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王子とあたしと毒林檎

17.5話 人魚姫は瞳を差し出した

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 夜の海なんてものに憧れを抱いていた頃もあったけれど、いざ目の前にしてみるとそんな感情は湧き上がらなくて、怖い。とただただ思わせられた。
 ましてや今日は月も雲隠れするような曇天。
 数歩先も見えない暗闇の中で聞こえるのは寄せては返す波の音。それはこちらに手招きするように、引きずり込もうとするように何回も何回も、囁くのだ。潮風に揺れるナイトウエアの裾をひとり握り締め、何をすることもなく立ち尽くしていた。
 
「君、一年生?」
 
 こんな時間のこんなところに来る人なんていないと思い込んでいたから、全身に稲妻のような電流が走る。飛び上がるほど驚いたわけではないけれど、動揺は足を絡めた。
 瞬間、喉につい立てでも建てられたかのように息ができなくて、そんな私に追い打ちをかけるよう、背中に伝わる衝撃が乱暴にも私から空気を奪ったのだ。
 耳鳴りと自分の呼吸の音が嫌にうるさくて、波の音なんて聞こえなくなった。
 代わりに寄せては返すよう私に伝わってくるのは生温い弾力。外から体を揺さぶられている感覚は酔ってしまいそうだ。
 
「君、君、大丈夫かい?」
 
 何寸か先も見えない暗闇の中から現れたのは、私を揺さぶるのは、同じナイトウエアを纏った、知らない人。
 
「いったん座って落ち着こう、立てるかい? ……いや、こういう場合は横になってもらったままの方が……」
「い、いえ、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけですから」
 
 胸の鼓動はいつもより早いけれど平静を装う。軽く汚れを払ってから立ち上がろうとすると、先ほどの弾力が私を支え強く結ばれた。
 
「どうしてこんな夜にこんなところ……って、私もか」
「――ありがとうございます」
「え、あぁ、どういたしまして」
 
 私と同じ疑問を持つ彼女に答えるよりもまずは礼が先だと、いつもより働かない頭が切り出した。
 ガタゴトと暗闇の中でまた異質な音を聞く。それは目の前からだったり頭上からだったり。
 
「眩しっ……」
 
 灯る明かりは闇に慣れた目を焼いた。東屋、と呼ぶらしい小さな建物に吊るされた白熱電球はまるで一番星。
 
「いつもついてないから知らなかったのかもしれないけど、ここ実は電気通ってるんだよ。って、君は一年生だからもしかしてはじめてか。一年生…… 一年生だよね? これで同級生だったら申し訳ない。朝食のデザートで許してはくれないかな」
 
 いや、一番星は電球なんかじゃなくて、目の前の彼女かもしれない。なんて思わされた。
 白く透き通った肌は橙に灯る電球に晒され赤みがかり、くせ毛とまではいかず波打つような黒髪は夜空よりも遠く、暗い。
 そのひとつひとつに現実感がなくて、けれど何よりも存在感を放っていて、不思議な先輩。今はこんな稚拙な表現でしかそれを表す言葉が見つからない。
 
「いち、一年生です。そういう先輩は?」
「に」
「一個上だったんですね」
「二個上だと思ったかい? 私ってそんな年上に見える?」
 
 正直、もっと上だと言われても驚きはしないだろう。別の意味で驚くかもしれないけれど。
 
「あ、あぁいや、そういうわけでは……」
「ぷふっ…… 冗談だよ。君、あんまり慌てたことないだろう。反応が初々しくてかわいい」
 
 介抱してもらったところこう思ってしまうのはどうかと思うけど、『めんどくさい先輩』に捕まってしまったな。と思ってしまった。
 しばらく沈黙が流れる。けれど居辛いという気持ちはなく、不思議と落ち着けた。目の前に座っているあの人は知らない人だというのに。
 間で灯る白熱電球の眩しさのおかげなのか、それともどこか人間離れした雰囲気を放っている先輩に充てられてしまっているのか。
 
