41 / 43
第4章 少年と少女
40 エンディング
しおりを挟む
上弦の月と都市の光に照らされ、わずかに見える明るい色のワンピースを着た女性は、こちらに背中を向けたまま静かな声で言った。
「……よくここが分かったね?」
ああ、エリカさんの声だ……
彼女の声、彼女の姿、生きている彼女の存在感を目の前に感じるだけで目の奥がジワリと熱くなるのを感じる。
だけど今は感傷に浸っている場合ではない。呼吸を整え、こみ上げてくるものを抑えながら、エリカさんからの質問に答えた。
「前にここへ来た時……あなたがこんな景色を見ながら死にたいと言っていたのを……思い出しました」
「そっか、覚えてたんだ……さすがね」
彼女は儚げな笑みを浮かべ、そしてまた沖の方へと体を向けた。
「あの時は楽しかったね。一緒に映画みて、ショッピングして、喫茶店でケーキ食べて、そのあと二人でここに来たんだっけ?」
「はい……」
「あの日はまだ夕暮れ時だったよね。前にコーダイが夜になるとレインボーブリッジが綺麗だって教えてくれたけど、本当にそのとおりだったね。カラフルな光が夜の海に反射して、パレードみたい。夕日も風情? みたいなのがあって良かったけど、あたしはやっぱこういうハデな景色のほうが好きだなあ」
「エリカさん!」
名前を呼ぶと、エリカさんの肩がピクリと動いた。
彼女はしばしこちらを横目で見てから、黙ってまた視線を海に向けた。
「あはは、調子狂っちゃうなあ……最後くらいはひとりで美しい世界を堪能しようと思ってたのに」
エリカさんの能天気な声が背中越しに聴こえてくる。しかしそれが彼女本来の朗らかさを投影したものでないことは、彼女の表情を見なくても明らかだった。
「それで、ナニしに来たの?」
「もちろん、あなたを連れ戻しに来ました」
「あたしを……そうなんだ」
互いに感情を押し殺そうとしているからなのか、まるで機械と機械が向き合っているみたいに会話が坦々と進んでいく。
「僕と一緒に帰りましょう。夜景なら、またいつでも見られます」
夜の都会のビル群を見つめる彼女に、僕は背後から近づこうとした。しかし、
「それ以上近寄らないで!」
二度、彼女の鋭い声に僕の足は止められた。
そのとき彼女が僕に向けていたもの……それは小型のフルーツナイフだった。刃渡りは短く、さして切れ味が良いものではないだろうが、それでも人間の血管を切り裂くには十分な代物だ。
「待つんだエリカさん!」
身動きが取れないまま叫ぶ僕に対して、エリカさんはナイフをこちらに向けたまま、さらに3歩、沖に向かって後退した。
「わざわざ迎えに来てもらって悪いけど、あたし、もう戻る気はないから」
「どうしてそんなことを言うのですか?」
エリカさんは一度ナイフを下ろし、ゆっくりと体を沖の方へ向けた。
「コーダイ……あたしの部屋に置いてあった日記は見た?」
「はい、エリカさんの父君からお預かりしました」
「……だったら分かるでしょ? あたしはもう生きてはいけないの。名前も、住所もネットに流されちゃったし、顔もバレた。電話番号やメールアドレスも……恥ずかしい写真まで撮られた」
僕も彼女の身に起きたことは知っている。学校でクラスメイトたちから凄惨ないじめに遭い、あらゆる個人情報をネットに流され、ネット上でも数多くの誹謗中傷に晒された。彼女が残していた日記からは、そんな惨憺たる日々と共にやつれていく彼女の姿がありありと浮かび上がっていた。
「ウィーチューバーだった【リカリカ】にはもう戻れない。学校にも通えない。お父さんやお母さんにも顔向けできない……こんなあたしが、この先どうやって生きていけばいいって言うのよ!?」
心を引き裂くばかりのエリカさんの声が、静まり返っていた水面に小さな波を立てた。
「あたしが幸せに生きていける場所なんて……もう……どこにも無いんだから……」
ついに彼女の声に嗚咽が混じり始める。
