白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦 弐

 八

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 淖歯率いる楚軍は孟嘗君の封地である薛の地を通り臨淄へと北進する。白起が楚軍を追って、薛に至る頃には楚軍は北五十里の地で布陣しているようだった。

薛は一応の形として楚軍に陥落されたとあるが、本当の所は薛の城壁には矢傷一つ付いていなかった。孟嘗君の故郷である、薛には手出しをしない。恐らく淖歯と孟嘗君の間で交わされた密約のようなものだろう。
薛は大きな城邑だった。戦時中であるのに市場には物資が溢れ、また人々にも活気があった。城邑の大きさに対して少し手狭に感じるのは、陥落した城邑から逃れてきた民を受け入れているからだろう。広場では無償の炊き出しが行われ、疲弊した人々の列が蛇のように繋がっている。白い髪に泥を塗り、外衣を目深に被って白起は炊き出しの列に紛れた。

「食糧はまだまだある。焦る必要はない。皆列を守って」
 仕切っているのは侠客然とした男達。恐らく孟嘗君の食客達だろう。

(なるほど。薛では軍よりも侠客達が力を持っているのか)
 一見、柄の悪い男達。それでも手際は良い。次々に配給を受けた人々が捌けていく。

「ほらよ」
 列の先頭に立った白起に、筋骨隆々とした男が椀に注いだ煮汁を手渡す。

「助かったよ」
 悄然しょうぜんを装い震わせた両手で椀を受け取る。

「あんたは何処から?」

「南のれきという邑からだ」

「鬲ねぇ」
 男が訝しむように、泥に塗れた白起の顔を覗き込む。

「随分と疲れているようだ。大変だったな」
 ふっと笑み、強い力で肩を叩く。

「南はまだましだ。楚軍はしっかりと律されているようだった。眼を覆いたくなるほどの狼藉を働く兵士はいなかった。それでも邑を守る為に戦った弟は死んだ。唯一の肉親だったんだ」

「そうか。気の毒に」

「南の被害は少ないと訊くが、北や西はどうなんだい?」
 男は手を止めて、悲哀を含んだ溜息を吐いた。

「次々に城が陥とされていると訊く。燕の楽毅は相当に戦上手のようだ。せめてもの救いは、楽毅は慈悲がある軍人ということだ。総大将の彼は民への狼藉を厳しく禁じ、投降兵も処断することなく手厚く遇していると訊く」

「ほう。楽毅将軍が」
 虫唾が走った。あの甘ちょっろい男がやりそうなことだ。投降兵が寝返り蜂起すれば、連合軍は内側から瓦解する可能性もあるというのに。

「燕軍は既に七十城を陥落させ臨淄を包囲しているようだ。不幸中の幸いは、秦の白起が連合軍の総大将ではなかったことだ。奴が総大将だったら、斉の民は手当たり次第殺されていたはずだ」
 男が怒りを含んだ眼を向けた。当の本人を眼の前にして。

「秦の白起ねぇ」

「俺は血も涙もない魔人のような男だと訊いたことがある」
 男は力なく笑むと、もう行けと手で促した。礼を述べて椀を手に座り込む、難民達に紛れ込む。

「俺達はどうなっちまうんだろうな」
 耳を欹てると泣きそうな難民達の声が聞こえてくる。

「臨淄は合従軍に囲まれて陥落寸前のようだ」

「民の犠牲は少ないと訊くが、それでも相当数の兵士は死んでる」

「孟嘗君がいればな」

「ああ。その通りだ。孟嘗君が居なくなってから斉王は変わったよ」

驕慢きょうまんな王に変わったな。だからこそ、合従軍が攻め込んできた」

「斉は滅びるのかな」

「だとすればやはり燕に併呑されるのか」

「それは嫌だな。燕は隷属国れいぞくこくだぞ。燕王は斉を酷く恨んでいるに違いない。併呑されれば、俺達はきっと酷い扱いを受けることになる」

「やめろ。まだ滅ぶと決まった訳ではない。例え王都が陥落しても、王が生き延びてさえいれば復興できる」
 白起は話し込む集団に向き直る。

「なぁ、あんたら。現実的な話、臨淄は遅かれ早かれ陥落するだろう。万が一、王が落ち延びて復興を果たそうとするなら、何処だと思う?」
 銘々が考えこむ所作を見せる。

「んー。そうだな。恐らく王は東に逃げるだろうな。なんせ軍が追って来るんだ。だとすればきょに逃げるんじゃないかな」

「莒?」

「何だ。あんた知らないのか。遥か昔斉の東には莒国という国があった。国があったってことは、当然城郭も存在する。莒には今も荘厳な宮殿と城郭を守る堅牢な城壁がある。勿論、臨淄ほど頑強な訳ではないが、それでも莒には戦えるだけの防備と備蓄があるだろうな」
 合従軍が合流し臨淄を囲んでいる以上、王都戦の趨勢は視えている。臨淄が陥落すれば、各国は燕だけを残して陣を退き払うだろう。その隙を楚軍は逃さない。すれば、主戦場となるのは莒か。

「なぁ、あんた。いったい何処から来たんだい?」
 難民の男が再び眼を向けた時には、もう其処に白起の姿はなかった。

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