「私、星を見に来たんだ。生憎、今日は見えないみたいだけど」
 
 光の向こうから声が届く。
 
「星、好きなんですか?」
「あぁ。手を伸ばしたら届いてしまうかもしれない、なんて思わせながらも人生をかけてもたどり着けないくらい遠くにある星々。なにでできているかだって、どれくらい遠いのかだって知らない。ただここから知ることができるのはその輝きだけ。言葉に表すのは得意ではないけれどこれは多分……ロマン、なんだと思う」
「星、好きなんですね」
「あぁ。君は?」
「考えたことありませんでした」
「そう」
 
 小学生の頃、校内の張り紙に天体観測会なんてものがあったのを思い出した。中学生の頃に県内の大学を校外学習と称して赴いて、天体望遠鏡を覗かせてもらったことも。
 子供はそういうのが好きだろうということで、大人はそういう機会を多く作ってくれていた気がする。星に触れる機会なんてたくさんあった。
 彼女だって、そうした入り口があったからこそ好きなんだろう。私はどうして好きにならなかったのか、いや、そもそも興味すら示さなかったんだろう。
 本音を吐露した私に嫌がる素振りもなにも示さない彼女の心は読めない。
 
「実は私、天文部に所属しているんだ。部員は私だけだけど。どうだろう。考えたことがないなら、これから一緒に考えてみる、なんてことは」
 
 そうきたか。
 包む暗闇と揺れる灯りは私の判断力を鈍らせているようで、すぐには答えを出せずにいた。沈黙が答え、そうとってくれてもいいものだけれど、先輩はただじっと私が口を開けるのを待っていた。
 
「……せっかく誘っていただいたところですが……すみません」
「他に入りたい部でも?」
「えぇ。それに、」
 
 それに
 
「地球のことを満足に知らないのに、外のことを知ろうとするなんて、おこがましいです」
 
 先輩の前では不思議と私でいられたせいか、心に留めておくだけで良かったそれをつい口に出してしまった。
 
「あっ、その、そうじゃないんです、えぇ。その」
 
 訂正の言葉なんて何ひとつ思いつかない。私は慌てているのに先輩はなぜかそれを楽しそうに眺めていた。
 
「ぷふっ、そんな断り文句は初めて聞いたよ。訂正だね。君はかわいいけれど、それ以上におもしろい。俄然、君が欲しくなってしまう」
 
 今日は暑くもないのによく汗をかく。
 先輩の気分を損ねなくて良かったけれど…… 今あの人なんて言った? 私が欲しい?
 
「そろそろ戻ろうかな。星が見えなくて無駄足だったと思っていたけれど、君に出会えておつりが来たよ。そうだ君、名前は?」
「多蔦、多蔦日和です」
「いい名前だね。それじゃ、おやすみ」
 
 苦手だけれど、不思議な先輩だった。灯りから離れた彼女はもう闇の中で、音だけが私の中に響いている。
 
「せんっ、先輩の名前はっ!」
 
 先輩からもまた、私はもう見えなくなっているかもしれない。だから、どこにいても聞こえるくらいの声でそう呼びかけてみせる。
 寸草をかき分ける足音が聞こえなくなったのは遠くに行ってしまったのだろうか、それとも立ち止まって、振り返ってくれたのだろうか。それすらもわからない。
 
「聞くだけ聞いて名乗らないなんて、忘れてた」
 
 もう会うこともないかもしれないけれど、また会えた時には、いや、また会って話をするときは、『先輩』なんかじゃなくて、名前で呼んでみたかった。
 ――潮凪満、だよ。
 
 
 
 
 なんてことを思い出したのは、似ていたからなのかもしれない。
 立ち込める湯気が浴室から見えるはずの星空を覆い、私達もまた覆われているこんな情景が。
 ……或いは。
 
「君があんなに元気な子だったなんて、知らなかったよ」
「……見なかったことにしてください。それよりも、この時間って一年生だけは入れるんじゃなかったんですか?  潮凪先輩?」
 
