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第2章 敏腕プロデューサーと売れっ子アイドル
22 未来
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「ぐあああああああああ」
この声は獰猛な肉食獣のものでも、街を襲う巨大怪獣のものでもない。勉強中だったエリカさんが、突如テーブルに突っ伏した時に発したものである。
「どうかしましたか?」
傍で尋ねると、エリカさんはテーブルに顔を埋めたまま視線だけをこちらに向けてきた。それはもう、眼光に殺意をたっぷりと宿しながら。
「どうかしましたか、じゃないわよ……見りゃあ分かるでしょ。もう疲れたの」
5月下旬の休日。夕方から僕と部活帰りのエリカさんは我が家のフリールームで勉強会を開いていた。
目的は言うまでもなく、エリカさんの絶望的な学力を少しでも救済すること。
意外なことに今回はエリカさんのほうから「勉強を教えてほしい」と頼んできた。どうやら高校の単位取得がいよいよ崖っぷちの状況まで来ていると先日教師から宣告されたらしく、楽観病の彼女の危機感にもようやく火がついたようだ。
これまで徹底的に勉強から目を背け続けてきた彼女が自ら進んで教えを乞うてきたことに感心するあまり、柄にもなく進んで彼女の指導役を引き受けたわけなのだが、
「まだ再開してから10分しか経過していませんが?」
この為体には、僕のほうこそ頭を抱えたくなっていた。
「10分じゃないよ! 休憩前にも結構やったじゃん!」
たしかにこの前にも40分ほど続けて英語を勉強をしていた。それから10分ほど休憩を挟んでから第2ピリオドの数学を始めたのだが、どうやら彼女は一度消費してしまった集中力のエネルギーはしばらく休まないと回復しないらしい。
「もう少しだけ頑張りませんか?」
「むりぃ……ダンスの練習で疲れてるし、お腹も減ったぁ……」
教えていて分かったが、彼女は元から記憶力と理解力はそれほど悪くない。優秀な両親の遺伝子を多少なりとも受け継いでいるはずなのだから当然だろう。ただ致命的にやる気と集中力が足りないだけ。やり方さえ工夫すれば伸び代はあるはずだ。
「仕方ありません。では少し休憩がてら場所を変えましょう」
人間の脳には〝場所ニューロン〟という細胞が存在する。詳しく説明しようとすると長くなるが、要は居場所を変えるだけで記憶に用いられる海馬という部位が活性化するという話だ。つまり場所を変えるというのは単に気分転換になるだけでなく、学習効率を高めるという意味でも効果が期待できるのである。
「それならあたしの部屋にしよ!」
「ダメです、あんな部屋ではとても勉強に集中できるとは思えません」
今回はエリカさんのブーイングにも屈してやるわけにはいかない。あの部屋には、学業の妨げとなるような誘惑物質があまりに多すぎる。
「駅前の喫茶店にしましょうか」
代わりに提示した案を不承不承ながら受け入れてくれたようで、エリカさんは素直に「はーい」と返事をしながら、テーブルの上に広げていた学習道具を片付け始めた。
「はあ……君がこんなドSだなんて思わなかったわ」
彼女のため息交じりの独り言は聞こえなかったことにして、僕も外出する準備に取り掛かった。
行きつけの駅前の喫茶店に入った僕たちは、これまた以前と同じテーブルに向かい合って座り、まずはドリンクを注文した。
「はあー、生き還ったぁ!」
先ほどまで本当にエネルギーが尽きかけていたのだろうか、彼女は抹茶ラテを一口啜って心底幸せそうな表情を浮かべた。甘いものを飲み食いしながらだと勉強が捗らないので、ひとまず学習道具は出さずにしばし歓談の時間とすることにした。
「そういえば、例のストーカーの一件はどうなりましたか?」
「え……ああ、うん。もうすっかり落ち着いたわ」
「実生活で何かトラブルに巻き込まれてなどいませんか?」
