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月は人を狂わせる(1)

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 日中であるのにもかかわらず、片側を食われたように欠けた月が、南の空にぽつんと浮かんでいる。

 夜の闇ではあれだけ眩く輝く星が、青い空ではぼんやりと白く幽霊を思わせ、真琴にはまったく違う天体に見えた。

 冬馬との待ち合わせ場所は、繁華街外れにある喫茶店で、レンガの壁と灰緑の軒が特徴的な、地元でも知る人ぞ知る老舗だった。

 年月に磨かれたドアを開けると、カランカランとどこか懐かしいベルの音が鳴った。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「あとからもう一人来るので二人です」

 まだ約束の時間の十五分も前であり、冬馬は来ていないだろうと踏んでいたのだが、どこからか「真琴さん」と名前を呼ばれて驚いた。ところが、カウンター席にもテーブル席にもそれらしき姿はない。

「こちらですよ」

 手を掲げられてようやく気付いた。窓際のテーブル席に腰掛けている。

「高柳先生、お久しぶりです。びっくりしました。今日はスーツなんですね」

 そう、冬馬はいつもの和服ではなく、仕立ての良いスーツを身に纏っていた。ダークグレーストライプのスリーピースで、長身痩躯の体格によく似合っている。 

 手首に巻かれた趣味の良い時計は、以前雑誌の特集で見たことがある。スイス製で最低数百万円はするはずだった。

(あんなに高そうなのつけて、落としたらどうしようとか思わないのかな。……思わないんだろうな)

 その辺りが富裕層と庶民との格差なのだろう。

 店員に断り向かいの席に腰掛け、あらためて目の前の冬馬を見る。洋服も着こなせるのだと感心した。

 冬馬が手元のメニューに目を落とす。

「私も今しがた来たところなんですよ。注文は何がよろしいですか?」

「あっ、じゃあ、あるなら温かいカフェラテをお願いします」

「なら、私はホットのブレンドで」

 店員を呼び二人分の注文を済ませると、水を飲みつつ唇の端に笑みを浮かべた。

「今日は父の会社に用がありまして、それでこんな格好なんです。着慣れないのでどうも収まりが悪い」

「そんなことないですよ。とってもよく似合っています」

 父の会社とは高柳産業を意味するのだろう。

 それにしても、収まりが悪いどころか大した男振りだ。

 成熟しつつある男の自信と落ち着き。それらとは裏腹の人生が半ばにまで来たことへの、悟りにも似た諦観が一体となり、影のある色気となって冬馬を際立たせていた。

 だが、何よりも真琴の目を引いたのは、そうした大人の男性の魅力ではなかった。

(薫に……似ている)

 和服ではわかり辛かったが、冬馬と薫には容姿の相似があった。

 まず、顔立ちである。横顔がそっくりなのだ。薫は義母の月子の男版だと思っていたが、確かに高柳家の血も引いているのだと実感した。

 また、しっかりとした肩や胸の厚み、節張った長い指も酷似している。同じ形の手に何度も抱かれたはずなのに、今までなぜわからなかったのかと不思議だった。

 冬馬は隣の椅子に置いたビジネスケースに手を入れ、「まずこちらを」と先月撮った写真をテーブルの上に置いた。

「データとは別に現像させていただきました」

「あっ、ありがとうございます」

 今日は写真のデータを受け取る名目で、冬馬に時間を取ってもらっている。

 このあとどう話を切り出すべきかと思案しつつ、何気なく写真の一枚を手に取り、淡藤色の着物姿の自分に目を瞬かせた。

 カメラのデータの段階では見えなかったものが、手に取れる形になるとくっきりと映し出されていた。

(……これが私なの?)

 そこにはなよやかな美しい女がおり、別人だとしか思えなかった。

 目線は曖昧で意志が感じられず、哀れにも泡となって消える直前の、人魚を想起させる弱々しさである。

(これって、誰かに似て……)

 そう、薫のパソコンで見た二枚の写真のうちの一枚の、若かりし頃の月子とよく似ているのだ。血の繋がりはないはずなのに――

 背筋にぞっと悪寒が走る。

(こんなの私じゃない。だって私はもっと……)

「真琴さん、どうなさいましたか?」

 冬馬に声を掛けられて我に返った。愛想笑いを作って軽く頭を下げる。

「ああ、すいません。綺麗に撮っていただいてありがとうございます」

「気に入っていただけたようならよかった。こちらはデータになります」

 落とさないよう気を遣ってくれたのだろう。USBメモリを専用のケースに入れて手渡してくれた。

「顔色が悪いですが、大丈夫ですか」

「はい。いつもこうなんです。気にしないでください」

 ケースをバッグに入れてすぐに、店員がカップの二つ載った盆を手に現れる。

「ここのコーヒーは絶品なんです。カフェラテも美味しいと思いますよ」

 冬馬はカップを手に取りコーヒーを一口飲んだ。

 真琴ものろのろと自分の分を持ち上げる。

 冬馬は琥珀色を帯びた瞳でその様子を見守っていたが、やがて、どこか暗さのある眼差しを窓の外に浮かぶ月へと向けた。

 竹取物語でかぐや姫を失った帝も、このような目をしていたのかとふと思う。

 冬馬は一体誰を心に秘めているのだろうか。

 やがて、残り一口のコーヒーが冷めた頃になると、こちらを向いてテーブルの上に手を組み、

「ところで真琴さん、このあとお時間はありますか。最近いいレストランができまして、よろしければ食事をと考えているのですが。男一人で行くにはどうも侘びしく……」

、と苦笑しつつ誘ってきた。

「あっ、申し訳ありません。夕飯は家で取ることになっていて……」

 冬馬の行き付けのレストランということは、恐らく目の飛び出る高級店なのだろう。カジュアルなカーディガンにスカートで行けるわけがない。

 それ以上にさすがに男性との外食は躊躇われるし、薫のリクエストでパエリアを作ることになっているのだ。魚介を市場で調達しなければならなかった。

「そうですか……。場所を変えたかったのですが、なら仕方がない」

 冬馬は逸していた目を真っ直ぐに真琴に向けた。熱の籠もった真剣そのものの目だった。いつか薫が見せたものと同じ目だった。

「……真琴さん、単刀直入に申し上げましょう。私と結婚していただけませんか」
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