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王子とあたしと毒林檎
19.5話 フラクタル
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年中雪が降り積もる土地がここではないどこかにあるらしい。
誰もが当たり前に知っているその事実を『らしい』なんて表現したのは、実際に肉眼で観測したこともなければ、その土地に足を踏み入れたこともないからだ。当たり前のことなのを完全に受け入れていないのは、私の面倒くさい性格のせい。
けれど最近は、見ても踏み入れてもいないのにその事実を受け入れてしまいそうな自分の姿もあった。
違和感は雪とよく似ている。
一向に溶けることなく、むしろ降り積もるばかりのそれに埋もれた私は、息苦しさを感じている。生き苦しさかもしれない。
年中寒い土地でもなく四季の巡るここでも、雪の解けない場所は確かに存在しているのだ。
「あぁ、僕がもっと早く気付いていれば…… 白雪、どうかそのまぶたをあけてはくれないか」
茶器に漆を塗るように、私は何回も何回もその言葉を耳にする。わたしではなく私にもあたしにも投げかけられているようにも思えたソレは、早く染まってしまえと言わんばかりに耳に張り付く。
――早く気付いていれば。楽だったかもしれない。
――そのまぶたをあけてはくれないか。広がる世界を受け入れろと言われているよう。
続く言葉の後に静寂は消え、光さえも雲隠れ。それは覆いかぶさるように迫る彼女がもたらしたものではない。
雰囲気が出るから、その理由だけで変えられた演出がそうさせている。
すぐ横を顔が通り、髪が鼻先に触れたところでいつも通り身体を起こす、
――はずだった。
事故だったかどうかなんてものは知らない。ただ、私にとって酷く残酷で乱暴で、暴力的なその行為にただただ身を震わせていた。
唇から全身へ、柔らかくほのかに甘い知らない感触を受け入れられずに、とっさに手が出てしまった。
頬を叩いたのは多分、これが人生で初めてだと思う。
暗闇の中、静寂を切り裂いた音が嫌なくらいに反響する。
その余韻が追及する罪の意識は私を苛め、伝播する違和感は周りを困惑で包んだ。
「な、なに? 今の音」
「しょ、照明お願い! 」
咄嗟につけられた照明は目を焼くも、手前の彼女から視線を離すことなく、ただただ見つめた。
見たことのない顔、悲哀も悲観も憤怒もそこにはなく、身体にも心にも響いたであろうその衝撃に驚きを隠せないただの女の子が、そこにいた。
どよめきに包まれる私と綾乃はまるで台風の目のよう。互いに発さず静だけが横たわる。
唐突に降り注いだ違和感は雪というよりも霰に近い。
終業のチャイムを聴き、得も言われぬ空気感から逃げるようにクラスメイトが散る。ひとり、またひとりと。
息遣いだけが耳に届く。思うことも聴きたいことも私よりあっただろう。緊張か混乱か、喉からただ空気を送ることしかできない今の綾乃にかける言葉も気持ちも無い。
棺から抜け出して、彼女を置き去りにして、気持ちを置きざりにしてホールを出た。
右手は冷たくも熱くもなく、ただただ痛かった。
それからのことはよく覚えていない。クラスメイトも何かを察したように私に対しても彼女に対しても腫れもののように、触れないようにとしているのがわかる。
授業も先生の声と似たような音が聞こえてくるくらいの感覚でしかない。
書いては消され、書いては消される板書を見つめながら、時々唇に触れたりして時間を過ごしていた。
その忘れられない感触はずっと残っていて、けれど、それを鮮明にはもう覚えていなくて、かさぶたみたいにそこに居座り続けているのだ。
「たさん、多蔦さん?」
「え、あ、は、はい?」
「大丈夫ですか? ここ数日、心ここにあらずのようでしたし……一度保健室で休みに行きましょうか」
うまく隠せているものだと思っていたけど、自分でも気づかないうちにボロが出ていたのかもしれない。なんでも見透かしているような先生が少し苦手だ。
「そうね……東口さん。一緒に付いていってあげられないかしら? ファミリアの貴方になら、話せることなどもあるでしょうし」