かわいそうなエリカさん。今すぐ彼女を絶望から救ってあげたい。口三味線でもペテンでも何でも使って、彼女に希望を与えてやりたい。
だがここで情に流され、的外れな甘い言葉で彼女を説き伏せようとすれば、それがかえって彼女に不信感を与えてしまう。どうせ自分の苦しみは誰にも理解されないのだと、孤独に沈もうとする彼女の背中を押してしまうことになる。
「あなたがどれほど苦しんだのか、あなたが今どんな気持ちなのか、僕には計り知れません」
だから僕は言葉を偽らず、自分が確かだと信じられることだけを彼女に伝えた。
「ですが、これだけはハッキリと言えます。本当に居場所のない人間なんて存在しません。あなたが幸せに生きていける場所だって必ずあるはずなんです」
「無責任なこと言わないで……そんなこと、どうしてコーダイに分かるのよ」
「もし無ければッ……僕が責任を持って築き上げます。あなたが笑顔でいられる場所を」
自分の胸に手を当て、僕はエリカさんに言った。
頼む、僕を信用してくれ。
いつもみたいに頭なんて使わず、僕の言葉を鵜呑みにしてくれ。
そう願いながら。
わずかな静寂の後、彼女は一瞬だけこちらを見て口許を綻ばせた。
「らしくないわね……サイコパスの君がそんなこと言うなんて」
だがその声に、いつもの彼女らしい快活な抑揚が戻ることはなかった。
僕の願いは、無情にも彼女の心には届かなかった。
再び背中を向けた彼女は、真っ暗な海に向かって思いをこぼした。
「でもダメだよ……君は将来は社長さんになるんでしょ? 日本の社会を引っ張っていく偉い人になるんでしょ? だったら、あたしなんかと一緒にいちゃダメ。あたしがいたら……コーダイに迷惑かけちゃうから」
「関係ありませんよ、そんなこと」
天下の《天王》がその程度の逆境に屈するはずがない。邪魔してくる連中はこの僕が残らず撃退してやる。だから……
「それにね……コーダイには意外だって笑われるかもしれないけど、あたしはずっと、あたしのことが嫌いだったんだ」
「……」
笑えるわけがなかったが、たしかに意外だった。
自己顕示欲の塊。ナルシシズムの権化。
彼女はそういう人間なのだと、僕は自身の心理学的知見に基づいて分析していた。
「バカで、自己中で、短気で、周りの人に迷惑ばかりかける……そんな自分が昔から大嫌いだった」
しかし彼女の声には、本当に自分自身に対する憎しみが込められているようだった。
「せめて人からは愛される自分でいたくて、アイドルを目指してたんだけど……それも今じゃあ叶わない夢。誰からも愛されないあたしなんて、もういらないの」
そう言うと、エリカさんは再び沖のほうへと体を向けた。
「……だから、あたしはここで消えるね」
「エ……ッ!」
僕はまた彼女に向かって駆け出そうとした。しかし彼女の右手には今も刃渡り10cmほどのフルーツナイフが握られている。彼女との距離はまだ5メートルもある。しかもここは膝上まで浸かる海の中。僕の手が届く前に、彼女は自身の手首なり首なりを斬り付けてしまうかもしれない。
何もできずにいる僕に、彼女は背中を向けたまま言った。
「ありがとう、コーダイ。今にして思えば短い間だったけど、君と一緒にいられたことが、あたしの最後の楽しい思い出だったわ。
それと、あの時はワガママ言っちゃってゴメンね。
お父さんとお母さんにも伝えといて……今日まで育ててくれてありがとうって」
「そんな……」
そんな寂しいこと、言わないでください。ワガママを言ったことを謝らなくてはならないのは僕のほうだ。
それに、僕はまだあなたと過ごしてきた時間に満足などしていない。もう一度、デパートで買い物をしたい。もう一度、カフェでケーキを食べたい。もう一度、勉強を教えてあげたい。もう一度……
だが溢れ出る思いを彼女に伝えられるだけの時間はなかった。
「さよなら……元気でね」
