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そうだ、結婚しよう(8)
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――それから七ヶ月後のある秋の日。
真琴は直属の上司の課長にアポイントを取り、半期決算の業務をようやく終えた後で、勤め先の最寄り駅の構内にあるカフェで落ち合った。
ニューヨークをイメージしたそのカフェは、天井が高く内装はオフホワイトが基調となっており、開放感があるからか客入りがいい。軽食を取りつつノートパソコンを叩くサラリーマンや、新商品を試しにきた初々しい学生カップル、友人連れの女子大生らで賑わっている。
コーヒーの香ばしい香りを嗅ぎながら、誰もが笑い、楽しそうにお喋りをする中で、真琴の表情だけが暗く曇っていた。課長は身内の不幸があったとでも思ったのだろうか。
「狩野さん、用事ってなんだい? 忌引き休暇を取りたいとか?」
「いいえ、違います」と首を横に振って否定する。だが、心境としては限りなくそれに近かった。
「実は、来年までに退職したいんです。急なお話で申し訳ないんですが……」
退職の単語には課長も大層驚いたらしい。カップを持った手が動揺に一瞬揺れた。
この課長とは五年近くの付き合いがあるのだが、落ち着いた頼り甲斐のある男性であり、真琴がそうした顔を目にしたのは初めてだった。
「……本当に急だね。何があったんだい? まさか、結婚とか?」
「はい、そんなものです……」
諦めを含んだ声でそう答える。
「彼が来年仕事の都合で東京を離れるので、ついて行くことになったんです。実は三ヶ月前に婚約しまして……」
課長は平常心を取り戻すためだろうか。ブラックコーヒーを一口飲んでテーブルに置くと、頼んだカフェラテの水面に目を落とす真琴を眺めた。
「……結婚するにしては嬉しそうに見えないと言ったら怒られるかな」
「申し訳ございません。いわゆるマリッジブルーで……」
真琴は心のうちを見透かされたことに慌て、精神力を総動員して笑顔を作った。
「……結婚式はこっちでやるの?」
「いいえ。式は挙げないんです……」
「……そっか。じゃあ、狩野さんの花嫁姿は見られないんだな。残念だ」
課長は「わかったよ」と微笑んで、目を逸らして溜め息を吐いた。
「……狩野さんは彼氏がいないと思っていたんだけどな」
「ずっと内緒で付き合っていた人なんです。人にあれこれ聞かれるのが嫌で……」
まさか、相手が義弟なのだとは打ち明けられなかった。自分たちの婚約を知るのは、婚姻届けの保証人となる、薫の恩師である大学の教授と、在学中に世話になったというOBだけだ。
大学の卒業式の保護者席で涙を拭っていたあの日には、予想すらしていなかった現在の状況に、また、薫の狂気すら感じさせる束縛と溺愛に、真琴は疲れ果て、もはや抵抗する気力すらなくなっていた。だから、課長の突然の告白にうまく対応できなかった。
「……あのね、もうこんなこと言っても仕方ないんだけど、僕、先月離婚したんだよ」
「えっ……」
「……別れた妻とはずっとうまく行ってなくてね。去年から話し合ってきたんだけど、やっと別々の人生を歩もうということになったんだ」
、と言われても「そうだったんですか」としか答えようがない。意図が把握できずに戸惑う真琴に苦笑しながら、課長は「おめでたい話に水を差してごめん」と謝った。
「……つくづくタイミングが悪かったな。こんなことならセクハラになるからとか、君にもあいつにも不誠実だからとか気にせず、さっさと好きなんだって言っておけばよかった。恋愛は真面目にやり過ぎると損をするね」
信頼していた上司から好意を抱いていたと告げられても、真琴が心を乱されることはまったくなかった。今年の三月にそれ以上の驚愕をすでに経験していたのだから。返事は「お気持ちありがとうございます。課長もいい人が見つかるといいですね」と、大人として当たり障りのないものに留めておいた。
電車を乗り継ぎ、慣れ親しんだ一軒家に帰宅した真琴は、ドアを開けようとしたものの、一瞬躊躇してノブを離した。薫が待っているのだと思うと怖くなったからだ。それでも、帰らないという選択肢は許されない。
