白狼 白起伝

松井暁彦

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血意

 十二

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「王翦殿」
 消え入りそうな声だった。

「誰だ?」
 扉が開く音。足音を殺し、近づいて来たのは黒衣の男だった。

「黒狗の者か?」

「早く此処からお逃げください」
 男は王翦の問い答えることなく、急かすように促した。

「手短にお伝えします」
 強く王翦の肩を触れた。

「魏冄殿は宰相張禄の策謀により、お亡くなりなりました」
 絶句。思考が停止する。

「いいですか。張禄は魏冄殿の訃音ふいんを、箝口令を布いて徹底的に情報の漏洩を封じております。殿を懼れてのことでしょう。私同様に咸陽へ派遣されている狗達は、張禄の手の者に悉く誅殺されてしまいました…。かくゆう私もー」
 男の手が離れた。肩には黒い血の跡が残っている。

「張禄は人海戦術を用いて、黒狗という組織そのものを崩壊させようとしています。今、私共の仲間は皆、追っ手に追われております。黒狗狩りは苛烈を極めているのです。今は、王翦殿が頼りなのです。どうか殿に全容をお伝えください」
 彼の言葉は意識に届いている。だが意識の核を覆った悲哀が邪魔をして、深くまで届かない。

「お願いです。何としてでも、殿の元へ辿り着いて下さいませ。さもなければ、死んでいった仲間達がうかばれません」
 暗黒で見る、彼の顔色は死人のように蒼白い。もう彼にも、時はないのだと愕然する。

「獄吏は片付けましたが、もう少しで替わりの者がやって来るはず。さぁ、急ぎましょう」
 促されるまま檻の外へ。まだ意識が現実に追いついていなかった。
 
 最期に見た、父の笑顔が脳裏に過る。

(そんな馬鹿な。俺はまだ父上に何も教わっていない)
 呆然とする王翦の手を男が引く。

「曲者だ‼」
 突如、暗闇の中に怒号が轟いた。錯綜する足音。狭い一本道の先に、幾つもの光が灯る。

「くそっ。思ったより早いな」
 彼は毒づくと、絶命している獄吏の腰から剣を抜き、王翦に手渡した。

「私が活路を拓きます。王翦殿は隙を伺って逃げて下さい」
 意識が現実に引き戻される。

「駄目だ。俺も戦う」

「なりません。時間稼ぎは私が。どのみち私には時は無いのです」
 明かりが足音と共に近づくにつれて、ゆらめく光が二人を照らす。

「あんたー」
 男の背―。幾つもの斬痕。夥しい血が簾(すだれ)のような跡を作っている。

「行きましょう」
 色のない唇が動く。

「居たぞ‼」
 通路を阻む五人の獄吏が剣を抜く。
 男は腰から短刀を抜く。通路の幅は、大人二人分。強く頷くと男は短刀を閃かせ、地を蹴った。薄暗通路の中で火花が散る。

「さぁ、行って!」
 瀕死の重傷を負いながら、一人で二人を相手に取る男。
 自分の想いと男の覚悟を秤にかける。

「ああ。もうくそったれ!」
 王翦は裂帛の咆哮と共に、激闘の合間を縫った。
 立ちはだかる二人の獄吏。

「邪魔だ!どけ!」
 稲妻の如く薙ぎ払われた一撃が、二人の獄吏の胴体を両断する。あと一人。斬りかかってくる所を男が割って入る。

「ぐっ」
 男の背を獄吏が斬った。血が噴き出す。その眼は躊躇する、王翦をしかと捉えていた。

「名は」
 最期にしてやれること。王翦にはこの程度しかない。

孫竜そんりゅうと」

「感謝する。孫竜」
 孫竜は穏やかな笑みを最期に湛えた。

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