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第7話 池のほとりの一匹
しおりを挟む山から下りて池へと戻ってきて、里へ帰るヤシュカをモレヤは見送っていた。
岩の間を器用に跳ねていく白い鹿の短い尾を眺めて、そういえば白毛草に似ている、と密かにおかしく思っていたので反応が遅れた。
慌てて振り返ると、風に乗って山犬の臭いがする。
あともう少しヤシュカが帰るのが遅れていたら危なかった、とモレヤは胸を撫で下ろした。
獣道の方を軽く睨むと、茂みの中から一頭の山犬が姿を現した。
「……そう怖い顔をするな、モレヤ」
声をかけてきた山犬は雌だがモレヤと同じくらいの体格をしている。年老いているが貫禄も威厳もモレヤにはまだまだ敵わないものを持っていた。
「こんなところに何用だ、長」
そう呼びかけた老いた雌犬は、やや億劫そうに口を開いた。
「今日、タヅワカがそちらへ行っただろう。済まなかったね」
タヅワカというのは今日モレヤにまとわりつき、そして逃げ出して行ったあの雌犬だ。
「……別に気にしていない」
ヤシュカと八つの嶺へ行ったことが楽しすぎて、あんな雌のことはこうして言われるまですっかり忘れていた。それを思い出させられて、モレヤは幾分機嫌が悪くなる。
「タヅワカにはもうここへは近づかないように言っておいた。馬鹿なことをするんじゃないよ、と」
「…………」
忌み子に番にならないかと誘うのは、「馬鹿なこと」なのかとモレヤは内心で長を嘲った。
「……それよりも、「うみ」の北に住み着いた連中について、何か知っているかい」
「……いや。俺はここから動かないから何も。新しい奴らが来た、ということくらいしか知らない」
本当はヤシュカから色々と聞いて知っているのだが、モレヤはここを動いてはいけない決まりになっているから、知らぬ存ぜぬで押し通そうと決めた。
それに何かあったとしても、ヤシュカのことを口外する利点は何もない。
「そうだったね。地の果てから来た鹿族の連中が、五つ根の樫のあたりに住み着いた。今はまだ何事も起きていないが、風の噂では同族のアマズミにも受け入れられなかったという話だ。何かあれば教えておくれ」
「……シカなど、ここに近づいたら食い殺すだけだ」
「迂闊に手を出すんじゃないよ。奴らは知恵が回る」
長の言葉にモレヤはしばし考え込んだ。
シャグジの長はだいぶ年老いてきてはいるが、長年シャグジをまとめ上げた女傑だ。そして一族の中で唯一モレヤに比較的話しかけてくれる。それは「忌み子」が一族のための犠牲だと知っているからだ。
下手に楯突くよりも、ここはうまいことシャグジの動向を探る方が優先か、とモレヤは思った。
「長、一族の集いを時折覗いて話を聞いてもいいだろうか」
「おや、あんたがそんなことを言い出すなんて珍しいね。どういう風の吹き回しだい?」
「新しく来た奴らの動向を知りたい。ここにシカが入りこむなんて我慢がならない」
ヤシュカ以外の奴らは、とモレヤは心の中で付け加えた。
「……そういうことなら構わないよ。ただし、姿は見せるんじゃないよ。あいつらはうるさいからね」
「分かっている。臭いもさせない」
モレヤがそう言うと、長はひとつ頷いて去っていった。
大きく溜息をついて初めて、モレヤは自分でも気づかないうちに緊張していたのだと知った。
いつかこういうことになるんじゃないかと心の片隅で思っていた。
「うみ」の北は厳密にはシャグジの縄張りではないが、むしろミナカタの方がシャグジの領域に南下してこないとも限らない。
何かあった時にヤシュカを守るために、気分は悪いが一族の集いにこっそりと近づいて話を聞かねばならなかった。
シャグジはまとまって住むことこそしていないが、その結束は強い。定期的に四つ根の樫の下に集まって情報を共有する。
そこで何か不穏な動きがあればヤシュカに知らせねばならない。
ヤシュカを利用するだけ利用して腫れもののように扱うミナカタなどどうでもいいが、あの白い鹿だけは守りたかった。
***
あの日、誰も近づかないモレヤだけの禁域に、白いシカが入り込んでいるのを見つけた。