ふたりよりも困惑していたのは周りだった。
先生の考えが間違っているわけではない。ただこのタイミングでふたりにさせられるのは、怖かった。
何をされるのかも何をしてしまうのかもわからない。
「行こう」
返答も待たずに彼女の指が私の指の隙間に這入り込む。連れられるまま廊下へと足を進める私達を見送る視線は不安とほんの少しの面白おかしさが込められているようだった。外野から見る分には面白いのだろう。分からないからこそ知りたくなるし、教えてくれないからこそ勝手に想像するんだ。みんな。
廊下の静けさの中でも私達を囲む沈黙は異質だった。
耐えきれず絡まる指を強引に振りほどいてつい、言ってしまった。
「何のつもり? この間からそうやって」
「なんの…… つもり?」
まるで自分の異質さに気づいていないような表情は逆撫でをされているようで、抑えきることはできず、
「おかしいじゃない! 言葉遣いも立ち振る舞いも、なにもかも! どうして劇以外でもそうなの? それに、それに…… あんなにきれいだったのに髪、切っちゃうし…… この間までの綾乃はどうしちゃったの!? ねぇ、」
「――今のあんたは誰なのよ!」
他の誰かに聞こえてしまうかもなんて考えは捨てていた。知りたくて、ただ知りたくて。いや、経緯なんて自分に対しての言い訳に過ぎない。
私は今、残酷で乱暴で、暴力的に今の彼女を否定したのだ。してしまったのだ。
「ぼ……」
あの時と同じ表情をしていた。
悲哀も悲観も憤怒もそこにはない。
「ぼ、僕は…… いや違う、わた、私?」
「ちょ、ちょっと、綾乃?」
「ごめ、ごめんなさい。私は、私は……」
同じように見えたソレは徐々に徐々にその異質さを見せ始め、私の中でも怒りより困惑の感情が膨れ上がる。自分の頬を髪を声を、必死に確かめようとしている彼女はどこかおかしい。
王子様でも綾乃でも誰もなく、薄幸でか弱いただの女の子が、私の瞳には映っている。
呆然と立ちすくむ彼女と、不安と後悔に飲み込まれた私。
されたようにして指を隙間に這入り込ませて廊下を歩き続けた。
彼女のひとりごとのように呟くそれだけが空しく響いて苛める。
答えられる者のいない問いかけに応えるものは居ない。
――私はいったい、誰なの?
誰もが当たり前に知っているその事実を『らしい』なんて表現したのは、実際に肉眼で観測したこともなければ、その土地に足を踏み入れたこともないからだ。当たり前のことなのを完全に受け入れていないのは、私の面倒くさい性格のせい。
けれど最近は、見ても踏み入れてもいないのにその事実を受け入れてしまいそうな自分の姿もあった。
違和感は雪とよく似ている。
一向に溶けることなく、むしろ降り積もるばかりのそれに埋もれた私は、息苦しさを感じている。生き苦しさかもしれない。
年中寒い土地でもなく四季の巡るここでも、雪の解けない場所は確かに存在しているのだ。
「あぁ、僕がもっと早く気付いていれば…… 白雪、どうかそのまぶたをあけてはくれないか」
茶器に漆を塗るように、私は何回も何回もその言葉を耳にする。わたしではなく私にもあたしにも投げかけられているようにも思えたソレは、早く染まってしまえと言わんばかりに耳に張り付く。
――早く気付いていれば。楽だったかもしれない。
――そのまぶたをあけてはくれないか。広がる世界を受け入れろと言われているよう。
続く言葉の後に静寂は消え、光さえも雲隠れ。それは覆いかぶさるように迫る彼女がもたらしたものではない。
雰囲気が出るから、その理由だけで変えられた演出がそうさせている。
すぐ横を顔が通り、髪が鼻先に触れたところでいつも通り身体を起こす、
――はずだった。
事故だったかどうかなんてものは知らない。ただ、私にとって酷く残酷で乱暴で、暴力的なその行為にただただ身を震わせていた。
唇から全身へ、柔らかくほのかに甘い知らない感触を受け入れられずに、とっさに手が出てしまった。
頬を叩いたのは多分、これが人生で初めてだと思う。
暗闇の中、静寂を切り裂いた音が嫌なくらいに反響する。
その余韻が追及する罪の意識は私を苛め、伝播する違和感は周りを困惑で包んだ。
「な、なに? 今の音」
「しょ、照明お願い! 」
