白狼 白起伝

松井暁彦

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孟嘗君

 八

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「やぁあああ!」
 威勢の良い声が広大な館の庭に轟く。振り翳される木槍。深淵の中で揺らぐ闘気の筋。田文は首をすぼめる程度にしゃがむ。旋毛つむじの上を木槍は掠める。
 筋が点となり、幾つも現れる。突きの連打。 躱す。踏み込む。固めた拳。打つ。捉えたのは、男の水月。
 苦悶の声。右の踵を軸に回り、勢いのまま蹴りを放つ。踵が堅いものを捉えた。木槍が放り出し、若者が側頭する。

「今日はここまでだな」
 田文は完全に色を失った、眼を細めた。喘ぎながら若者が立ちあがる。

「孟嘗君。お教え下さい」

「俺が君に教えてあげられることなど何一つないさ」

「何故、孟嘗君は私の動きが読めるのでしょうか?孟嘗君はつまりーそのー」

「盲人」
 言い淀む若者に、あっけらかんと答えてやる。

「は、はい」

「私は都の喧嘩では負け知らずでした」

「ああ。確かに君は強い。そして、若くまだまだ強く。だが、単純な力だけの勁さに固執してはいけない。君の世界を狭くするだけだ」

「孟嘗君の眼には、何が映っているのでしょうか?」

「何も」
 細い笑みを浮かべる。

「何もーですか?」

「俺の眼は何一つ捉えることはできないよ。しかしー」

「しかし?」
 若者は唾を飲み、繰り返した。

「森羅万象が俺に語りかけるのだ」

「へ?」
 素っ頓狂すっとんきょんな声を若者は上げた。

「はからずも、君の魂が俺に語りかけてくる。君は純然たる魂を有している。時折、荒々しくはなるが、根底には穢れなき愛がある」

「俺には分かりません」

「ああ。そうだな。俺も全てを知悉している訳ではない」

「孟嘗君は、人の魂の根底を悟って、食客を招いているのですか?」

「俺は人を選ばない。人は皆が平等に可能性に満ちている。例え物乞いや奴隷であっても、人には何かしらの才がある。そして、生来から等しく清らかさを持ち卑しさを持っている」

「等しく、ですか」

「だが、清らかさと卑しさには均衡がある。個が得た経験により、二つの均衡が崩れることがある」

「卑しさに染まるのですか」
 若者の声には自信がなくまだ要領を得ないという感じだ。

いん紂王ちゅうおうなど正しく其だ。彼は生来から並々ならぬ王器を備えていた。しかし、淫らな妲己だっきにかどわかされて、彼の純然たる魂は黒く染まった。そして、結果愚かにも、国を滅ぼした」

「ならば、完全に清い魂を持った者も、この世界に存在するのでしょうか?」

「存在しない。哀しき哉、人とは善意より悪意に呑まれやすい。完全に黒に染まることは容易いが、潔白なる魂を有するものなど存在しない。例え、万年の修行を積んだ仙人であっても、穢れを祓うことはできないーはずだ」

「はず?」
 田文は語尾を濁し、西の方角を仰いだ。視線の先には、斉から遠く離れた極西の国。秦がある。
 森羅万象が訴えかけてくる。
 西に脅威があると。眼を凝らす。だが映るのは闇。突如、闇の中に障壁の如く白い靄が掛った。

(これは)
 瞬間。靄から爪牙を剥き出しにした、白き狼が飛び出した。
 絶叫する。 転んだ田文の若者が脇を支える。

「孟嘗君!」
 喉笛に強烈な痛みが走る。狼は消えていた。あるのはいつもの深淵。

「何だったのだー。あの狼は」
 声は潤いを欠き、田文の額には玉のような汗が幾つも浮かび上がっていた。
 
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