最後に涙と笑顔を浮かべた彼女は、真っ暗な沖に向かって海の中を駆け出していった。
「……よくここが分かったね?」
ああ、エリカさんの声だ……
彼女の声、彼女の姿、生きている彼女の存在感を目の前に感じるだけで目の奥がジワリと熱くなるのを感じる。
だけど今は感傷に浸っている場合ではない。呼吸を整え、こみ上げてくるものを抑えながら、エリカさんからの質問に答えた。
「前にここへ来た時……あなたがこんな景色を見ながら死にたいと言っていたのを……思い出しました」
「そっか、覚えてたんだ……さすがね」
彼女は儚げな笑みを浮かべ、そしてまた沖の方へと体を向けた。
「あの時は楽しかったね。一緒に映画みて、ショッピングして、喫茶店でケーキ食べて、そのあと二人でここに来たんだっけ?」
「はい……」
「あの日はまだ夕暮れ時だったよね。前にコーダイが夜になるとレインボーブリッジが綺麗だって教えてくれたけど、本当にそのとおりだったね。カラフルな光が夜の海に反射して、パレードみたい。夕日も風情? みたいなのがあって良かったけど、あたしはやっぱこういうハデな景色のほうが好きだなあ」
「エリカさん!」
名前を呼ぶと、エリカさんの肩がピクリと動いた。
彼女はしばしこちらを横目で見てから、黙ってまた視線を海に向けた。
「あはは、調子狂っちゃうなあ……最後くらいはひとりで美しい世界を堪能しようと思ってたのに」
エリカさんの能天気な声が背中越しに聴こえてくる。しかしそれが彼女本来の朗らかさを投影したものでないことは、彼女の表情を見なくても明らかだった。
「それで、ナニしに来たの?」
「もちろん、あなたを連れ戻しに来ました」
「あたしを……そうなんだ」
互いに感情を押し殺そうとしているからなのか、まるで機械と機械が向き合っているみたいに会話が坦々と進んでいく。
「僕と一緒に帰りましょう。夜景なら、またいつでも見られます」
夜の都会のビル群を見つめる彼女に、僕は背後から近づこうとした。しかし、
「それ以上近寄らないで!」
二度、彼女の鋭い声に僕の足は止められた。
そのとき彼女が僕に向けていたもの……それは小型のフルーツナイフだった。刃渡りは短く、さして切れ味が良いものではないだろうが、それでも人間の血管を切り裂くには十分な代物だ。
「待つんだエリカさん!」
身動きが取れないまま叫ぶ僕に対して、エリカさんはナイフをこちらに向けたまま、さらに3歩、沖に向かって後退した。
「わざわざ迎えに来てもらって悪いけど、あたし、もう戻る気はないから」
「どうしてそんなことを言うのですか?」
エリカさんは一度ナイフを下ろし、ゆっくりと体を沖の方へ向けた。
「コーダイ……あたしの部屋に置いてあった日記は見た?」
「はい、エリカさんの父君からお預かりしました」
「……だったら分かるでしょ? あたしはもう生きてはいけないの。名前も、住所もネットに流されちゃったし、顔もバレた。電話番号やメールアドレスも……恥ずかしい写真まで撮られた」
僕も彼女の身に起きたことは知っている。学校でクラスメイトたちから凄惨ないじめに遭い、あらゆる個人情報をネットに流され、ネット上でも数多くの誹謗中傷に晒された。彼女が残していた日記からは、そんな惨憺たる日々と共にやつれていく彼女の姿がありありと浮かび上がっていた。
「ウィーチューバーだった【リカリカ】にはもう戻れない。学校にも通えない。お父さんやお母さんにも顔向けできない……こんなあたしが、この先どうやって生きていけばいいって言うのよ!?」
心を引き裂くばかりのエリカさんの声が、静まり返っていた水面に小さな波を立てた。
「あたしが幸せに生きていける場所なんて……もう……どこにも無いんだから……」
ついに彼女の声に嗚咽が混じり始める。
かわいそうなエリカさん。今すぐ彼女を絶望から救ってあげたい。口三味線でもペテンでも何でも使って、彼女に希望を与えてやりたい。