「ううん、なーんにも。すっごく平和な毎日よ」
先日僕の提案で〝彼氏持ちアピール作戦〟を決行して以降、例のサイバーストーカーからのエリカさんに対するアプローチが止まったことは、すでに僕も知っている。あれから万が一にも報復などされてないかという懸念もあったが、彼女の話を聞く限り、それも杞憂だったみたいだ。
ちなみにその後、あの【みのっち】というツイッターアカウントは消去されることもなく、何事もなかったかのように今でも平凡なツイートを続けている。どうやらエリカさんのことは潔く諦めてくれたらしい。一番後腐れのない形で事態が終息したようで何よりだ。
「それはよかったです。僕も一肌脱いだ甲斐がありました」
「ほんと、すごく助かったわ。やっぱりコーダイを頼って正解だった」
思いがけなく素直に礼を言われると、逆になんだか気恥ずかしくなる。
「いいえ、タレントを守るのも、マネジメントの仕事のうちですから」
「なら、これからも頼りにしてるわよ、プロデューサー」
そう言って彼女は抹茶オレのグラスを差し出してきたので、僕もなんとなく手元の——当然、アイスコーヒーのグラスを持って軽く打ち合った。何の意味の乾杯なのだろう、これは。
慣例にならって一口飲んでからグラスを置くと、エリカさんはわずかに顔をこちらに寄せ、トーンを抑えた声で言った。
「それでだけど、これからどうしよっか? ニセ恋人関係、まだ続けていく?」
その件についてはすでに思案していたので、僕は即座に用意していた答えを返す。
「しばらくは続けていたほうがいいと思います。まだ完全に熱りが冷めたとは言い切れませんし」
あまりに早くフリーになったことを明かしてしまうと、また【みのっち】くんのストーカー性分が再熱するかもしれない。
「コーダイはそれでいいの?」
「構いませんよ。どのみち乗り掛かった船ですから、エリカさんが高校を卒業するくらいまではお付き合いします。無論、エリカさんに本物の恋人ができる予定があるのなら別ですが」
「ううん、いい……君が構わないって言うなら、もうしばらく続けさせてもらうわ」
「わかりました」
「それじゃあ今日も1枚いただくわね」
そう言って彼女は僕の手元にスマホのカメラを向け、ツイッターで【彼氏とデートなう】に使うための写真を撮影した。
その後は二人向かい合って勉強会の続きに取り組むも、またもやすぐにエリカさんはギブアップしてしまい、結局30分ほどで店を出ることになった。
外はすでに暗かった。時刻はもうすぐ19時を迎えるところだったので、僕らはそのまま真っ直ぐ家に帰ることにした。
「来週もやりましょうか、勉強会」
「うう……」
エリカさんは疲労と嫌気が滲み出た表情で小さく唸った。たいそう嫌そうだが、それでも峻拒しなかったのは感心だ。僕も人間だから、辛くとも頑張ろうとしている人間を見れば応援したくもなる。
「辛いのは分かりますが、学業なんて今だけの辛抱ですよ」
「うへえ……先が思いやられる……」
「ではもっと先の話をしましょう。エリカさんは、高校卒業後は何かやりたいことはありますか?」
「やりたいこと? それはもちろん、今みたいにウィーチューバー続けていくことだけど」
エリカさんの高校卒業の大まかな進路希望は以前も聞いたことがある。大学へは行かず、本業のウィーチューバーとして活動を続けていくとのことだ。
「しかし学業がなくなれば今よりも自由な時間が増えると思います。せっかくですから、何か新しいことに挑戦してみては?」
「新しいことかあ……そうねえ……」
特に何も考えてなかったのか、エリカさんは夜道を歩きながら視線を星空へと向けたが、すぐに何かを閃いたようだった。
「あたし、本格的に歌とダンスやってみたい」
「音楽活動に本腰を入れるつもりですか?」
「一応アイドル目指してるんだもん。それでいつかメジャーデビューできたらいいなぁ……なんて思ったり?」
