白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
67 / 336
孟嘗君

 六

しおりを挟む
 兄は田横でんおうといい、二十歳になるまで庇護下に置いてくれた。その間、兄は字の読み書きなどあらゆるものを授けてくれた。二十歳になる頃には、いよいよ書物の字など読み取れなくなったが、それでも兄が与えてくれた数多の書物の内容は一言一句、頭の中に残っており、諳んじることもできる。

ぶん。お前には家を栄えさせるだけの素質がある」と兄はいったが、田文でんぶんには兄の言葉の意図が汲み取れなかった。
 
 ある日、兄が用意した馬車でせつという城郭に向かった。景色を虚ろな眼で捉えることは叶わないが、城郭内の喧騒で殷賑ぶりはよく分かった。
 
 館へと向かい招じ入れられると、居室では一人の男が待っていた。ぼんやりとした輪郭で男が酷く肥えているのが分かる。飽食の躰。黒い醜い気が、彼の躰を覆っている。田文は視覚を充分に遣えない代わりに第六感が優れていた。視覚が徐々に失われ始めてから、人が放つ精気を捉えることができるようになった。
 
 精気―。いわば、人の心を具現化する気配。その者の心が賤しければ、賤しいほどに心は深く濃く変色していく。
 どれほど修練を積んだ道人であっても、無垢な白にはなれない。完全に無垢な者などは、この世には存在しない。だが、悲しきことに悪意の醜さに終わりはない。人は無限に卑しくなれる。眼の前の男が放つ精気は相当に穢れていた。田文が目の当たりにしたことがないほどに、男の精気は濃く深い黒。

「その眼を知っている」
 酒に灼けた、酷く人を不快にさせる、ざらついた声だった。

「父上の落とし子ですよ」
 兄が告げる。男は短く息を吐くだけだった。

「気味の悪い奴だ」
 恐らく眼のことを指したのだろう。

「何故、こいつをここに?儂にどうしろと?」
 父が兄を見た。

「父上に引き合わせる価値があると思ったからです」
 唸る声が聞こえる。

「お前、何か言いたいことでもあるか?」
 率直な疑念が脳裏を過る。斉を隆盛に導いたという、この男は何処まで物事を見据えているのだろうか。

「何故、父上は私を殺そうと?」

「しれたことだ。五月生まれの子は縁起が悪い。それにその眼だ。気味悪くてかなわん」
 実の息子にあけすけに告げる。怒りはない。心は凪いでいる。

「何故、五月生まれの子は縁起が悪いのでしょう?」

「五月生まれの子は、背丈が戸の高さになると、親を殺すという」

「我が命は天より賜りしもので、戸より賜ったものでは御座いません」

「屁理屈の多い奴だ」
 父が纏う黒気が揺れた。

「人は等しく、天から命を授かっています。父上が案じられる必要はありません。仮定の話ではありますが、もし命を戸より賜っているのならば、館の戸をうんと高くすれば良いのです。誰もその高さに届かぬように」
 田文は勝ち誇ったように笑んだ。

「つまらん」

「迷信を理路で打破したまでです」

「もういい。この話はやめだ。黄、この屁理屈たれをさがらせろ」

「お待ちください。あと一つお聞きしたいことがあります」

「何だ?」

「子の子は何でしょう」

「孫。お前はわしを馬鹿にしておるのか?」
 薄く笑んだだけで、田文は続けた。

「では、孫の孫は」

「玄孫」

「では、玄孫の孫は」
 一拍を置いて、恥じるような咳払いが鳴った。

「知らん」

「斉の宰相として、今日まで斉を支え続けた、父上の雷名は国内のみならず国外にまで轟いております。斉の三王に仕え、父上の畜財は最早一国に相当するものでしょう。ですが、兄上に父上の邸宅にお招き頂き、疑念を抱きました」

「何だ」
 声の調子で、父が大いに気色ばむのが分かる。

「父上には財もあり、人を無条件に畏怖を覚えさせるほどの燦然たる功績がおありです。しかしながらー。父上の邸宅に、一人の賢人も見受けられませんでした。しょうの門にはかならず将あり、しょうの門にはかならず相あり。という古語があります」

