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 招待祭が幕を閉じてから、十日が過ぎた。
 ローマリアの民たちは落ち着きを取り戻し、いつもと変わらぬ日常が顔を覗かせつつある。

 しかしながら、招待祭の主役となったナーナルとエレンには、ゆっくりと過ごす余裕はまだない。

 ティリス率いるカロック商会が取り潰しとなり、所有していた商材権の没収・引き渡しに伴い、エレンは連日ルベニカ商会に足を運んでいた。
 ルベニカ商会の商長ゼントと交わした契約で、元々はクノイル商会が所有していた商材権の全てを譲渡する手筈になっていたが、皇都に戻ったばかりのエレン一人が抱えるには、思いのほかに量が多かったのだ。

 そのため、一時的にロニカが声を上げ、クノイル商会が居を構えて再び旗揚げするまでの間、手を貸す新たな契約を結ぶことになった。

 一方でナーナルはというと、カロック商会から取り返した商材権の数々と睨めっこし、気になる点を見つけては顔を出し、一つ一つ解決できるように奮闘していた。

 ティリスは、クノイル商会の商材権を丸ごと手に入れるまではよかったが、これまでとは異なる商材を上手く扱うほどの手腕はなく、杜撰な管理体制であった。
 それもそのはず、貴族への袖の下に始まり、カロック商会の傘下に付かない商人に対するあからさまな妨害工作や、締め出す行為が横行していたのだ。
 そんな中でまともに管理することができるはずもなく、その結果、十年にも及ぶカロック商会のツケを、今まさにクノイル商会が支払う形となっている。

 ナーナルには、貸本喫茶を開くという夢がある。
 そちらを優先し、クノイル商会の件はエレンとロニカに任せることもできたのだが、ナーナルは自分がクノイル商会の一員だという自負がある。
 ナーナルが困ったときに、エレンが手を差し伸べてくれるように、その逆もしかり。今は貸本喫茶を開くことよりも、エレンの力になりたいという想いが強く前に出ていた。

 とはいえ、仕事に追われる日々をただ淡々と繰り返すだけでは、疲れが溜まる一方だ。
 だからだろうか、ナーナルが癒しを求めたとしても不思議ではない。

「ふう……今日の分は、これでおしまいかしら?」

 書類の整理が一段落したナーナルは、大きく背伸びをする。そしてちらりと横に目を向けた。
 視線の先に映るのは、同じく仕事をこなしていたエレンだ。

「ああ、ナーナルのおかげで予定より早く片付いたよ。ありがとう」

 手を止め、エレンが返事をする。
 顔を向け、目を合わせ、言葉を交わす。それだけでナーナルは疲れが吹き飛ぶような気がした。

「すぐにご飯の支度をするから、ナーナルは少し休んでいてくれ」

 忙しい中にあっても、エレンは手を抜かない。既に下ごしらえは終えている。
 あとはほんの少し手間を加えるだけだ。

 だが、そうじゃない。そうじゃないのだ。
 ナーナルにとって、体を休めるよりも大事なことがある。

「ねえ、エレン? 休む前に、わたしから一つ提案があるの」

 席を立ち、台所に向かうエレンの背に、ナーナルが声をかける。
 そしておもむろに手を握る。

「……どうした?」
「ううん、えっとね……手を繋ぎたくなったから、繋いだの」
「手を?」
「ええ、……別にいいでしょう?」

 上目遣いに問いかける。
 すると、エレンは口元を僅かに緩めた。

「もちろんだ。……ああだが、このままだと料理をすることができないな」

 エレンが、ワザとらしく困ったような素振りを見せる。
 それを見たナーナルは、逆にもっと強く手を握る。

「それなら、わたしからもう一つ提案があるわ。ご飯の時間をちょっと遅らせるのはどうかしら?」

 時間を遅らせて、もっとこの時間を楽しみたい。
 つまるところ、ナーナルはエレンに甘えたいと言っているのだ。

「なるほど、それは名案だ」

 一つ屋根の下で寝食を共にして、手を繋ぐことも抱き締めてもらったことも、更にはキスをしたことだってあるナーナルだが、まだまだぎこちないし恥ずかしい気持ちが大きい。

 だからこそ、勇気を出す必要がある。
 そして勇気を出したからこそ得られるものがある。

「ところで、手を繋ぐだけでいいのか?」

 そんなナーナルの心中を理解し、エレンは同意する。
 そしていつものように意地悪な質問を口にした。

「……他にもいいの?」
「ナーナルがしたいなら、断る理由もない」
「じゃあ、……ぎゅってしてちょうだい」
「仰せのままに」

 あの日以来、キスはまだしていない。
 あのときは勢い任せな部分もあったから、一歩前に進むことができた。

「はぁ」

 ほっと、声が出る。
 エレンに抱き締めてもらうことで、心から安心することができる。

 次にキスをするのは、いつになるのか。今はまだ分からない。
 けれども今はこの安心感を得られるだけで充分だ。

 それでもどうしようもなく我慢できなくなったときは、もう一度勢いを付ける必要があるだろう。
 その勢いをどうやって付けるかが難問だ。

 目を閉じてエレンに身を任せながらも、ナーナルはそんなことを考えているのであった。
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