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君は誰よりも美しい(3)
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この街に来るまでの人生が走馬灯となって脳裏をぐるぐる回る。
しかし、名案はまったく思い浮かばずに焦った。なにせ目の前にいるのは高柳家の現当主である。一分後、ようやく口から捻り出せたのが、「……。誰でも初恋は忘れられませんよね」、などという間の抜けた意見と引き攣った笑みだった。
それだけに、冬馬の次の台詞にはがっくりと力が抜けた。
「、なんて内容の小説を今度書こうと思うんですけど、女性からすればどういった印象でしょうか?」
「えっ!?」
「おや? 本気にされましたか?」
「……」
真琴も薫を抱えて世間の荒波を渡ってきただけあり、元々は気が弱い方だとは言えなかった。もっとも、そうした自信も薫に打ち砕かれてしまい、この一年でがらりと人が変わり、すっかり臆病になってしまったのだが――それでも、冬馬の冗談にはさすがに腹が立った。
(もうびっくりした。本気にしちゃったじゃない)
作家の仕事とはロマンチックでもっともらしく、騙されて気持ちのいい嘘を吐くことだと聞いたことがある。しかし、先ほどの語りには妙なリアリティがあったので慌ててしまった。
冬馬にとってはそれができる才能は福音なのだろうが、真贋を判断しにくい悪い冗談はやめてほしかった。
とはいえ、さすがに怒りを顔に出すわけにはいかず、愛想笑いを浮かべて「そうですね」と相槌を打つ。
「つまり、そのヒロインは父親の愛人なのに、息子二人からも熱愛されているってことですか。すごくモテる人なんですね」
「そう、すごくモテるんです。それゆえ、人間性と肉体を蹂躙されてしまう。魅力的な女性は必ずしも幸福になれるわけではない。その美しさが仇となって男の手で不幸にされることもある」
冬馬はくすくすと笑いながら、
「結末はまだ決めていないんです」
、と語った。
「真琴さん、あなたならどう終わらせますか?」
父と息子たちが一人の女性を巡る物語―ー正直、子ども向けのほのぼのとした展開の児童書や、女性作家による軽く甘い恋愛小説を読む真琴の好みではない。どこか淫靡で退廃的で籠もった香りが漂い、読む者を阿片の煙のように惑わそうとする気配がある。
だが、一つだけ断言できることがあった。
「やはり、誰か一人と結ばれて、めでたし、めでたしがよろしいですか」
冬馬の問いにゆっくりと首を振る。
「……必ずしも誰かと結ばれる必要はないと思います」
「ほう?」
真琴の答えが意外だったのか、琥珀色を帯びた瞳に驚きが映し出された。
「……ヒロインにとって大切なことは、自分で人生を選べることだと思います。本人がちゃんと納得して出した結論なら、他人からは不幸に見えても孤独に見えても、それでいいんだと思います」
そして、薫と生きて行くために、自分もそうありたいと願った。
冬馬は真琴を何も言わずに見つめていたが、やがて、
「なるほど。そうした結末も面白いですね」
、と微笑んだ。
「古い時代の男の性なのでしょうか。どうにも運命に翻弄されて涙を流し、男に縋り付く女性を描きたくなりますが、そうしたしなやかさのある女性も素晴らしい」
素人なのに可愛くはない意見だと自覚していたので、好意的な評価をされて胸を撫で下ろした。
同時に、腕時計に何気なく目を落としてはっとする。緑の多さや菊乃の人柄にすっかりリラックスしていたのか、気が付くと一時間以上が過ぎていたのだ。
(いけない。早く帰らないと)
あたふたとバッグを手に取り、「そろそろお暇しないと」と立ち上がる。
「しかし、まだ菊乃さんが……」
直後に、縁側に喜びを隠そうともしない、菊乃の明るく元気な声が響き渡った。小脇には分厚い単行本を一冊抱えている。
「真琴さん、お待たせ! ほらほら、受賞作の初版本よ~! あら? もう帰るのかしら?」
「はい。彼が心配するので……」
「じゃあ仕方ないわねえ。あっ、ちょっとだけ待って! 紙袋持ってくるから。そんな小さなバッグじゃ入らないでしょ」
再び奥に引っ込んだ菊乃のあとを冬馬が追った。間もなく廊下から二人のやり取りが聞こえて来る。
「菊乃さん、油性ペンはありますか? せっかくなのでサインをしようと……」
「それはいいわねえ。取ってくるから、本を持っていてくださるかしら?」
それから約五分後、ようやく和菓子屋の紙袋に入れられた本を受け取った。入れられていた銘菓の名残なのか、ほんのりとシナモンの香りが漂ってくる。
二人に玄関まで見送られ、恐縮して何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。お茶とお菓子だけではなく、こんな立派な本まで……」
「いいのよ、冬馬さんも私もとっても楽しかったから。ねえ、冬馬さん?」
冬馬は「ええ、そうですね」と同意し、真琴を瞬きもせずに見下ろした。
「……真琴さん、またここに来ることはありますか? ぜひもう一度お話したいのですが」
「それは……すいません。多分無理かと」
万が一男性と会っていたと知られれば、やましいことは何もないと訴えたところで、薫は怒るどころではないだろう。
誘いは社交辞令でしかなかったらしく、冬馬は「それは残念ですね」と、大して残念でもなさそうに笑った。
「どうぞ気を付けて帰ってください。では、また」
真琴は途中で何度か振り返り、二人に手を振って別れを告げた。
菊乃も冬馬もなんだかんだで人がよく、長く話していても飽きなかった。せっかくできた縁だったが、仕方がないのだと割り切る。
その後、スーパーに夕飯の買い物に行き、マンションに戻って支度と入浴を終えると、ダイニングで紙袋からもらった本を取り出した。
「えっ……」
テーブルに置いたその本の帯を見て、一際目立つコピーに絶句する。
『肖像賞受賞作! 幕末の仏師の生涯を描いた傑作』
、とあったからだ。
(思い出した……!)