いつもその場の思いつきだけで行動しているようなエリカさんがこうして将来の夢を語るのは、なんだか新鮮だった。
「それは素晴らしいと思います」
これに対するエリカさんの応答はなく、代わりに「君は?」といつになく淑やかな声で質問を切り返してきた。
最初、僕は自分の将来のことを聞き返されたのかと思った。
僕の将来の筋書きなんて概ね決まっている。高校を卒業したらそのまま秀央大学に内部進学し、その後は何らかの形で家の会社の経営に携わっていく。そしてゆくゆくは父の跡を継ぎ、巨大財閥の未来を牽引することになる。
そのことを答えようと準備していたのだが、寸前、エリカさんがもう一度大人しい声で言った。
「君はいつまで《リカリカ》のプロデューサーでいてくれる?」
その質問に、僕はすぐに応じることができなかった。
僕はいつまで《リカリカ》のプロデューサーを続けていくのだろうか。
そんなこと考えたこと……ないわけではなかった。
僕が《リカリカ》とプロデューサー契約を結んだのは、元はといえば実戦的なビジネスの経験を積むことが目的だった。
その目的はすでに概ね達成されたと言える。次のステップに進むことを考えるならば、今すぐ彼女とのビジネスパートナーの関係は解消し、より実戦的な会社経営を学ぶための取り組みに移行するべきだと思う。将来僕は世界を相手にビジネスをしなければならないのであり、それに比べたら、無名のウィーチューバーをプロデュースすることなんて児戯に等しい。
だけど、僕は彼女のプロデューサーをやめようと考えたことはなかった。
自分は何者かという問いに対して、今の僕は〝高校生〟でも〝天王家の御曹司〟でもなく〝ウィーチューバー《リカリカ》の専属プロデューサー〟だと自答する。それくらい、彼女はすでに僕の人生から切り離しがたい存在になっていた。
やるべきことと、やりたいこと。
論理的に考えればどちらを優先すべきかは明らかだ。
それでも未だに僕は決めかねていた。
僕は将来、何を選択していけば良いのだろうか……
「分かりません、それは僕にも」
今ここで無責任なことを言うわけにもいかないので、正直に答える他なかった。
「そう……」
彼女は具体的な返答を求めては来なかった。それほど僕がプロデューサーであり続けることに拘りはないということだろうか。
住宅地に入ってからは周囲の迷惑を考えて静かに歩き、程なしくて互いの自宅の前に到着した。
別れを言おうとしたら、その前に彼女は僕に「少し待ってて」と言って急ぎ足で自宅に入っていった。
言われたとおりに玄関の前でしばらく立っていると、数分後、彼女は同じ服装のまま再び扉を開けて出てきた。カバンは置いてきたようだが、代わりに左手を何やら背中の後ろに隠している。相変わらず彼女のサプライズは分かりやすい。
お待たせ、と言いながら僕の前に立ったエリカさんは、別段間を置くこともなく背中に隠していたものを僕に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
エリカさんから渡されたのは、ちょっとお洒落な紙袋だった。
「……これは?」
「誕プレよ。コーダイ、一昨日誕生日だったでしょ?」
たしかに一昨日は僕の誕生日だった。
「なによ、その顔。嬉しくないの?」
「あ……いえ、そういうわけでは……」
嬉しい……のかもしれないし、そうでないのかもしれない。これまでの人生で誕生日に他人からプレゼントを貰った経験が一度もなかったから、心身がどのように反応したら良いのかを知らなかった。
「もうっ、いいから早く開けてみてよ!」
エリカさんが焦ったそうに言うので、僕は紙袋を丁寧に開封し、中に入っていたものを手に取った。
「これは……」
それは帽子だった。具体的にいえば、ゴールデンウィークに彼女と二人でお台場に行った時、デパートのアパレル店で見かけた、あの紺色の中折れ帽である。
