白狼 白起伝

松井暁彦

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終  黒の章

 十一

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 白起の姿を見た刹那、雷に打たれたような衝撃が走った。血に塗れてはいるが、彼の容貌は人を魅了する美しさがあった天から見放され、醜悪な姿に変えられた、己と対局にある男。天の寵愛を一心に受けている。感じる。天の気配を。

煽情的せんじょうてきな香りがする」

「男色か貴様。気色の悪い奴だ。やり口が卑しいのも理解できる」

「その卑しいやり口には、嵌められたのは、何処のどいつかな」
 范雎は細い人差し指を頤に突き立てる。爪が刃物のように鋭く、肉を抉る。

魏冄ぎぜんの最期も愚かであったぞ。老い耄れが剣を執り、何百という兵士に立ち向かったのだ。まぁ、結果奴は矢の雨の前に、無残にも屍を野に晒した」
 
 白起の眼が剥いた。

「貴様!!!」
 四肢を動かすが、虚しく鎖が音を立てるだけである。

「おう。これは驚いた。何十万という人間を無感動に殺してきた、男がたった一人の男の死を嘆き怒るのか」

「貴様の狙いは何だ?」

「決まっている。何の為に、王の外戚と魏冄を排斥したと思っている」

「王の権威か」
 范雎が裂けんばかりの笑みを浮かべた。

「明察」

「では、何故俺を生け捕りにする?王の権威が望みなら、さっさと俺を殺してしまえばいい。さすれば、内実、国内に貴様の敵はいなくなる」

「残念ながら、もう一つ私は渇望しているものがある」
 范雎は天井を仰ぎ、如何にも芝居がかった様子で嘆息した。

「私は天への復讐を誓っているのだよ」

「天への復讐だと?」
 怪訝な表情で返す白起に対して、范雎は嬉々としていた。

「そうだ。秦の宰相となる前に、私は天から酷い仕打ちを受けた。言葉にするも、憚れるような屈辱だった。だが、瀕死の私を名も知らぬ男が助けてくれた。私は宰相となって、あの時、私を逃がしてくれた男を見つけ出し、金千いつを送り恩に報いた。しかし、恩に報いるだけでは道理が違う。道理とは常に平等でなくてはならん。この世は不平等なもので満たされているではないか。だから、私は誓った。あだも讎を以って、報いるべきであると」
 范雎の顔が恍惚とものへと変わっていく。

「そこで私は考えた。屈辱と痛みを私に与えた、全能なる天に復讐するにはどうすれば良いか。まずは王を凌ぐ、権力を得て、何れは天の代理人でもある、天子を弑逆し、私が世を治めることだ。そして、次に」
 妖しい光を宿す、范雎の双眸が白起を捉える。

「天の寵愛を受けた者を悉く嬲り殺しにすることだ」
 かつて勤王の心に溢れていた好青年は、今や底無しの狂気によって風狂ふうきょうへと転化していた。

「貴様は、天の寵愛を受けている。私は貴様の才能を。恵まれた容貌を。得た地位と名誉を憎む」

「狂っているな。お前」

「ああ。何とでも言え。私には分かるのさ。お前が纏う、天の臭気を。臭い。臭いぞ」
 寄声が上がる。
 
 拳が無防備な肚をめがけて、振り下ろされる。幾度も。幾度も。
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