独楽井快――デビュー作で純文学の新人賞の一つ、肖像賞を受賞し、その後も名作と評価される作品を何作か発表している。プロフィールは金沢出身、T大文学部卒以外は不明。
作家としてのキャリアの割に作品数が少ないのは、売れないからではなく、書かないからだと言われている。本人が納得した出来栄えでないと、出版したがらない完璧主義者なのだとか。
アガサ・クリスティのように世間に公表した写真は一枚きりで、それも影が入っていて顔立ちがはっきりとはわからず、他にはメディアに一切姿を現さないことでも有名だった。
(あんな家の人じゃ顔出しもしにくいよね……。ルックスでも売れそうなのに)
サインをもらったことを思い出し、表紙をめくって裏側を覗き込む。次の瞬間、狭間から何枚もの紙片が滑り落ち、足元のフロアにぱっと広がった。
すぐさまそれらの正体を確認して目を見開く。
(……お金!?)
合計十枚もの一万円札だった。
(どうして……)
この本は新品ではなく貰い物だ。菊乃が密かにへそくりを挟んでおき、そのまま忘れていたのかもしれない。
(大変……今度返しに行かなきゃ)
あとから在り処を思い出していた場合、窃盗の疑いをかけられては厄介だった。
しかし、名案はまったく思い浮かばずに焦った。なにせ目の前にいるのは高柳家の現当主である。一分後、ようやく口から捻り出せたのが、「……。誰でも初恋は忘れられませんよね」、などという間の抜けた意見と引き攣った笑みだった。
それだけに、冬馬の次の台詞にはがっくりと力が抜けた。
「、なんて内容の小説を今度書こうと思うんですけど、女性からすればどういった印象でしょうか?」
「えっ!?」
「おや? 本気にされましたか?」
「……」
真琴も薫を抱えて世間の荒波を渡ってきただけあり、元々は気が弱い方だとは言えなかった。もっとも、そうした自信も薫に打ち砕かれてしまい、この一年でがらりと人が変わり、すっかり臆病になってしまったのだが――それでも、冬馬の冗談にはさすがに腹が立った。
(もうびっくりした。本気にしちゃったじゃない)
作家の仕事とはロマンチックでもっともらしく、騙されて気持ちのいい嘘を吐くことだと聞いたことがある。しかし、先ほどの語りには妙なリアリティがあったので慌ててしまった。
冬馬にとってはそれができる才能は福音なのだろうが、真贋を判断しにくい悪い冗談はやめてほしかった。
とはいえ、さすがに怒りを顔に出すわけにはいかず、愛想笑いを浮かべて「そうですね」と相槌を打つ。
「つまり、そのヒロインは父親の愛人なのに、息子二人からも熱愛されているってことですか。すごくモテる人なんですね」
「そう、すごくモテるんです。それゆえ、人間性と肉体を蹂躙されてしまう。魅力的な女性は必ずしも幸福になれるわけではない。その美しさが仇となって男の手で不幸にされることもある」
冬馬はくすくすと笑いながら、
「結末はまだ決めていないんです」
、と語った。
「真琴さん、あなたならどう終わらせますか?」
父と息子たちが一人の女性を巡る物語―ー正直、子ども向けのほのぼのとした展開の児童書や、女性作家による軽く甘い恋愛小説を読む真琴の好みではない。どこか淫靡で退廃的で籠もった香りが漂い、読む者を阿片の煙のように惑わそうとする気配がある。
だが、一つだけ断言できることがあった。
「やはり、誰か一人と結ばれて、めでたし、めでたしがよろしいですか」
冬馬の問いにゆっくりと首を振る。
「……必ずしも誰かと結ばれる必要はないと思います」
「ほう?」
真琴の答えが意外だったのか、琥珀色を帯びた瞳に驚きが映し出された。
「……ヒロインにとって大切なことは、自分で人生を選べることだと思います。本人がちゃんと納得して出した結論なら、他人からは不幸に見えても孤独に見えても、それでいいんだと思います」
そして、薫と生きて行くために、自分もそうありたいと願った。
冬馬は真琴を何も言わずに見つめていたが、やがて、
「なるほど。そうした結末も面白いですね」
、と微笑んだ。