しばし呆然としていたら、先にエリカさんのほうが居た堪れなくなったみたいに捲し立ててきた。
「仕方ないじゃない! 君、他のものに全然興味なさそうなんだもん!」
そういえばゴールデンウィークにお台場のデパートに行った時、エリカさんは僕に「ほしい物はないか?」と尋ねてきた。今思えば、あれは僕へのプレゼントの探りを入れるためだったのかもしれない。
そんな彼女には、この帽子は僕が唯一興味を示したものであるように見えたわけだ。
「別に気に入らなかったら、フリマにでも売り出してくれて良いわよ」
正直言うと、僕はそれほど帽子に興味があったわけではない。
だけど、そんな野暮なことを口にするほど、僕はもう〝箱入り息子〟ではない。
「いいえ、そんなことありません」
それに興味がなかったのは、あくまでデパートの店に展示されていた帽子である。エリカさんの手から贈られたこの帽子は、また別物だ。
「ありがとうございます……とても嬉しいです」
エリカさんが僕のためにプレゼントを考えてくれた。
わざわざお台場まで行って買って来てくれた。
そんな他者を思う心の尊さを、僕はいま初めて実感した。
「どういたしまして……」
この時の彼女は向かい合っていたにも関わらず、珍しく僕の目をまっすぐに見ていなかった。
しばし夜道に流れる静寂の時間。先に耐えられなくなったのは、やはり彼女のほうだ。
「ほらほら眺めてばっかりないで、被ってみてよ」
彼女が強い語気で迫ってくるので、僕は言われるがまま帽子を身につけてみた。頭に乗せた感覚はしっくりくるが、肝心な見た目が自分では確認できない。
「どうでしょうか?」
エリカさんに評価を求めると、
「ごめん、暗くてよく見えないから、もう少し顔近づけるね」
彼女はゆっくり僕との距離を詰めてきた。
「正面から見たい。ちょっと膝を屈めてくれない?」
言われたとおり、少しだけ膝を屈める。
「近くで目が合うの恥ずかしいから、ちょっと目を瞑って」
言われたとおり、目を瞑る。
それから光も音もない時間が何秒か経過する。
随分じっくりと観察してくれているな——
そんなことを思った次の瞬間、
唐突に、僕の唇に温かく柔らかい感触が伝わった。
この声は獰猛な肉食獣のものでも、街を襲う巨大怪獣のものでもない。勉強中だったエリカさんが、突如テーブルに突っ伏した時に発したものである。
「どうかしましたか?」
傍で尋ねると、エリカさんはテーブルに顔を埋めたまま視線だけをこちらに向けてきた。それはもう、眼光に殺意をたっぷりと宿しながら。
「どうかしましたか、じゃないわよ……見りゃあ分かるでしょ。もう疲れたの」
5月下旬の休日。夕方から僕と部活帰りのエリカさんは我が家のフリールームで勉強会を開いていた。
目的は言うまでもなく、エリカさんの絶望的な学力を少しでも救済すること。
意外なことに今回はエリカさんのほうから「勉強を教えてほしい」と頼んできた。どうやら高校の単位取得がいよいよ崖っぷちの状況まで来ていると先日教師から宣告されたらしく、楽観病の彼女の危機感にもようやく火がついたようだ。
これまで徹底的に勉強から目を背け続けてきた彼女が自ら進んで教えを乞うてきたことに感心するあまり、柄にもなく進んで彼女の指導役を引き受けたわけなのだが、
「まだ再開してから10分しか経過していませんが?」
この為体には、僕のほうこそ頭を抱えたくなっていた。
「10分じゃないよ! 休憩前にも結構やったじゃん!」
たしかにこの前にも40分ほど続けて英語を勉強をしていた。それから10分ほど休憩を挟んでから第2ピリオドの数学を始めたのだが、どうやら彼女は一度消費してしまった集中力のエネルギーはしばらく休まないと回復しないらしい。
「もう少しだけ頑張りませんか?」
「むりぃ……ダンスの練習で疲れてるし、お腹も減ったぁ……」
教えていて分かったが、彼女は元から記憶力と理解力はそれほど悪くない。優秀な両親の遺伝子を多少なりとも受け継いでいるはずなのだから当然だろう。ただ致命的にやる気と集中力が足りないだけ。やり方さえ工夫すれば伸び代はあるはずだ。