「ただいま……」
すぐに薫がダイニングキッチンからひょいと顔を出し、「お帰り。ちょっと遅かったな」と笑って出迎えてくれた。
「ごめん。今日課長に退職の相談をしてきて……」
「課長って中谷さんって人だったか?」
「うん、そう。よく覚えているね」
数年前、職場の飲み会が長引き、課長と揃って終電を逃したことがあった。自宅の方向が同じだったこともあって、どうせならとタクシーをシェアしたのだ。玄関前で手渡そうとした運賃の半額は、結局受け取ってもらえなかったはずだ。その際車が停まる音を聞き付けて、外に迎えに出て来た薫が、「義姉がいつもお世話になっております」と挨拶をしていた。
あとから「美男美女きょうだいだな。でも、あんまり似ていないな」、などとからかわれた記憶がある。血は繋がっていないと説明しなくて正解だったと、今となっては胸を撫で下ろすしかない。課長は勘がいい方なので気付かれていたかもしれない。
薫との婚約は何も隠すことはないとはわかっている。だが、できれば顔見知りには悟られたくはなかった。
真琴は薫とともに夕食を済ませると、シャワーを浴びようとして立ち上がる。ところが、ダイニングキッチンを出ようとしたところで、前触れもなく背から優しく抱き締められてしまった。
「か、薫?」
一段低くなった掠れた声が耳をくすぐる。
「真琴、今日あいつに告白されたんじゃないか?」
「……っ」
どうしてと尋ねる前に、薫は「見ればわかるさ」と笑い、胸と腹に回した腕に力を込めた。
「真琴のことはなんでも知っているって言っただろう」
これから何が起こるのかを察し、体が小刻みに震えるのを止められない。
(……怖い)
あの日家族から男に豹変した薫が、真琴は怖くてたまらなかった。
「ごめん。秘密にするつもりはなくて……」
「うん、それもわかっている。でも、他の男と話したと思うだけで、嫌だから」
拒む間もなく隣のリビングに引きずり込まれ、軽々と抱き上げられてソファの上に放り投げられる。焦って起き上がろうとしたが、すぐに力ずくで押さえ込まれてしまった。
「薫、私、まだシャワー浴びてなくて……」
「そのままの真琴でいい」
「待って」という言葉は唇で塞がれ、吐息ごと飲み込まれた。
真琴は直属の上司の課長にアポイントを取り、半期決算の業務をようやく終えた後で、勤め先の最寄り駅の構内にあるカフェで落ち合った。
ニューヨークをイメージしたそのカフェは、天井が高く内装はオフホワイトが基調となっており、開放感があるからか客入りがいい。軽食を取りつつノートパソコンを叩くサラリーマンや、新商品を試しにきた初々しい学生カップル、友人連れの女子大生らで賑わっている。
コーヒーの香ばしい香りを嗅ぎながら、誰もが笑い、楽しそうにお喋りをする中で、真琴の表情だけが暗く曇っていた。課長は身内の不幸があったとでも思ったのだろうか。
「狩野さん、用事ってなんだい? 忌引き休暇を取りたいとか?」
「いいえ、違います」と首を横に振って否定する。だが、心境としては限りなくそれに近かった。
「実は、来年までに退職したいんです。急なお話で申し訳ないんですが……」
退職の単語には課長も大層驚いたらしい。カップを持った手が動揺に一瞬揺れた。
この課長とは五年近くの付き合いがあるのだが、落ち着いた頼り甲斐のある男性であり、真琴がそうした顔を目にしたのは初めてだった。
「……本当に急だね。何があったんだい? まさか、結婚とか?」
「はい、そんなものです……」
諦めを含んだ声でそう答える。
「彼が来年仕事の都合で東京を離れるので、ついて行くことになったんです。実は三ヶ月前に婚約しまして……」
課長は平常心を取り戻すためだろうか。ブラックコーヒーを一口飲んでテーブルに置くと、頼んだカフェラテの水面に目を落とす真琴を眺めた。
「……結婚するにしては嬉しそうに見えないと言ったら怒られるかな」
「申し訳ございません。いわゆるマリッジブルーで……」
真琴は心のうちを見透かされたことに慌て、精神力を総動員して笑顔を作った。
「……結婚式はこっちでやるの?」
「いいえ。式は挙げないんです……」
「……そっか。じゃあ、狩野さんの花嫁姿は見られないんだな。残念だ」
課長は「わかったよ」と微笑んで、目を逸らして溜め息を吐いた。
