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影王
二
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それから暫く。秦国内では宣太后と情夫である義渠の質子である戒王が男女間のいざこざを起こし、戒王が宣太后の私兵に殺害されるという事件が起こった。
同時に義渠との和睦も破棄され、白起が僅かな手勢を引き連れて義渠を滅ぼした。聞けば白起は以前、義渠の奴隷だったという。奴隷とされた私怨が彼の中に未だ渦巻いていたかは定かではないが、白起による義渠殲滅戦は苛烈を極めた。
包囲七百里に点在した集落を悉く灰燼に帰し、戦士のみならず何十万という民を斬首した。これにより僅かに生き残った義渠の民は遥か北へと逃れ、逼塞して生きていくことを余儀なくされたのである。
同時期に宰相魏冄が客卿の竃を遣って斉を攻めさせた。魏冄の封土には穣と陶がある。陶は斉の国境線と隣接し、たびたび斉の侵攻を受けていた。
この時の斉は、燕の名将楽毅から奪われた領土を回復せしめ、田単を軍の総指揮官に投じてかつての勢いを取り戻しつつあった。
陶一帯は魏冄の巧みな民政によって豊かである。故に斉は殷富を極めた、陶に狙いを定めたのである。
そして、陶周辺で斉軍と秦軍がぶつかり合うと、勝負は秦軍の勝利であっけなく幕を閉じた。竃は斉の領地を侵し、剛と寿の二県を奪ってみせた。
結果、魏冄の封地に斉の地である剛と寿が加えられ、魏冄の政力は更に高まった。最早、魏冄は秦の臣下というより、一国の王に近い富を有している。加えて魏冄と唇歯輔車の関係である白起が付けば、かつて存在した宋や中山国に匹敵する力を有することになるだろう。
宰相魏冄の栄華は此処に極まったといっても過言ではない。仮に魏冄が秦王への謀反を起こせば、秦国内は大きく揺らぐことになる。そして、結末を思い描くことは筆を洗うが如く容易い。
もし魏冄と白起の叛意があるとして行動に移さないのは、彼等が真剣に天下を見ているからだろう。今、秦の屋台骨が内から崩れるようなことがあれば、秦の滅亡を願う諸国は合従し、騒擾を利用して一気に攻め込んでくるに違いない。燕と同じ轍を踏むことになるのである。
幾ら戦巧者の白起とて、六国を同時に相手にするには骨が折れる。ましてや、連戦続きの秦には六国と対等に渡り合うだけの胆力もない。今や兵は不足し十五歳以上の少年すらも、爵位を餌に徴兵しているのが現状である。
よって両者が玉座の簒奪を目論むとしれば、内実ともに天下が併呑された後ということになる。遠からずその時は確実に来ると范雎は確信している。白起には天下を併呑するだけの力があるのだ。
秦王に焦燥が生じるのも分かる。最早、王の御稜威を越えた力を持つ、魏冄と白起の存在に戦々兢々としているのだろう。
そして、少なからず二人の思惑にも察しが付いているはずだ。だが、酒と女に溺れるだけで何も行動に移さないのは、今の秦王に味方となるべき人物がいないからだ。正に四面楚歌である。
二年、三年をかけてじっくりと状況分析を行った范雎は、故に今動いた。強迫観念にかられ、心を磨り減らした秦王に近付くのは、今が絶好の機会だった。
王稽に秦王宛ての書状を持たせた。書面の内容は簡潔なものだ。
まずは秦王の疲弊した心を慰める言葉と共に、彼の叔父である魏冄と軍の総帥白起を敢然と糾弾した。現状、己と同じように書面であっても、両名を糾弾できるものは居ない。秦王に靡くより、この二人に阿諛追従する方が、官吏達にも旨味があるからだ。
そして、その夜。范雎の思惑通り事は運んだ。秦王自ら馬車を手配し、范雎の長安の離宮へと召し出したのである。范雎は馬車に乗り込む中で、憎悪で満たした炎を胸に灯した。
この時を待っていた。
(必ず権を手に入れ復讐してやる。私から全てを奪い去った天に)