「仕方ありません。では少し休憩がてら場所を変えましょう」
人間の脳には〝場所ニューロン〟という細胞が存在する。詳しく説明しようとすると長くなるが、要は居場所を変えるだけで記憶に用いられる海馬という部位が活性化するという話だ。つまり場所を変えるというのは単に気分転換になるだけでなく、学習効率を高めるという意味でも効果が期待できるのである。
「それならあたしの部屋にしよ!」
「ダメです、あんな部屋ではとても勉強に集中できるとは思えません」
今回はエリカさんのブーイングにも屈してやるわけにはいかない。あの部屋には、学業の妨げとなるような誘惑物質があまりに多すぎる。
「駅前の喫茶店にしましょうか」
代わりに提示した案を不承不承ながら受け入れてくれたようで、エリカさんは素直に「はーい」と返事をしながら、テーブルの上に広げていた学習道具を片付け始めた。
「はあ……君がこんなドSだなんて思わなかったわ」
彼女のため息交じりの独り言は聞こえなかったことにして、僕も外出する準備に取り掛かった。
行きつけの駅前の喫茶店に入った僕たちは、これまた以前と同じテーブルに向かい合って座り、まずはドリンクを注文した。
「はあー、生き還ったぁ!」
先ほどまで本当にエネルギーが尽きかけていたのだろうか、彼女は抹茶ラテを一口啜って心底幸せそうな表情を浮かべた。甘いものを飲み食いしながらだと勉強が捗らないので、ひとまず学習道具は出さずにしばし歓談の時間とすることにした。
「そういえば、例のストーカーの一件はどうなりましたか?」
「え……ああ、うん。もうすっかり落ち着いたわ」
「実生活で何かトラブルに巻き込まれてなどいませんか?」
「ううん、なーんにも。すっごく平和な毎日よ」
先日僕の提案で〝彼氏持ちアピール作戦〟を決行して以降、例のサイバーストーカーからのエリカさんに対するアプローチが止まったことは、すでに僕も知っている。あれから万が一にも報復などされてないかという懸念もあったが、彼女の話を聞く限り、それも杞憂だったみたいだ。
ちなみにその後、あの【みのっち】というツイッターアカウントは消去されることもなく、何事もなかったかのように今でも平凡なツイートを続けている。どうやらエリカさんのことは潔く諦めてくれたらしい。一番後腐れのない形で事態が終息したようで何よりだ。
「それはよかったです。僕も一肌脱いだ甲斐がありました」
「ほんと、すごく助かったわ。やっぱりコーダイを頼って正解だった」
思いがけなく素直に礼を言われると、逆になんだか気恥ずかしくなる。
「いいえ、タレントを守るのも、マネジメントの仕事のうちですから」
「なら、これからも頼りにしてるわよ、プロデューサー」
そう言って彼女は抹茶オレのグラスを差し出してきたので、僕もなんとなく手元の——当然、アイスコーヒーのグラスを持って軽く打ち合った。何の意味の乾杯なのだろう、これは。
慣例にならって一口飲んでからグラスを置くと、エリカさんはわずかに顔をこちらに寄せ、トーンを抑えた声で言った。
「それでだけど、これからどうしよっか? ニセ恋人関係、まだ続けていく?」
その件についてはすでに思案していたので、僕は即座に用意していた答えを返す。
「しばらくは続けていたほうがいいと思います。まだ完全に熱りが冷めたとは言い切れませんし」
あまりに早くフリーになったことを明かしてしまうと、また【みのっち】くんのストーカー性分が再熱するかもしれない。
「コーダイはそれでいいの?」
「構いませんよ。どのみち乗り掛かった船ですから、エリカさんが高校を卒業するくらいまではお付き合いします。無論、エリカさんに本物の恋人ができる予定があるのなら別ですが」
「ううん、いい……君が構わないって言うなら、もうしばらく続けさせてもらうわ」
「わかりました」