だがここで情に流され、的外れな甘い言葉で彼女を説き伏せようとすれば、それがかえって彼女に不信感を与えてしまう。どうせ自分の苦しみは誰にも理解されないのだと、孤独に沈もうとする彼女の背中を押してしまうことになる。
「あなたがどれほど苦しんだのか、あなたが今どんな気持ちなのか、僕には計り知れません」
だから僕は言葉を偽らず、自分が確かだと信じられることだけを彼女に伝えた。
「ですが、これだけはハッキリと言えます。本当に居場所のない人間なんて存在しません。あなたが幸せに生きていける場所だって必ずあるはずなんです」
「無責任なこと言わないで……そんなこと、どうしてコーダイに分かるのよ」
「もし無ければッ……僕が責任を持って築き上げます。あなたが笑顔でいられる場所を」
自分の胸に手を当て、僕はエリカさんに言った。
頼む、僕を信用してくれ。
いつもみたいに頭なんて使わず、僕の言葉を鵜呑みにしてくれ。
そう願いながら。
わずかな静寂の後、彼女は一瞬だけこちらを見て口許を綻ばせた。
「らしくないわね……サイコパスの君がそんなこと言うなんて」
だがその声に、いつもの彼女らしい快活な抑揚が戻ることはなかった。
僕の願いは、無情にも彼女の心には届かなかった。
再び背中を向けた彼女は、真っ暗な海に向かって思いをこぼした。
「でもダメだよ……君は将来は社長さんになるんでしょ? 日本の社会を引っ張っていく偉い人になるんでしょ? だったら、あたしなんかと一緒にいちゃダメ。あたしがいたら……コーダイに迷惑かけちゃうから」
「関係ありませんよ、そんなこと」
天下の《天王》がその程度の逆境に屈するはずがない。邪魔してくる連中はこの僕が残らず撃退してやる。だから……
「それにね……コーダイには意外だって笑われるかもしれないけど、あたしはずっと、あたしのことが嫌いだったんだ」
「……」
笑えるわけがなかったが、たしかに意外だった。
自己顕示欲の塊。ナルシシズムの権化。
彼女はそういう人間なのだと、僕は自身の心理学的知見に基づいて分析していた。
「バカで、自己中で、短気で、周りの人に迷惑ばかりかける……そんな自分が昔から大嫌いだった」
しかし彼女の声には、本当に自分自身に対する憎しみが込められているようだった。
「せめて人からは愛される自分でいたくて、アイドルを目指してたんだけど……それも今じゃあ叶わない夢。誰からも愛されないあたしなんて、もういらないの」
そう言うと、エリカさんは再び沖のほうへと体を向けた。
「……だから、あたしはここで消えるね」
「エ……ッ!」
僕はまた彼女に向かって駆け出そうとした。しかし彼女の右手には今も刃渡り10cmほどのフルーツナイフが握られている。彼女との距離はまだ5メートルもある。しかもここは膝上まで浸かる海の中。僕の手が届く前に、彼女は自身の手首なり首なりを斬り付けてしまうかもしれない。
何もできずにいる僕に、彼女は背中を向けたまま言った。
「ありがとう、コーダイ。今にして思えば短い間だったけど、君と一緒にいられたことが、あたしの最後の楽しい思い出だったわ。
それと、あの時はワガママ言っちゃってゴメンね。
お父さんとお母さんにも伝えといて……今日まで育ててくれてありがとうって」
「そんな……」
そんな寂しいこと、言わないでください。ワガママを言ったことを謝らなくてはならないのは僕のほうだ。
それに、僕はまだあなたと過ごしてきた時間に満足などしていない。もう一度、デパートで買い物をしたい。もう一度、カフェでケーキを食べたい。もう一度、勉強を教えてあげたい。もう一度……
だが溢れ出る思いを彼女に伝えられるだけの時間はなかった。
「さよなら……元気でね」
最後に涙と笑顔を浮かべた彼女は、真っ暗な沖に向かって海の中を駆け出していった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる