白狼 白起伝

松井暁彦

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廉頗

 一

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 秦は四十万もの大軍勢を率いて、趙の邯鄲かんたんへと向かっていた。対して趙が虎符を用いて、総動員でできたのは四十五万。之には上党から帰順した吏民も含まれている。廉頗れんぱは四十五万を率いて、邯鄲が西の沃野―。長平に駐屯した。

総動員で横五十里にも亘る堀を掘らせ、人の上背ほどある累璧るいへきで陣を囲わせた。包囲等間隔に簡易ではあるが、腹壁を持つ城塞を拵えた。廉頗は力押しでの戦では、此度の戦―。勝機はないと見ている。

秦・趙共に心得のない農夫までも駆り出している。その彼等に、兵法に則った動きなど期待できる訳もない。単純な数だけの力押しの戦となる。故に兵力の多さが力量として如実に現れる。

「守り抜けばいいのだ」
 廉頗は何十万という人々が作業する喧噪の最中、自らの暗澹あんたんとした心地を慰めるように、ぼそりと呟いた。

「来るか。白起―」
 奴とは深い因縁にある。若き頃、彼に会い、彼の並々ならぬ才覚を目の当りにした。ふと思う。あの当時、己は傲慢であったと。

 若くして趙の武霊王ぶれいおうに見初められ、今は亡き楽毅がくきと戦場を駆け回った。武霊王の薫陶を受け切磋琢磨し、壮年期に達する頃には、楽毅を除いて敵は居ないと思っていた。

 だが合従軍の一国として、秦の函谷関を攻めた、あの日。 神気を帯びた、白き狼を視た。洗練され一切の不純物を含まない、天に愛された武才の子。

武神の寵愛を受けたからこそ、白起には代償として人心が欠いていた。彼が台頭するようになると、羊を狩る狼の如く、敵国を食らい、人民を畜生のように屠り続けた。犠牲者の数は四瀆しとく(中国を流れる四つの大河)を屍で埋め尽くすほどであろう。

ただ廉頗には白起が愉悦で人を屠っているようには思えなかった。己が想像もできないほど、強い衝動に突き動かされている。そのように映ったのだ。

理由も判然としない、同情に似た念が胸中に生まれたのを覚えている。だがー。白起の蛮行を看過できる訳ではない。此の地が抜かれれば、秦軍は邯鄲へと進撃する。邯鄲が陥落し、王の血胤が断たれるようなことになれば、趙は滅亡する。そして、白起は我が故郷を灰燼に帰し、蹂躙の限りを尽くすだろう。

(させてなるものか)
 
 この戦の勝利は、徹底した防禦ぼうぎょ戦にある。秦軍は本拠となる、祖国から遠く離れた趙の地まで進攻している。更には四十万という膨大な兵数を内に内包している。

兵糧は無限ではない。また、維持する為の糧道も距離が長大なほど逼迫する。保って一年。

白起を討たずとも、一年をこの地で踏ん張れば、秦軍は兵糧の枯渇により撤退を余儀なくされる。対して、廉頗には地の利がある。邯鄲を含める城邑から、絶えず補給を受けることが出来る。地の利と天の利は此方にあるのだ。

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