「何が言いたい」
 黒気が動揺を体現するように、くねりながら蠢く。

「父上は一体、何の為に蓄財なさるのでしょう?父上は継続してるやも、分からない子々孫々の為に蓄財なさるのか?父上が所有される財は、国庫の三分の一にものぼると聞きます。それほどに膨大な銭が動くことなく止まっている。銭の動きは物流。そして人の流れと一体であります。いわば、父の館は停滞の象徴。之は我が国において、損害でしかありません。己の私腹を肥やすことと、国家の安寧。果たして何方が大事とされるものなのか。父上の真意をお聞かせ願いたい」
 一瀉千里いっしゃせんりに己を捨てた父にぶつけた。父の呼吸の音だけが室内に漏れ聞こえる。

 短い嘆息の後、「やはり、あの時殺しておくべきだったな」と告げると立ち上がった。

「黄。ご苦労であった。今日より、此奴はわしの手許に置く」
 兄は安堵の息を吐き、笑いかけた。

「御意に」
 力強く兄は田文の肩を叩き退出した。

「名は何と言ったかな?」
 狭い空間で二人きりとなる。父の声には、先ほどまで含まれていた険はなかった。

「文と」

「母は息災そくさいか?」

「私が十の時に他界しました」

「そうか」
 別段興味もなさそうだった。

「文。わしの財を好きに遣っても構わん。お前がやりたいようにやってみせろ。あれほどに大口を叩いたのだ。わしを失望させるなよ」
 父の真意は測れなかった。だが、己の言葉が父の固い心を動かしたようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

信長の秘書

たも吉
歴史・時代
右筆(ゆうひつ)。 それは、武家の秘書役を行う文官のことである。 文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。 この物語は、とある男が武家に右筆として仕官し、無自覚に主家を動かし、戦国乱世を生き抜く物語である。 などと格好つけてしまいましたが、実際はただのゆる~いお話です。

艨艟の凱歌―高速戦艦『大和』―

芥流水
歴史・時代
このままでは、帝国海軍は合衆国と開戦した場合、勝ち目はない! そう考えた松田千秋少佐は、前代未聞の18インチ砲を装備する戦艦の建造を提案する。 真珠湾攻撃が行われなかった世界で、日米間の戦争が勃発!米海軍が押し寄せる中、戦艦『大和』率いる連合艦隊が出撃する。

日は沈まず

ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。 また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。

御稜威の光  =天地に響け、無辜の咆吼=

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
そこにある列強は、もはや列強ではなかった。大日本帝国という王道国家のみが覇権国など鼻で笑う王道を敷く形で存在し、多くの白人種はその罪を問われ、この世から放逐された。 いわゆる、「日月神判」である。 結果的にドイツ第三帝国やイタリア王国といった諸同盟国家――すなわち枢軸国欧州本部――の全てが、大日本帝国が戦勝国となる前に降伏してしまったから起きたことであるが、それは結果的に大日本帝国による平和――それはすなわち読者世界における偽りの差別撤廃ではなく、人種等の差別が本当に存在しない世界といえた――へ、すなわち白人種を断罪して世界を作り直す、否、世界を作り始める作業を完遂するために必須の条件であったと言える。 そして、大日本帝国はその作業を、決して覇権国などという驕慢な概念ではなく、王道を敷き、楽園を作り、五族協和の理念の元、本当に金城湯池をこの世に出現させるための、すなわち義務として行った。無論、その最大の障害は白人種と、それを支援していた亜細亜の裏切り者共であったが、それはもはや亡い。 人類史最大の総決算が終結した今、大日本帝国を筆頭国家とした金城湯池の遊星は遂に、その端緒に立った。 本日は、その「総決算」を大日本帝国が如何にして完遂し、諸民族に平和を振る舞ったかを記述したいと思う。 城闕崇華研究所所長

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

明日の海

山本五十六の孫
歴史・時代
4月7日、天一号作戦の下、大和は坊ノ岬沖海戦を行う。多数の爆撃や魚雷が大和を襲う。そして、一発の爆弾が弾薬庫に被弾し、大和は乗組員と共に轟沈する、はずだった。しかし大和は2015年、戦後70年の世へとタイムスリップしてしまう。大和は現代の艦艇、航空機、そして日本国に翻弄される。そしてそんな中、中国が尖閣諸島への攻撃を行い、その動乱に艦長の江熊たちと共に大和も巻き込まれていく。 世界最大の戦艦と呼ばれた戦艦と、艦長江熊をはじめとした乗組員が現代と戦う、逆ジパング的なストーリー←これを言って良かったのか 主な登場人物 艦長 江熊 副長兼砲雷長 尾崎 船務長 須田 航海長 嶋田 機関長 池田

処理中です...