この辺りのシカは、よっぽど渇き苦しんででもいなければあの池には近づかない。あの池に近づくことが自殺行為だと知っているからだ。
昔は多くの生き物があの池で喉を潤したらしいが、モレヤという番人がいついてからはひどく静まり返った池になった。
白いシカなど、普段見たことがなかった。だから何も知らない愚かな迷いシカが、池の水を飲みに来たのだと思って風下からこっそりと近づき、襲った。
その瞬間に、今まで見たことがないような美しい雌に変化して、獣人だったのかと気づいて後悔した。
忌み子が他種族の者に手を出したとあっては面倒なことになる。もう二度とここへ近づかないように言い含めて追い返そうと思っていた。
けれどもその白い鹿は何も知らないようで、赤い瞳でモレヤの目をまっすぐに見て、怯える様子もなく話しかけてくる。
必死に食べないで、という姿に違う意味で食べてやろうか、と思った。
その時、初めて嗅ぐ、えも言われぬいい匂いがした。
鹿の香りも甘い花のようだったが、それは猛烈に腹を空かせるような匂いだった。
そして出会った。おにぎりと。
おにぎりのことを思い返すだけで、思わずモレヤの口の中に唾液がたまる。
あんなにうまいものはこれまで食べたことがない。見た目はただの白い粒なのに、ほんの少しの塩気が効いて、噛むと甘みが溢れるその味は、いくらでも食べれそうな気がするくらいだ。
どうにかしてこれをもう一度食べたい。
今は元に戻ったが、あの時の優先順位は確実におにぎりの方がヤシュカより上だった。そうして禁足地に踏み入ったことをネタにしてヤシュカを強請り、強引におにぎりを持って来させる約束を取りつけることに成功した。
我ながら酷い所業だと思うが、おにぎりに勝る食べ物はない。
何も知らない美しい白い鹿もおにぎりも手に入るのかと思うとワクワクした。
そうして翌日もう一度持ってこさせたおにぎりはやはり美味だった。
いくつか食べてようやく最初の衝撃が和らぎ、落ち着いて味わえる頃になってやっと隣にいる白い鹿のことが改めて気になった。
ミナカタ族、という聞いたことのない一族に属するらしいその鹿は、とても美しい面立ちをしていた。それだけではない、その纏う衣も見たことがないほど煌びやかで繊細で、一族の中でもそれなりに高位にあるのではないかと窺えた。
――山育ちのモレヤにとっては、少し頼りなくて寒そうな衣だったけれど。
そしてヤシュカは相変わらずモレヤに一歩も臆することなく接してくれる。もっともモレヤ自身が忌み子だと告げなければ、きっとこのまま普通に話してくれるだろうという心算はあった。
忌み子と言ったって、別に身体的に何かが違うわけでも劣るわけでもない。むしろ一族の他の者よりも縄張りが遠くて高地にある分だけ、身体能力では勝っていると思う。
昼食の礼にと遠出に誘えば、喜んで了承してくれた。白い小さな体を背に乗せると、例えようもなく心が高揚するのが分かった。
もしもこの雌と番になれたなら。
そんな言葉が心をよぎった。
忌み子は子孫を残すことが許されていない。一度汚れた血は受け継ぐことはできない。それが一族の掟だった。
だからモレヤは成人して何年も経つが、発情期に雌の元へ行くことさえ許されなかっら。池のほとりでいつも一人だった。
何も知らないこの白い鹿なら、モレヤを受け入れてくれるかもしれない。
そんな薄汚い欲望が胸の隅にこびりついた。
けれども何も知らない白い鹿は、何でも知っていた。
ヤシュカは確かに、シャグジのこと、スハのこと、山のことは何も知らなかった。海辺育ちだと言っていたからそれは道理だと思ったが、代わりにモレヤの知らない外の世界のことは何でも知っているように思えた。
忌み子が外の世界には存在しないと聞いた時は、モレヤを雁字搦めに縛り付けていた呪縛が雪のように溶けて消えて無くなる思いだった。
モレヤもミナカタ族に生まれていれば、誰に疎まれることもなくごく普通に暮らせただろうに、うまくいかないものだと思った。
けれどもそんなミナカタ族もヤシュカを利用し、犠牲にして、一族を安定させている。どこも変わらないのか、と皮肉な気持ちになった。
