白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
328 / 336
終 白の章

 十三 

しおりを挟む
(ああ。天を感じる)

 まだ白起の中に、天の寵の残滓ざんしが残されている。
 
 憎悪の黒炎が、己の中で立ち昇る。蘇る記憶。あらぬ罪で母を眼の前で殺され、己は凌辱の限りを尽くされた。ただ私は清廉かつ実直に生きていた。私は世に懸命に尽していた。なのに、天は讎を以って返したのだ。

これほど醜い容貌にされ、辛酸を舐め続け、名も捨て、地べたを這いつくばるようにして生きてきた。私と貴様の何が違う。何故、お前だけが天に愛されるのだ。

最早、范雎の中で渦巻く憎悪の正体は、無限の悋気りんきである。猛烈な悋気は、時として人を修羅へと変える。双眼を燃やす范雎に対して、白起は平然と視線を薙いだ。

 蔑むように一瞥し、馬首を返す。范雎の悋気が爆ぜる。

「舐め腐りおって。全軍出るぞ!」

「挑発に乗ってはなりませぬぞ。渡河の最中は、最も無防備となるのです。ましてや、敵は上流側に布陣しておりまする。このまま流れに逆らう形で渡河すれば、兵は疲弊し、瞬く間に蹴散らされてしまいますぞ」
 珍しく猛鷔は声を荒げて強諫きょうかんした。
 
 それもそのはず。兵法に通暁しているものならば、如何に范雎軍に地の利が無いかは一目瞭然。だが、范雎は戦というものをまるで分っていなかった。確かに兵数は倍以上。敵はたった一万の騎兵である。数の差で圧倒できると思い込んでも無理はない。
 
 しかし、敵は常勝将軍白起である。敢えて、渭水の支流の上流に布陣したのには、明確なる意味がある。数による圧倒的な逆境を覆すには、兵馬の質。戦略が鍵となるのだ。

そして、白起は惨憺さんたんたる拷問の末、范雎の異常性というものを本人以上に知悉していた。狂気を剥き出した、范雎に猛鷔の諫言を聴きいれるほどの冷静さと器量はない。

「かかれ!」
 五万の吶喊と共に、第一陣が渡河へとかかる。

 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

北海帝国の秘密

尾瀬 有得
歴史・時代
 十一世紀初頭。  幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士、トルケルの側仕えとなった。  ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼の考えたという話を聞かされることになる。  それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという話だった。  本物のクヌートはどうしたのか?  なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?  そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?  トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。  それは決して他言のできない歴史の裏側。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

偽典尼子軍記

卦位
歴史・時代
何故に滅んだ。また滅ぶのか。やるしかない、機会を与えられたのだから。 戦国時代、出雲の国を本拠に山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し、当時の中国地方随一の大大名となった尼子家。しかしその栄華は長続きせず尼子義久の代で毛利家に滅ぼされる。その義久に生まれ変わったある男の物語

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

楽毅 大鵬伝

松井暁彦
歴史・時代
舞台は中国戦国時代の最中。 誰よりも高い志を抱き、民衆を愛し、泰平の世の為、戦い続けた男がいる。 名は楽毅《がくき》。 祖国である、中山国を少年時代に、趙によって奪われ、 在野の士となった彼は、燕の昭王《しょうおう》と出逢い、武才を開花させる。 山東の強国、斉を圧倒的な軍略で滅亡寸前まで追い込み、 六か国合従軍の総帥として、斉を攻める楽毅。 そして、母国を守ろうと奔走する、田単《でんたん》の二人の視点から描いた英雄譚。 複雑な群像劇、中国戦国史が好きな方はぜひ! イラスト提供 祥子様

処理中です...