「それじゃあ今日も1枚いただくわね」
そう言って彼女は僕の手元にスマホのカメラを向け、ツイッターで【彼氏とデートなう】に使うための写真を撮影した。
その後は二人向かい合って勉強会の続きに取り組むも、またもやすぐにエリカさんはギブアップしてしまい、結局30分ほどで店を出ることになった。
外はすでに暗かった。時刻はもうすぐ19時を迎えるところだったので、僕らはそのまま真っ直ぐ家に帰ることにした。
「来週もやりましょうか、勉強会」
「うう……」
エリカさんは疲労と嫌気が滲み出た表情で小さく唸った。たいそう嫌そうだが、それでも峻拒しなかったのは感心だ。僕も人間だから、辛くとも頑張ろうとしている人間を見れば応援したくもなる。
「辛いのは分かりますが、学業なんて今だけの辛抱ですよ」
「うへえ……先が思いやられる……」
「ではもっと先の話をしましょう。エリカさんは、高校卒業後は何かやりたいことはありますか?」
「やりたいこと? それはもちろん、今みたいにウィーチューバー続けていくことだけど」
エリカさんの高校卒業の大まかな進路希望は以前も聞いたことがある。大学へは行かず、本業のウィーチューバーとして活動を続けていくとのことだ。
「しかし学業がなくなれば今よりも自由な時間が増えると思います。せっかくですから、何か新しいことに挑戦してみては?」
「新しいことかあ……そうねえ……」
特に何も考えてなかったのか、エリカさんは夜道を歩きながら視線を星空へと向けたが、すぐに何かを閃いたようだった。
「あたし、本格的に歌とダンスやってみたい」
「音楽活動に本腰を入れるつもりですか?」
「一応アイドル目指してるんだもん。それでいつかメジャーデビューできたらいいなぁ……なんて思ったり?」
いつもその場の思いつきだけで行動しているようなエリカさんがこうして将来の夢を語るのは、なんだか新鮮だった。
「それは素晴らしいと思います」
これに対するエリカさんの応答はなく、代わりに「君は?」といつになく淑やかな声で質問を切り返してきた。
最初、僕は自分の将来のことを聞き返されたのかと思った。
僕の将来の筋書きなんて概ね決まっている。高校を卒業したらそのまま秀央大学に内部進学し、その後は何らかの形で家の会社の経営に携わっていく。そしてゆくゆくは父の跡を継ぎ、巨大財閥の未来を牽引することになる。
そのことを答えようと準備していたのだが、寸前、エリカさんがもう一度大人しい声で言った。
「君はいつまで《リカリカ》のプロデューサーでいてくれる?」
その質問に、僕はすぐに応じることができなかった。
僕はいつまで《リカリカ》のプロデューサーを続けていくのだろうか。
そんなこと考えたこと……ないわけではなかった。
僕が《リカリカ》とプロデューサー契約を結んだのは、元はといえば実戦的なビジネスの経験を積むことが目的だった。
その目的はすでに概ね達成されたと言える。次のステップに進むことを考えるならば、今すぐ彼女とのビジネスパートナーの関係は解消し、より実戦的な会社経営を学ぶための取り組みに移行するべきだと思う。将来僕は世界を相手にビジネスをしなければならないのであり、それに比べたら、無名のウィーチューバーをプロデュースすることなんて児戯に等しい。
だけど、僕は彼女のプロデューサーをやめようと考えたことはなかった。
自分は何者かという問いに対して、今の僕は〝高校生〟でも〝天王家の御曹司〟でもなく〝ウィーチューバー《リカリカ》の専属プロデューサー〟だと自答する。それくらい、彼女はすでに僕の人生から切り離しがたい存在になっていた。
やるべきことと、やりたいこと。
論理的に考えればどちらを優先すべきかは明らかだ。
それでも未だに僕は決めかねていた。
僕は将来、何を選択していけば良いのだろうか……
「分かりません、それは僕にも」
今ここで無責任なことを言うわけにもいかないので、正直に答える他なかった。