肚の底から湧き上がる忿怒に身を包み、馬車の外から咸陽の街並みを見遣る。馬車の揺れを感じ、范雎は屈辱に満ちた過去を思い起こした。
同時に義渠との和睦も破棄され、白起が僅かな手勢を引き連れて義渠を滅ぼした。聞けば白起は以前、義渠の奴隷だったという。奴隷とされた私怨が彼の中に未だ渦巻いていたかは定かではないが、白起による義渠殲滅戦は苛烈を極めた。
包囲七百里に点在した集落を悉く灰燼に帰し、戦士のみならず何十万という民を斬首した。これにより僅かに生き残った義渠の民は遥か北へと逃れ、逼塞して生きていくことを余儀なくされたのである。
同時期に宰相魏冄が客卿の竃を遣って斉を攻めさせた。魏冄の封土には穣と陶がある。陶は斉の国境線と隣接し、たびたび斉の侵攻を受けていた。
この時の斉は、燕の名将楽毅から奪われた領土を回復せしめ、田単を軍の総指揮官に投じてかつての勢いを取り戻しつつあった。
陶一帯は魏冄の巧みな民政によって豊かである。故に斉は殷富を極めた、陶に狙いを定めたのである。
そして、陶周辺で斉軍と秦軍がぶつかり合うと、勝負は秦軍の勝利であっけなく幕を閉じた。竃は斉の領地を侵し、剛と寿の二県を奪ってみせた。
結果、魏冄の封地に斉の地である剛と寿が加えられ、魏冄の政力は更に高まった。最早、魏冄は秦の臣下というより、一国の王に近い富を有している。加えて魏冄と唇歯輔車の関係である白起が付けば、かつて存在した宋や中山国に匹敵する力を有することになるだろう。
宰相魏冄の栄華は此処に極まったといっても過言ではない。仮に魏冄が秦王への謀反を起こせば、秦国内は大きく揺らぐことになる。そして、結末を思い描くことは筆を洗うが如く容易い。
もし魏冄と白起の叛意があるとして行動に移さないのは、彼等が真剣に天下を見ているからだろう。今、秦の屋台骨が内から崩れるようなことがあれば、秦の滅亡を願う諸国は合従し、騒擾を利用して一気に攻め込んでくるに違いない。燕と同じ轍を踏むことになるのである。
幾ら戦巧者の白起とて、六国を同時に相手にするには骨が折れる。ましてや、連戦続きの秦には六国と対等に渡り合うだけの胆力もない。今や兵は不足し十五歳以上の少年すらも、爵位を餌に徴兵しているのが現状である。
よって両者が玉座の簒奪を目論むとしれば、内実ともに天下が併呑された後ということになる。遠からずその時は確実に来ると范雎は確信している。白起には天下を併呑するだけの力があるのだ。
秦王に焦燥が生じるのも分かる。最早、王の御稜威を越えた力を持つ、魏冄と白起の存在に戦々兢々としているのだろう。
そして、少なからず二人の思惑にも察しが付いているはずだ。だが、酒と女に溺れるだけで何も行動に移さないのは、今の秦王に味方となるべき人物がいないからだ。正に四面楚歌である。
二年、三年をかけてじっくりと状況分析を行った范雎は、故に今動いた。強迫観念にかられ、心を磨り減らした秦王に近付くのは、今が絶好の機会だった。
王稽に秦王宛ての書状を持たせた。書面の内容は簡潔なものだ。
まずは秦王の疲弊した心を慰める言葉と共に、彼の叔父である魏冄と軍の総帥白起を敢然と糾弾した。現状、己と同じように書面であっても、両名を糾弾できるものは居ない。秦王に靡くより、この二人に阿諛追従する方が、官吏達にも旨味があるからだ。
そして、その夜。范雎の思惑通り事は運んだ。秦王自ら馬車を手配し、范雎の長安の離宮へと召し出したのである。范雎は馬車に乗り込む中で、憎悪で満たした炎を胸に灯した。
この時を待っていた。
(必ず権を手に入れ復讐してやる。私から全てを奪い去った天に)
肚の底から湧き上がる忿怒に身を包み、馬車の外から咸陽の街並みを見遣る。馬車の揺れを感じ、范雎は屈辱に満ちた過去を思い起こした。
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