「古い時代の男の性なのでしょうか。どうにも運命に翻弄されて涙を流し、男に縋り付く女性を描きたくなりますが、そうしたしなやかさのある女性も素晴らしい」
素人なのに可愛くはない意見だと自覚していたので、好意的な評価をされて胸を撫で下ろした。
同時に、腕時計に何気なく目を落としてはっとする。緑の多さや菊乃の人柄にすっかりリラックスしていたのか、気が付くと一時間以上が過ぎていたのだ。
(いけない。早く帰らないと)
あたふたとバッグを手に取り、「そろそろお暇しないと」と立ち上がる。
「しかし、まだ菊乃さんが……」
直後に、縁側に喜びを隠そうともしない、菊乃の明るく元気な声が響き渡った。小脇には分厚い単行本を一冊抱えている。
「真琴さん、お待たせ! ほらほら、受賞作の初版本よ~! あら? もう帰るのかしら?」
「はい。彼が心配するので……」
「じゃあ仕方ないわねえ。あっ、ちょっとだけ待って! 紙袋持ってくるから。そんな小さなバッグじゃ入らないでしょ」
再び奥に引っ込んだ菊乃のあとを冬馬が追った。間もなく廊下から二人のやり取りが聞こえて来る。
「菊乃さん、油性ペンはありますか? せっかくなのでサインをしようと……」
「それはいいわねえ。取ってくるから、本を持っていてくださるかしら?」
それから約五分後、ようやく和菓子屋の紙袋に入れられた本を受け取った。入れられていた銘菓の名残なのか、ほんのりとシナモンの香りが漂ってくる。
二人に玄関まで見送られ、恐縮して何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。お茶とお菓子だけではなく、こんな立派な本まで……」
「いいのよ、冬馬さんも私もとっても楽しかったから。ねえ、冬馬さん?」
冬馬は「ええ、そうですね」と同意し、真琴を瞬きもせずに見下ろした。
「……真琴さん、またここに来ることはありますか? ぜひもう一度お話したいのですが」
「それは……すいません。多分無理かと」
万が一男性と会っていたと知られれば、やましいことは何もないと訴えたところで、薫は怒るどころではないだろう。
誘いは社交辞令でしかなかったらしく、冬馬は「それは残念ですね」と、大して残念でもなさそうに笑った。
「どうぞ気を付けて帰ってください。では、また」
真琴は途中で何度か振り返り、二人に手を振って別れを告げた。
菊乃も冬馬もなんだかんだで人がよく、長く話していても飽きなかった。せっかくできた縁だったが、仕方がないのだと割り切る。
その後、スーパーに夕飯の買い物に行き、マンションに戻って支度と入浴を終えると、ダイニングで紙袋からもらった本を取り出した。
「えっ……」
テーブルに置いたその本の帯を見て、一際目立つコピーに絶句する。
『肖像賞受賞作! 幕末の仏師の生涯を描いた傑作』
、とあったからだ。
(思い出した……!)
独楽井快――デビュー作で純文学の新人賞の一つ、肖像賞を受賞し、その後も名作と評価される作品を何作か発表している。プロフィールは金沢出身、T大文学部卒以外は不明。
作家としてのキャリアの割に作品数が少ないのは、売れないからではなく、書かないからだと言われている。本人が納得した出来栄えでないと、出版したがらない完璧主義者なのだとか。
アガサ・クリスティのように世間に公表した写真は一枚きりで、それも影が入っていて顔立ちがはっきりとはわからず、他にはメディアに一切姿を現さないことでも有名だった。
(あんな家の人じゃ顔出しもしにくいよね……。ルックスでも売れそうなのに)
サインをもらったことを思い出し、表紙をめくって裏側を覗き込む。次の瞬間、狭間から何枚もの紙片が滑り落ち、足元のフロアにぱっと広がった。
すぐさまそれらの正体を確認して目を見開く。
(……お金!?)
合計十枚もの一万円札だった。
(どうして……)
この本は新品ではなく貰い物だ。菊乃が密かにへそくりを挟んでおき、そのまま忘れていたのかもしれない。
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