「そう……」
彼女は具体的な返答を求めては来なかった。それほど僕がプロデューサーであり続けることに拘りはないということだろうか。
住宅地に入ってからは周囲の迷惑を考えて静かに歩き、程なしくて互いの自宅の前に到着した。
別れを言おうとしたら、その前に彼女は僕に「少し待ってて」と言って急ぎ足で自宅に入っていった。
言われたとおりに玄関の前でしばらく立っていると、数分後、彼女は同じ服装のまま再び扉を開けて出てきた。カバンは置いてきたようだが、代わりに左手を何やら背中の後ろに隠している。相変わらず彼女のサプライズは分かりやすい。
お待たせ、と言いながら僕の前に立ったエリカさんは、別段間を置くこともなく背中に隠していたものを僕に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
エリカさんから渡されたのは、ちょっとお洒落な紙袋だった。
「……これは?」
「誕プレよ。コーダイ、一昨日誕生日だったでしょ?」
たしかに一昨日は僕の誕生日だった。
「なによ、その顔。嬉しくないの?」
「あ……いえ、そういうわけでは……」
嬉しい……のかもしれないし、そうでないのかもしれない。これまでの人生で誕生日に他人からプレゼントを貰った経験が一度もなかったから、心身がどのように反応したら良いのかを知らなかった。
「もうっ、いいから早く開けてみてよ!」
エリカさんが焦ったそうに言うので、僕は紙袋を丁寧に開封し、中に入っていたものを手に取った。
「これは……」
それは帽子だった。具体的にいえば、ゴールデンウィークに彼女と二人でお台場に行った時、デパートのアパレル店で見かけた、あの紺色の中折れ帽である。
しばし呆然としていたら、先にエリカさんのほうが居た堪れなくなったみたいに捲し立ててきた。
「仕方ないじゃない! 君、他のものに全然興味なさそうなんだもん!」
そういえばゴールデンウィークにお台場のデパートに行った時、エリカさんは僕に「ほしい物はないか?」と尋ねてきた。今思えば、あれは僕へのプレゼントの探りを入れるためだったのかもしれない。
そんな彼女には、この帽子は僕が唯一興味を示したものであるように見えたわけだ。
「別に気に入らなかったら、フリマにでも売り出してくれて良いわよ」
正直言うと、僕はそれほど帽子に興味があったわけではない。
だけど、そんな野暮なことを口にするほど、僕はもう〝箱入り息子〟ではない。
「いいえ、そんなことありません」
それに興味がなかったのは、あくまでデパートの店に展示されていた帽子である。エリカさんの手から贈られたこの帽子は、また別物だ。
「ありがとうございます……とても嬉しいです」
エリカさんが僕のためにプレゼントを考えてくれた。
わざわざお台場まで行って買って来てくれた。
そんな他者を思う心の尊さを、僕はいま初めて実感した。
「どういたしまして……」
この時の彼女は向かい合っていたにも関わらず、珍しく僕の目をまっすぐに見ていなかった。
しばし夜道に流れる静寂の時間。先に耐えられなくなったのは、やはり彼女のほうだ。
「ほらほら眺めてばっかりないで、被ってみてよ」
彼女が強い語気で迫ってくるので、僕は言われるがまま帽子を身につけてみた。頭に乗せた感覚はしっくりくるが、肝心な見た目が自分では確認できない。
「どうでしょうか?」
エリカさんに評価を求めると、
「ごめん、暗くてよく見えないから、もう少し顔近づけるね」
彼女はゆっくり僕との距離を詰めてきた。
「正面から見たい。ちょっと膝を屈めてくれない?」
言われたとおり、少しだけ膝を屈める。
「近くで目が合うの恥ずかしいから、ちょっと目を瞑って」
言われたとおり、目を瞑る。
それから光も音もない時間が何秒か経過する。
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