咄嗟につけられた照明は目を焼くも、手前の彼女から視線を離すことなく、ただただ見つめた。
見たことのない顔、悲哀も悲観も憤怒もそこにはなく、身体にも心にも響いたであろうその衝撃に驚きを隠せないただの女の子が、そこにいた。
どよめきに包まれる私と綾乃はまるで台風の目のよう。互いに発さず静だけが横たわる。
唐突に降り注いだ違和感は雪というよりも霰に近い。
終業のチャイムを聴き、得も言われぬ空気感から逃げるようにクラスメイトが散る。ひとり、またひとりと。
息遣いだけが耳に届く。思うことも聴きたいことも私よりあっただろう。緊張か混乱か、喉からただ空気を送ることしかできない今の綾乃にかける言葉も気持ちも無い。
棺から抜け出して、彼女を置き去りにして、気持ちを置きざりにしてホールを出た。
右手は冷たくも熱くもなく、ただただ痛かった。
それからのことはよく覚えていない。クラスメイトも何かを察したように私に対しても彼女に対しても腫れもののように、触れないようにとしているのがわかる。
授業も先生の声と似たような音が聞こえてくるくらいの感覚でしかない。
書いては消され、書いては消される板書を見つめながら、時々唇に触れたりして時間を過ごしていた。
その忘れられない感触はずっと残っていて、けれど、それを鮮明にはもう覚えていなくて、かさぶたみたいにそこに居座り続けているのだ。
「たさん、多蔦さん?」
「え、あ、は、はい?」
「大丈夫ですか? ここ数日、心ここにあらずのようでしたし……一度保健室で休みに行きましょうか」
うまく隠せているものだと思っていたけど、自分でも気づかないうちにボロが出ていたのかもしれない。なんでも見透かしているような先生が少し苦手だ。
「そうね……東口さん。一緒に付いていってあげられないかしら? ファミリアの貴方になら、話せることなどもあるでしょうし」
ふたりよりも困惑していたのは周りだった。
先生の考えが間違っているわけではない。ただこのタイミングでふたりにさせられるのは、怖かった。
何をされるのかも何をしてしまうのかもわからない。
「行こう」
返答も待たずに彼女の指が私の指の隙間に這入り込む。連れられるまま廊下へと足を進める私達を見送る視線は不安とほんの少しの面白おかしさが込められているようだった。外野から見る分には面白いのだろう。分からないからこそ知りたくなるし、教えてくれないからこそ勝手に想像するんだ。みんな。
廊下の静けさの中でも私達を囲む沈黙は異質だった。
耐えきれず絡まる指を強引に振りほどいてつい、言ってしまった。
「何のつもり? この間からそうやって」
「なんの…… つもり?」
まるで自分の異質さに気づいていないような表情は逆撫でをされているようで、抑えきることはできず、
「おかしいじゃない! 言葉遣いも立ち振る舞いも、なにもかも! どうして劇以外でもそうなの? それに、それに…… あんなにきれいだったのに髪、切っちゃうし…… この間までの綾乃はどうしちゃったの!? ねぇ、」
「――今のあんたは誰なのよ!」
他の誰かに聞こえてしまうかもなんて考えは捨てていた。知りたくて、ただ知りたくて。いや、経緯なんて自分に対しての言い訳に過ぎない。
私は今、残酷で乱暴で、暴力的に今の彼女を否定したのだ。してしまったのだ。
「ぼ……」
あの時と同じ表情をしていた。
悲哀も悲観も憤怒もそこにはない。
「ぼ、僕は…… いや違う、わた、私?」
「ちょ、ちょっと、綾乃?」
「ごめ、ごめんなさい。私は、私は……」
同じように見えたソレは徐々に徐々にその異質さを見せ始め、私の中でも怒りより困惑の感情が膨れ上がる。自分の頬を髪を声を、必死に確かめようとしている彼女はどこかおかしい。
王子様でも綾乃でも誰もなく、薄幸でか弱いただの女の子が、私の瞳には映っている。
呆然と立ちすくむ彼女と、不安と後悔に飲み込まれた私。
されたようにして指を隙間に這入り込ませて廊下を歩き続けた。
彼女のひとりごとのように呟くそれだけが空しく響いて苛める。
答えられる者のいない問いかけに応えるものは居ない。
――私はいったい、誰なの?
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