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第1話 自宅、異常(物理)ナシ

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私は未だかつてないほど緊張していた。

 自軍の数倍もの敵を前にしても怯まない私が、たった百騎で敵軍へ斬り込んでいくのさえ躊躇わない恐れ知らずの鬼の副将軍と呼ばれたこの黄牙燎こうがりょうが、ただ一枚の扉に対して取るべき戦法を考えあぐねて立ちすくんでいた。

 自宅の扉を前にして。

 自宅といっても、もう七年も空けていた家だ。
 懐かしいという感覚よりも、一体何がどうなっているのかという恐れの気持ちの方が強い。

 特に変わりはないという便りは毎年のように受けていたが、正直言って七年も会っていない妻に、どんな顔をすればいいのか分からない。
 怒っているのか、呆れているのか、諦めているのか。
 そして表情を変えている妻の顔さえもおぼろげにしか想像できない。

 雲霞の如き軍勢を前にしている方がよっぽど気が楽だった。

 だが、いつまでもこうしている訳にもいかない。このままでは扉の前で立ち続けている不審な中年男がいると通報されかねない。

 私は意を決して扉を押し開けようとしたが、丁度よく扉が内側から開いたことによって、勢いがついた体はそのまま前へと倒れ込んだ。

「うわぁっ!」
「きゃあっ!」

 長年戦場で培った勘のおかげか、咄嗟に目の前にいた人物を腕の中に抱えこみ、受け身を取ることに成功した。全身を筋肉で重武装した私のような男に押し潰されたら、大の男だって苦しさに喘ぐ。
 ましてや、今この腕の中にいるどこもかしこも柔々とした感触の生き物――女性ならば尚のことだ。

 玄関の敷石に寝転ぶ形になった私の上に、一人の女性が乗っていた。

 私の鉄板の如き胸板には餅のように柔らかい二つの重量感のある胸が、丸太のように無骨な太腿には裾がめくれて露わになった白い脚が乗っかり、感触的にも視覚的にも衝撃を受けて三本目の丸太が生成されそうになった。

 私の妻は折れてしまいそうなほど全身細い女だったはずだが、果たして七年の間に変わってしまったのだろうか。

 きゅ、と瞑られていた瞳がそろそろと開けられ、おずおずとこちらを見上げてきた顔は驚くほどの美少女だった。

 年の頃は二十前後だろうか。黒く大きな瞳を縁取る睫毛は密で、白い肌が紅い唇を殊更強調する。さらさらとした長い黒髪からは微かに春風のような香りが立ちのぼる。
 おっとりとした雰囲気ながら清楚さも併せ持っており、一度会ったら忘れないような美しさを備えていた。

 確か、私の妻はもっとこう、薄幸そうな顔立ちだったはずだ。年齢的にも容貌的にも、これはおそらく妻ではない、と止まりかけた私の頭はようやく理解し、見知らぬ女性を抱き抱えてしまったという非常事態に焦り始めた。

「も、申し訳ないっ! 私は……」
「旦那様! 旦那様ですね⁉︎」

 そう言うなり、腕の中の女性は感極まった表情で思い切り抱き着いてきた。当然柔らかな胸は更に押し付けられる形になって、私は脚に力を入れて衝動を堪える。

 長年男だらけの辺境の紛争地帯にいたせいで、こんな感触とはほぼ無縁だった。国境まで来るような商売女は、食うに困って身売りした者が多く、柔らかさとは程遠い。

 それにしても「旦那様」と呼ばれるなど、私は知らぬ間に二人目の妻を迎えていたのだろうか。
 困惑気味に――しかし下半身はどことなく元気な状態で――女性を見やると、その期待に潤んだ大きな瞳に記憶のどこかで歯車がかちりと音を立てた

「ま、まさか……英凛えいりん、なの、か……?」
「はいっ! 覚えていて下さったのですね!」

 そうだ、筋肉質な大男である私を恐れずに満面の笑みを浮かべて擦り寄って来るなんて、英凛くらいしかいない。

 だが英凛はまだ少女だったはずだ……と思いかけて、最後に会った時から七年という歳月が経過していることに再度思い至った。

 私の知る英凛という少女は十三歳ながらも聡明で、体は細かったがいつも朗らかに笑いながら私を慕ってくれていた。

 英凛は、私の親友でもあり部下でもあり、片腕となる軍師であり、いつも尻拭いをさせられる困った奴でもある、今は亡き范奉直はんほうちょくの愛娘だ。

 奉直の家とは家族ぐるみで付き合いをしていて――主に酔い潰れた奉直を送り届けるのが私の役目だったのだが――子供のいない私は英凛のことを姪のように可愛がり、そして英凛も私のことを「おじさま」と呼んで甘えてくれていた。

