白狼 白起伝

松井暁彦

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面影

 七

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「此処にはもう来ない」

「えっ?」
 

「俺には貫き通さなくてはならないものがある」

「将軍ー。あなたはそうやって、独り血に塗れ、深い業を背負って生きていくおつもりですか」
 柚蘭は目を赤くして泣いていた。孤独なる戦士、白起の為に涙を流す、その姿は慈母のようであった。


「俺は武王の剣なのだ。刃が砕けた、俺になど価値はない」


「そうでしょうか。少なくとも、あなたを生んだお母さまは、そのような悲しい生き方を望んでおられなかったはず」柚蘭の声は、おこりを起こしたかのように、激しく震えていた。

「人の親ではない、お前に何が分かる」

「分かります。だってー」
 柚蘭の言葉が途切れた。彼女の頬は涙で濡れていたが、眸の奥には母の情愛が宿っていた。


「まさか。お前」

「将軍。今の私なら分かります。将軍のお母さまは心から、あなたを愛しておられた。だから、亡き武王や旦那様の為であろうと、あなたは剣としての生き方を選ぶのではなく、一人の人間としての生き方を選ばれるべきなのです」
 背を向ける、白起の手に、柚蘭の手が重ねられた。

「あなたも人を愛し、愛されて良いのです。だから、あなたの魂を血で染めるような悲しい生き方をしないで」
 柳のようなしなやかな躰が、そっと寄り添った。人の温もりが、具足を越えて、躰の芯に伝わる。

 意識の翼が、己の奥深くに眠る、失くした記憶に手を伸ばす。その先には、温もりに溢れた光輝がある。この光輝に触れれば、俺は柚蘭のように、自然と笑うことができるのだろうか。彼女に正面から向かい合うことができるのだろうか。世に溢れる、若い男女のように。

 翼が光輝に触れていく。瞬間、翼に亡者の無数の手が伸びた。振り返る。其処には、今まで屠ってきた者達が呪詛を吐きながら、白起を奈落へと引き摺りこもうとしていた。


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