白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦 弐

 十

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 各国に帰還命令が届いた。王都臨淄を陥落させた時点で斉の滅びは確実なものとなった。兵站線を維持するだけでも莫大な費用がかかる。隣国の燕以外、各国ここまでが限界だった。魏の宰相である孟嘗君田文にも帰還命令が届いた。既に魏軍は陣を退き払う準備に取り掛かっている。

 臨淄から二里離れた魏の本陣で燕の手に落ちた母国の王都を見遣る。捉えるは闇である。朔風さくふうに運ばれた戦場の痛ましい臭気が鼻腔を撫ぜる。せめての慰めは、想定より民の犠牲が少なかったことだ。臨淄も抵抗を見せたものの、田単が王都を放棄してからは、ほぼ無血開城に近かった。

また楽毅は悪戯に民を傷付けることはせず、進んで帰順する者は厚く遇した。それでも数えきれないほどの兵士が死んだ。

 心はへし折れてしまいそうなるほど疲弊の極にあった。国の存続の為、わしは犠牲を払うことを選んだ。罪深き行いだ。何れこの身に天譴てんけんが下ることになるだろう。

(後は託したぞ。淖歯)彼に全てが託されている。

「孟嘗君」
 従者が膝を折る。

「何用か」

「陣を退き払う前に、趙の廉頗殿が御目にかかりたいと」

「通せ」
 具足を鳴らす廉頗を幕舎へと請じ入れる。

「良い話では無さそうだな」
 胡床に重い腰を下ろす。

「まさか別れを惜しんで、わざわざ会いに来てくれた訳ではあるまい」

「白起が消えた」

「白起が?」

「ああ。別にあんたに話す義理がある訳でもないが、何だがすっきりしなくてな」
 漠然とした悪寒が襲う。

「まさか」
 廉頗は何も答えない。

「俺は話したぞ」
 廉頗は暗い声で告げ、踵を返す。

「何故、わしに?」

「胸糞が悪いってだけの話さ。俺にはあんたの苦しみが何となく分かる。抱えられないほどの業を背負って、結果的に祖国が滅んだのではあんたがあまりにも救われない」
じゃあな。といって廉頗は去った。その場に呆然と佇む。

(白起は黙って欺瞞の趨勢を見守るような男じゃない。何故その可能性を想定しなかった)
 ほぞを噛む。そして、湧き上がる強い憤り。己に対して。そして容赦のない白起に対しての憤りが綯交ぜとなる。

「糞!」
 声を荒げて従者を呼び寄せる。

「馬を用意しろ‼」

「馬ですか!?」

「早くしろ‼」
 戸惑い従者を一喝する。駆け足で幕舎を出て、慌てて近衛兵を招集する。半刻後には僅かな手勢を引き連れて野を駆けていた。

(間に合ってくれ!)
 田文の想いに反して、吹き付けるのは無慈悲な向かい風だった。
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