだが――

 警察にも相談したものの、失踪二日目では説得力がなかったのか、「もう少し待ってみてはいかがですか」と宥められた。大方恋人同士の痴話喧嘩の果てに、女が出て行ったと捉えられていたのだろう。

 埒が明かないので司法修習生だと名乗り、更に親しい検察官の名前を出して、ようやく行方不明者届を受け付けさせた。だが、あの様子では一般家出人と見なされ、ろくな捜索はされないだろうと推察できる。

 何か手がかりはないかと家探しをしたが、真琴の持ち物は大して高くも多くもない服と化粧品、十冊程度の読み込まれた文庫本だけだった。女性が好みそうなアクセサリーやブランド品は一つもない。薬指の婚約指輪のみなのだろう。

 そうだ。真琴はこういう人だったと、薫は唇を血が滲むほど噛み締めた。

 昔から何も欲しがろうとはしない。すべてを真っ先に義弟の自分に与えてしまい、それが私の幸せなのだというように柔かく笑う。

 だから、真琴自身も当然自分のものだと思っていたのかもしれなかった。

 なのに、「彼氏ができた」と照れ臭そうに聞かされた時の、衝撃と焦燥、燃え上がるような怒りを、今でもよく覚えている。



 あれは五年前のことだった。

 夕飯の途中で話があるのと切り出されたのだ。初めて目にする幸福そうな微笑みを前にすると、「そうか。よかったな」としか言えなかった。

 なんでも友人の代理で参加した合コンで出会ったのだという。そのところやけに機嫌がよかったのは、恋人ができたからだったのだ。

「あ~、やっぱり紅鮭って美味しい。奮発してよかった~。薫、ご飯お代わりいる?」

「……まだいいよ」

「そう? 欲しくなったら言ってね」

 真琴は好物の鮭のムニエルに舌鼓を打ちながら、無邪気で残酷な質問を投げ掛けて来た。

「薫は好きな子はいないの? 彼女ができたら家に連れて来てよね。私、楽しみにしているんだから。思う存分青春しなくちゃ」

「……恋愛ははまだいい。やることがたくさんあるから」

「学生のうちに相手を見付けておかないと、社会人になったら難しくなるって聞いたよ? 私はたまたまいい人がいたけど……。将来結婚したいんだったら今のうちに動かないと。可愛い子はすぐに売れちゃうよ」

 結婚と耳にしてまた衝撃を受ける。真琴の年齢であればその男と結婚となっても不思議ではない。激情と化した嫉妬心で体が焼け焦げてしまいそうだった。

 自分は家族だとしか認識されていないのだとは、もうとっくに嫌というほどよく理解していた。そうでもなければ若い男と一つ屋根の下で暮らせるはずがない。

 どれだけ女に言い寄られようと、真琴が手に入らないのなら意味はない。なのに、皮肉なことに真琴の心だけは得られない。

 その時、おのれの中に昏く燃える炎を感じながら決意した。

――なら、心などはいらない。愛し合えなくてもいい。追い詰めて、自分を選ぶ以外の道を閉ざしてしまえ。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない

斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。 襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……! この人本当に旦那さま? って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!

彼氏に別れを告げたらヤンデレ化した

Fio
恋愛
彼女が彼氏に別れを切り出すことでヤンデレ・メンヘラ化する短編ストーリー。様々な組み合わせで書いていく予定です。良ければ感想、お気に入り登録お願いします。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

×一夜の過ち→◎毎晩大正解!

名乃坂
恋愛
一夜の過ちを犯した相手が不幸にもたまたまヤンデレストーカー男だったヒロインのお話です。

処理中です...