「……狩野さんは彼氏がいないと思っていたんだけどな」
「ずっと内緒で付き合っていた人なんです。人にあれこれ聞かれるのが嫌で……」
まさか、相手が義弟なのだとは打ち明けられなかった。自分たちの婚約を知るのは、婚姻届けの保証人となる、薫の恩師である大学の教授と、在学中に世話になったというOBだけだ。
大学の卒業式の保護者席で涙を拭っていたあの日には、予想すらしていなかった現在の状況に、また、薫の狂気すら感じさせる束縛と溺愛に、真琴は疲れ果て、もはや抵抗する気力すらなくなっていた。だから、課長の突然の告白にうまく対応できなかった。
「……あのね、もうこんなこと言っても仕方ないんだけど、僕、先月離婚したんだよ」
「えっ……」
「……別れた妻とはずっとうまく行ってなくてね。去年から話し合ってきたんだけど、やっと別々の人生を歩もうということになったんだ」
、と言われても「そうだったんですか」としか答えようがない。意図が把握できずに戸惑う真琴に苦笑しながら、課長は「おめでたい話に水を差してごめん」と謝った。
「……つくづくタイミングが悪かったな。こんなことならセクハラになるからとか、君にもあいつにも不誠実だからとか気にせず、さっさと好きなんだって言っておけばよかった。恋愛は真面目にやり過ぎると損をするね」
信頼していた上司から好意を抱いていたと告げられても、真琴が心を乱されることはまったくなかった。今年の三月にそれ以上の驚愕をすでに経験していたのだから。返事は「お気持ちありがとうございます。課長もいい人が見つかるといいですね」と、大人として当たり障りのないものに留めておいた。
電車を乗り継ぎ、慣れ親しんだ一軒家に帰宅した真琴は、ドアを開けようとしたものの、一瞬躊躇してノブを離した。薫が待っているのだと思うと怖くなったからだ。それでも、帰らないという選択肢は許されない。
「ただいま……」
すぐに薫がダイニングキッチンからひょいと顔を出し、「お帰り。ちょっと遅かったな」と笑って出迎えてくれた。
「ごめん。今日課長に退職の相談をしてきて……」
「課長って中谷さんって人だったか?」
「うん、そう。よく覚えているね」
数年前、職場の飲み会が長引き、課長と揃って終電を逃したことがあった。自宅の方向が同じだったこともあって、どうせならとタクシーをシェアしたのだ。玄関前で手渡そうとした運賃の半額は、結局受け取ってもらえなかったはずだ。その際車が停まる音を聞き付けて、外に迎えに出て来た薫が、「義姉がいつもお世話になっております」と挨拶をしていた。
あとから「美男美女きょうだいだな。でも、あんまり似ていないな」、などとからかわれた記憶がある。血は繋がっていないと説明しなくて正解だったと、今となっては胸を撫で下ろすしかない。課長は勘がいい方なので気付かれていたかもしれない。
薫との婚約は何も隠すことはないとはわかっている。だが、できれば顔見知りには悟られたくはなかった。
真琴は薫とともに夕食を済ませると、シャワーを浴びようとして立ち上がる。ところが、ダイニングキッチンを出ようとしたところで、前触れもなく背から優しく抱き締められてしまった。
「か、薫?」
一段低くなった掠れた声が耳をくすぐる。
「真琴、今日あいつに告白されたんじゃないか?」
「……っ」
どうしてと尋ねる前に、薫は「見ればわかるさ」と笑い、胸と腹に回した腕に力を込めた。
「真琴のことはなんでも知っているって言っただろう」
これから何が起こるのかを察し、体が小刻みに震えるのを止められない。
(……怖い)
あの日家族から男に豹変した薫が、真琴は怖くてたまらなかった。
「ごめん。秘密にするつもりはなくて……」
「うん、それもわかっている。でも、他の男と話したと思うだけで、嫌だから」
拒む間もなく隣のリビングに引きずり込まれ、軽々と抱き上げられてソファの上に放り投げられる。焦って起き上がろうとしたが、すぐに力ずくで押さえ込まれてしまった。
「薫、私、まだシャワー浴びてなくて……」
「そのままの真琴でいい」
「待って」という言葉は唇で塞がれ、吐息ごと飲み込まれた。
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