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「すまない、此処は君の縄張りだったんだな。長居はしないから、少しだけ置いてくれないか」

 グロムの――というか、人族大陸《ミュステン》の人間は、誰も彼もが、身近な動物に親しげに語りかける。勇者であるヨゼフもそれは変わりないようだった。
 『んなーん』と気安い鳴き声を上げてみせれば、少しばかり強ばっていたヨゼフの笑みがより柔らかいものになった。

「……ありがとう」

 どうやらこの男、猫相手にも大分気を遣うたちのようだ。気遣いというか、居たたまれなさが全身から滲み出ている。……なんだか他人のようには思えなくなってきたな。
 分かるぞ。先客がいると、俺本当に此処に居て良いのかな、みたいな感じになっちゃうよな。
 ついでに言うと、例え俺が先客だったとしても、後から来た奴らが我が物顔で居ると「あっ、此処は不味いのか」みたくなって出て行きたくなっちゃうよな。すげー分かる。
 記憶の底から蘇った苦々しい思い出に、知らず、しんみりした気持ちで勝手に共感してしまった。

 ボロボロの長椅子の中でも幾分まともなものを選んで腰掛けたヨゼフに、そろりと近づく。何故かは知らないが、どうにもかなり落ち込んでいるように見えたのだ。
 勇者様を相手に俺が出来ることなんて殆どないだろうが、もし彼が猫を撫でて気を紛らわせることが出来るタイプだったなら、俺の毛並みくらいは使って欲しいと思った。

『なーん』
「……はは、なんだ、慰めてくれるのか?」
『なふ』
「ありがとう。…………きっと今の僕は、君にも分かるほど、顔色が悪いんだろうな」
『…………』

 その言葉は紛れもなく事実だったが、俺は何も答えること無くその場で腹を見せて転がった。
 猫はこういう時に言葉で空気を読まなくて良いから、ちょっと楽だ。全身を使った『俺の腹を撫でろ』という脈絡の無い要求に、ヨゼフは苦笑しつつ革手袋を外して俺の腹をもしゃもしゃと撫でた。予想通りの、優しい手つきだった。

 どのくらい腹を撫でていただろうか。
 優しい手つきながら的確に気持ちの良いところを撫でてくる素晴らしい手に若干意識が朦朧とし始めた頃、ヨゼフは独り言のように呟き出した。

「…………やっぱり、僕は、もしかしたら、とんでもないことをしてしまったのかもしれない」
『んにぃ?』

 実際独り言なんだろう。親しげに語りかけてきたとしても猫に相談事をする人間は――まあ、画家志望のお姉さんとかは結構相談してくるが――早々居ない。
 俯いたヨゼフは膝の上の俺を見つめたまま、微かに震える声で続けた。

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