もうこの頃にはおにぎりとヤシュカの優先順位は逆転していた。
モレヤが忌み子だと知っても、ヤシュカは何も変わらない。モレヤにとってヤシュカはこの世界でたった一人、救いの女神のように思えた。
そんなヤシュカが自分が他とは違う白い鹿であることを気にしていたようなので、モレヤの思うところをそのまま告げたら、ヤシュカは大笑いして、憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしていた。
そして、自分たちは同じなのだと言われた。
一族のはみ出し者。
崇め奉られ遠ざけられるヤシュカと、忌み嫌われ疎んじられるモレヤ。
その本質は何も変わらない。
自分たちと異なる者を別のところに隔離して利用しているだけだ。
叶うならば、ヤシュカと番になってどこか遠くへ――あの不二の山の方へ逃げ出したいとさえ思った。
一族など知らない。
何もかもなくしても、ヤシュカさえいればいい。
そんな想いをこっそりと伝えようと、折に触れてはヤシュカに尾を触れさせているのに、ヤシュカは全く気にしていないようで密かに落ち込んだ。
鹿族は尾が短いから、これでは伝わらないのかもしれない。
気に食わない奴は簡単に尾を絡めてくるというのに、こんな時には役に立たない自分の尾を恨めしげに見つめた。
***
スハの夏は短い。
八つの嶺に完全に雪がなくなったと思ったら、もう朝晩の空気が少しずつ冷たくなってくる。
今までモレヤは獣形で誰かとじゃれ合うなんてことはしたことがなかった。母親は他種族と通じたことで隔離されて、モレヤが物心つく頃に亡くなった。
それからずうっと、池のほとりに一人でいた。
ねぐらで朝飯を食べ、池のほとりに来る。その辺で適当に昼飯になるものと、夜用のものを探して食べ、日が暮れる頃にねぐらに戻って寝る。
服や靴など一人では得られないものだけは、時折、長がどこかからか調達してきた。昔は一族の者も気味悪げにモレヤを見たり、心ない言葉を投げかけてきた。
けれども成人して随分と体が大きくなった頃から、そんなことさえなくなった。
だから誰かとこんなに沢山喋るのは本当に久しぶり――というか初めてで、自分ばかりが喋りすぎていないか、自分の話は退屈でないか心配になって、ある時ヤシュカに聞いてしまった。
そうしたらヤシュカは笑って「私も同じだから」と言ってくれた。
その笑顔は白毛草のように可憐で儚く、この時しか見られない大切なものだと思った。
八つの嶺へ二人で駆けて行った時は本当に楽しかった。
どうやらヤシュカもそう思ってくれたようで、最近では池のほとりでも獣型になって二人でじゃれ合っている。
そしてさりげなく尾を触れさせてもやっぱり無反応で、いよいよ本格的に落ち込んだ。
ミナカタ族は、というかシャグジ族以外は他種族と番うことに対して抵抗感はないと言っていた。
ならばモレヤも番の候補に入れてもらえはしないだろうかと期待しているのだが、ヤシュカにそんな素振りはない。
去年、成人したばかりだと言っていた。
もしかしたらまだ誰とも契っていないのかもしれない――いや、おそらくそうだ。
ヤシュカからは甘い花のような香りはすれども、他の雄の匂いはちらりともしない。去年の発情期は何らかの事情で番を持てなかった。
と、そこまで考えて、その推論が間違いではないことに気づいた。
もしも昨年誰かと交わっていたら、今頃こんなところでモレヤと戯れているはずがない。正常に番うことが出来ていたならば、この時期は生まれた子供の世話に躍起になっているはずだからだ。
ならば、とモレヤは思った。
まだ自分にも機会は残されているかもしれない。今年の冬の発情期までには、どうにかしてヤシュカに想いを告げ、そしてヤシュカの想いを知りたい。
けれどももしも断られたとしても。
ヤシュカという甘い餌を知ってしまった自分が、今までと同じようにあの池のほとりに一人でいることは、もう無理そうだった。
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