 だが、この目の前の美女が英凛だと⁉

 細かった体には絶妙な柔らかさの肉がつき、胸などはかなり豊かな部類だ。だと言うのに腰はあの頃と変わらず細く、男どもを吸い寄せるようなくびれを描いている。

 いつも一つに括られていた髪は艶やかに長く垂らされているが、倒れたはずみだろうか、晒されたうなじが白く眩しい。

 どこからどうみても妙齢の美女になってしまった英凛に、七年という年月を思い知らされると共に、奉直が存命であったならば娘に悪い虫がつきやしないかハラハラしていただろうと思った。

「ようやく旦那様が戻ってきて下さった……!」

 幼い頃のように無邪気に、しかし胸部は立派に大人になった英凜が抱きついてくると、親友の愛娘だというのに私の理性は試練に晒される。

 けれども散らばった理性を掻き集めてでも問い質さねばならぬことがあった。

「英凜、『旦那様』とはどういうことだ?」

 私の記憶が確かならば、英凜は私のことを「おじさま」と呼んでいたはずだ。英凜を妻に迎えた覚えはない。 ……多分。

「母の代わりにここで働かせていただいています」
「そ、そういうことか……」

 おそらく私は目に見えて安堵していただろう。
 英凜の母、つまり奉直の妻にあたる劉夫人は家計を支えるために我が家で働いてもらっていた。私の妻はあまり体が丈夫でなくほとんど外出もしないので、話し相手になってもらえれば、という思いもあったのだが、奉直亡き後の未亡人の慰めにもなっていたのではないかと思う。
 だがその劉夫人の代わりに英凜が働きに出ているということは……と私は青ざめる。

「え、英凜……劉夫人は、まさか……」
「あ、母は生きています。ただ腰を悪くしたので私が代わりに」
「そうだったのか……」

 最悪の事態にはなっていなかったと知って私は胸を撫で下ろしたが、その胸の上に英凜が未だ乗ったままでいることに今更ながら気づいた。

「英凜、さあもう子供ではないのだから。こんなところを妻に見られたら誤解されてしまう」

 そう言って英凜を立ち上がらせた私を、英凜は酷く怪訝な表情で見つめてきた。

「……旦那様、何を仰って……」
「英凜はとても綺麗になった。これでは若く美しい女性に私が襲いかかったと、妻に怒られてしまうからな」
「え……」

 私は苦笑しながら言ったのだが、英凜はますます眉根を寄せただけだった。
 大きな黒い瞳が困惑に揺れている。

「旦那様、奥様は……」
「さあ、私の妻はどこにいるんだ? 外出はしていないんだろう?」
「旦那様……やはり……」

 問いかけた私を、英凜はどこか苦しそうな顔で見る。私の妻に何かあったのだろうか。

「旦那様、奥様は……今、嶺州れいしゅうにいらっしゃいます……」
「嶺州⁉ なんだってそんな遠方に……」
「やはりご存じなかったのですね」

 英凜はやや俯いて早口気味に言った。

「奥様は、旦那様と離縁されて再婚されました。今は再婚相手のいらっしゃる嶺州で、三人のお子様と共に暮らされています」

 英凜が何を言っているのか、私には全く理解できなかった。
 いや、言葉は耳に入ってきてはいるが、脳が理解することを拒否していたとでも言おうか。

「はぁっ⁉ ちょ、ちょっと待ってくれ……っ」

 私は未だかつてないほどに混乱に陥っていた。

 英凜は極めて簡潔に、そして要点をまとめて説明してくれたと思うが、あまりのことに全く理解が追いつかない。つまり私の妻は、既にもう私の妻ではなく、他の男の妻だと、そういうことなのか⁉

「さ、三人の子供って……それは、一体何年前のことだ⁉」

「五年前のことです」

「ご、五年……っ⁉」

 確かに再婚して五年も経っていれば、子供が三人いても不自然ではない。いや、不自然なのはそこではなくて……っ!

