白狼 白起伝

松井暁彦

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孟嘗君

 十三

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 二十日後、秦王から直々に、宰相として迎え入れたいと請われた。
 望郷ぼうきょうの想いはあるが、秦と密接な国交を結ぶことは魅惑的な利があった。西の果ての秦。東の果て斉が組めば、間に位置する三晋(魏・韓・趙)は動きづらくなる。秦と斉の国は、中原に位置する国々にとって、大いなる牽制になる。
 
 田文は熟考の上、秦王の打診を受けることにした。

 暫くして、事件は起きた。突如、あてがわれた瀟洒しょうしゃな館に、武装した兵士達が押し掛けてきたのである。情況も把握できないまま、四肢を抑えつけられ獄に落され、同じように従者や、近くに侍っていた食客達も連行された。
 
 嵌められたのか。元々、己を人質として捕えるつもりでいたのか。だったら何故、散々もてなした後に、身柄を押さえるような真似をしたのか。
 
 昨日の嬴稷は、普段にも増して上機嫌だった。あれは欺瞞ぎまんだったのか。いや、違う。あの若造に、そのような芸当ができるはずもない。
 
 牢獄独特の黴臭い臭気が鼻腔を突く。耳をそばたてる。聞こえてくるのは、見張りに立つ、獄吏の足音。距離として近くはない。
 
 その時、不意に一定間隔で鳴り響いていた、足音がんだ。代わって鎧の鈍重な足音ではなく、もっと軽いー。皮の沓音が聞こえる。主はゆっくりと此方へと歩み寄ってくる。

「斉のお偉いさんが、やすやすと捕まるとはな。有名人のくせに、あんがいちょろいんだな」

「君は」
 突如、闇の中に浮かんだもの。白起だった。

「誰かがあの馬鹿に讒言ざんげんした。あんたの存在は秦にとって不利益だと。俺達の王は、女心より移り変わりが激しい。あんたはもっと、あいつの馬鹿さ加減を警戒するべきだったな」
 彼の抑揚のない声からは軽侮が窺える。

「俺を始末しに来たのか?」
 ほとほと己に呆れた。彼の言う通りだ。愚者は時として、賢者の思考を上回る。檻越しではあるが、白起の手は佩剣にある。不思議と剣も、明瞭に視認できる。剣から理を外れた、気配が漂っている。

「逆だよ」

「は?」
 束の間、格子が開き、手枷と足枷を白起は解いた。

「何故、俺を助ける?」
 呆然としていた。之も何かの罠かと、訝しむ自分がいる。

「いい加減、辟易へきえきしている。魏冄は悪い奴じゃない。でも慎重過ぎる」

「何を言っている?」

「あんたを斉に無事送り返せば戦が起こる。そうだろ?」

「まさかー。君は戦を望んでいるのか?」

「悪いか」
 白起が顎で立ち上がるように促す。

「何故、君は戦を求める?」
 斉王は外戚である、己が秦で監禁された事実を知れば、侮られたと激憤するだろう。そして、周囲の国々を巻き込んで、礼を欠いた秦へ軍勢を差し向けるはずだ。
 
 だが、戦になれば万斛ばんこくの血が流れ民は疲弊し、国力は双方大いに削がれる。小さな勝利では採算が採れることはなく、国家に黒字を齎す大きな勝利など稀である。
 
 そして、斉が軍を差し向けた所で結果は視えている。斉は田文の祖父の頃より、富国強兵に務めているが、一国の力だけで強秦を滅ぼすだけの軍力はない。何より斉と秦は距離が離れ過ぎている。兵站の都合上、長期に亘る大戦は不可能であるし、仮に与国として韓・魏を味方に引き入れることに成功したとしても、秦の藩屏はんぺいに成り下がっている二国が秦討伐に本腰を入れてくるとは、到底思えない。
 
 だが、田文が無事帰還できれば、斉王は軍勢を秦に差し向けずにはおられない。外戚である、田文を秦が投獄した事実は、斉にとって顔に泥を塗られたが如く、屈辱的な行為なのである。強秦を懼れ暴挙を見逃せば、諸侯は憤り、また田王朝の名を失墜させることになる。

「敵を叩き潰す為さ」
 白起が上唇の隙間から、鋭利な犬歯を覗かせた。

「死にたくないなら早くしろ」
 確かに問答している時はない。釈然としないまま、胸の奥に澱のようなもの抱きながら立ち上がる。

「あんた、眼が視えないらしいな」
 不意に手を引かれ、態勢を崩す。

「足だけ動かせ」

「待ってくれ。俺の仲間は?」

「そんな余裕ねぇよ」

「駄目だ。函谷関を抜けるなら、どうしても必要な仲間がいる」
 白起が気怠そうに息をつく。

「分かったよ。名前は?」

趙遷ちょうせんだ」

「少し待ってろ」
 白起の足音が遠ざかって行き、続けて幾つかの牢が開く音が響いた。駆け寄る数多の足音。

「孟嘗君‼」
 趙遷の声だった。

「この獄舎に囚われている、あんたの仲間はこれだけだったよ。他は離れて獄舎に囚われているようだな」
 全員で十人。当初の十分の一とは。内心で強くほぞを噛む。彼等を巻き込んでしまった、己の愚かさに。それでも、趙遷が同じ獄舎に囚われていたことは、不幸中の幸いだった。

「全員は無理だ」

「ああ。承知している」

「よし。俺に着いてこい」
 
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