 目の前に居るはずのないあの人が私に話かけているから、だろうか。
 
「私の名前、覚えてくれていたんだね。嬉しい」
「今そんなこと話、話してましたけどそこじゃないですよね」
「いや、えっとね、違うのよ! 多蔦さん。今日は私が先輩を誘ったの。いけないことだとはわかっていたけれど……だから、だからね」
「い、いやきっと、それくらいなにか大切な意味があったんだよね! 貴澄ちゃんと先輩がどのくらいの仲なのかは知らないけど気持ちは、気持ちはわかるよ!」
「コロコロ変わって本当に面白いな、多蔦さんは」
「でしょう? 僕の自慢の姫様なんだ」
「ふたりともちょっと黙ってもらえない?」
 
 先輩だけが居てくれればまだ良かったのにと、心の中でボヤく。私とあたしは困惑しているのだ。調子が狂うというか、私の中で噛み合わない歯車が互いを摩耗させているみたいで、一言でいうと疲れる。
 本当に、めんどくさい先輩。
 入浴の時間くらいはゆっくりしたいもの。話の流れに合わせて気づかれないよう貴澄さんの隣に移動してみる。うんうん、ここは落ち着くわね。
 静けさは安らぎと落ち着きを提供してくれるけれど、それが何分も続くといつの間にか沈黙に変わり、どことない居づらさを放り投げてくる。
 いつまでも話している二人をどこか遠めに見ている彼女の視線はどこか寂しそうで、沈黙に包まれた彼女の心の中は騒がしそうだった。
 
「貴澄ちゃん、どうかした?」
「潮凪先輩はすぐに誰とでも仲良くなれるんだなぁ。って。東口さんとも、多蔦さんとも」
「え、あたしと先輩が? どこ? どこら辺が?」
 
 先輩と綾乃はまだわかる。会話の合間にぽっと出る笑顔を見ていればそう思うだろう。わからないのは私と先輩。何をどう解釈したら仲が良いなんていう言葉が口から出てくるのだろう。答えなんて出ないで代わりにのぼせるだけよね。
 
「特別ここが、というわけではないけれどそうね……うん、なんとなく、かな」
「貴澄ちゃんと倉實ちゃんの仲には及ばないけどね。最近なんて特に」
「そうかしら。いや、そうだとは、思う……けど」
「けど?」
「私がそう思っているからって、倉實さんもそう思ってくれているとは限らないもの」
「ホントにどしたの貴澄ちゃん。何かあった? 誰かに何か言われたの?」
「特に何かあったわけではないけれど……いえ、何もないから逆に、かしら」
 
 どっちつかずな答えに思わず消化不良を起こしてしまいそうだった。
 傍からは楽しそうだったり仲がよさそうだったりと言われている彼女たちにも、人知れず抱えている苦労があるんだろう。見えるものがすべてじゃないから、人間関係は大変だ。『あたし』なら何かできるんじゃないかなんて考えるけれど、そういうものは当事者同士で解決しないと意味がないと、『私』は思う。
 
「へぇ、やっぱり私がかわいいと見込んだことだけはあるね。さすがは君のお姫様だ」
「そうでしょう」
「ってそっちは何勝手に人の話してんのよ」
 
 だから今『私』にできてやるべきことは、見ないふりをすること。
 何もなかったかのように、戻ってこれる場所を作るのも大切な役目だと思うから。
 
「君の名前は出してないけど……ふふっ、お姫様も板についてきたのかな?」
「先輩違いますよ。初めから姫様だったんだ。板につくとか、そういう話ではない」
「っとうにもうからかうの好きねあんた達は! 」
 
 本当にめんどくさい先輩と隣人でもあり王子様でもある私のファミリア。
 慌てるし、疲れるし、息つく暇もないくらいに遊ばれているけれど、昨日より今日、今日より明日の方が楽しいと。そうも思わせてくれる。
 嫌よ嫌よも好きのうちとはよく言ったものね。
 言いたくないのなら、言わなくて良い。見せたくないのなら、見せなくて良い。
 考えすぎていたのかもしれない。前の綾乃がどうだとか、なんだとか。
 『今』が楽しければそれで、それで十分じゃない。私が望んでいて、手にしようとしていたもの。
 見ないふりして、バカなふりして楽しもう。そうしよう。
 ここでの私は、そうしよう。
 余計に悩んで考えて、動けない私なんて棄ててしまおう。
 その脚で走るの。どこまでも、どこまでも。
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