「な、何故私の元にその知らせは来なかったのだ⁉」

 そう、その点なのだ。何故五年前の時点で妻が出て行ったと、その連絡が私に来なかったのか。

「奥様からも、母からも書簡をお出ししたのですが……届いていなかったのですか?」
「あ、ああ……一切……」

 『五年前』『届かない書簡』という単語を聞いて私はピンときた。
 その頃、小康状態を保っていた国境の情勢が大きく様変わりした。隣国で代替わりが起きて、我が国への侵攻が活発になり、激しい衝突が何度も発生したのだ。

 激戦に次ぐ激戦。最前線で戦い続けた私たちの軍は国境に沿って転戦し、時には隣国に攻め入ることもあった。そんな状態では個人宛の私書などまともに届かないだろう。

 少し落ち着いた頃に、私は確か自宅宛の書簡を出した。国内も混乱していたので「家屋敷など変わりはないか」とそれだけを簡潔に尋ねたのだったが……返ってきた書簡は……

「奥様は旦那様からのお返事もなかったので、いよいよ離縁を決心されました。けれども旦那様の私財には一切手をつけずに出て行かれましたので、『家屋敷はお変わりございません』と返したのですが……」

 英凜の言葉に私はがくりと項垂れた。その書簡は私も受け取った覚えがある。
 確かに間違っていない。屋敷は今も昔と変わらず保たれている。ただ、そこに住む人間が変わっていただけだ。

 その後も私は一年に一度程度ではあるが、戦地から書簡を送っている。『委細変わりないか』という言葉に対して、毎年『変わりはございません』と女の筆跡で返事が来ていたので、家を何年も放置していることに罪悪感を覚えながらも、その一言で安心していたのだ。
 だが放置の代償は思わぬ形で返ってきた。

「毎年の返事は……劉夫人と英凜だったのか……」

「はい……旦那様が奥様のことに一切触れられないので、きっとお話しされたくないのだろうと思い、こちらも特に何も書かずにおりました……」

 お話しされたくないも何も、知らないのだから話題に上らないのは当たり前だ。けれどもその優しい気遣いが仇となってしまった。
 いや、英凛と劉夫人を責めるのはお門違いも甚だしい。全ては、子供もいない状態で新妻を二年も放置して戦場から帰らず、こまめに書簡を送るでもなく、妻から逃げるかのように戦に明け暮れていた私の責任なのだ。

「申し訳ございません……」

 ぽとり、と英凛の大きな瞳から涙が一粒こぼれ落ちる。私はそれに胸を刺し貫かれるような罪悪感を覚えた。戦さ場で剣で切り裂かれた時の方がよほどマシだ。

「……英凛は何も悪くない。悪いのは全て私だ」
「で、でもっ……私たちも奥様をお止めはしたのです。旦那様はお国のために戦っていらっしゃるのだから、いつかきっと戻られる、と」

 実際に戻ってきたのは五年後なのだから、私は何も弁解する術がない。

「けれども奥様は、やはりお子がいらっしゃらないのがお辛いようで……」
「それも私の責任だ……」

 妻と子を成すことができなかったのは、偏に私に原因がある。
 それと私の不在が離縁の理由ならば、私は妻を責めることは一切しない。

「奥様はお知り合いの伝手で、香を扱う商人の方と再婚されました。お仕事の関係でその方と共に嶺州へ行かれて……お子様にも恵まれて元気でいらっしゃると時折便りがきます」
「そうか……彼女が元気ならば良かった……」

 病弱だった妻が嶺州への旅に耐えられたのかと危惧したが、子がいるならば女性は強くなれるのだろう。私は腕に自分の子を抱くことは叶わなかったが、彼女がその幸せを掴めたのならば、それだけが幸いだ。

 私はふと玄関先で長話をしてしまっていたことに気づき、英凛を屋敷内へと促した。

「英凛、しばらく一人にしてくれないか? 私の部屋は……何も変わっていないのだろう?」
「はい。旦那様のお部屋はそのままにしてあります」

 英凛に先導されて着いた自室は、七年前に出立した時と何も変わってはいなかった。
 元より物が少なく飾り気のない書斎だ。けれども棚に申し訳程度に並べられた書簡には埃一つなく、しばらく使われていなかった硯の横にはいつでも墨がすれるように水差しには水が湛えられている。椅子の上に置かれた座布はもう少しへたれていた気がするが、綿を打ち直したのだろうかやけに柔らかくなっていた。

 格子窓から柔らかな日差しが零れる窓辺には、白梅が一枝生けられていて、仄かな香りを漂わせている。

 いつ帰るともしれない主人のために、いつでも部屋を使えるように。
 そんな英凛の心遣いがこれ以上ないほどに心に染み入ると共に、一体何本の……いや何千本の花が主を見ることなく打ち捨てられてきたのだろうかと思うと、それが女の怨念のように思えて、私は未だかつてないほどに落ち込んだ。

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