白狼 白起伝

松井暁彦

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王の誕生

 九

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 「お前―。いや、大王様の夢の話を訊いてやってもいい」
 一拍置いて、嬴蕩は吹き出し、虎のように喉を震わせて豪快に笑った。

「何がおかしい」

「いや。すまん、すまん。そうか。お前は俺の夢に興味があるか」
 白を伴って、執務室の扉を開け放ち露台へと出る。無限に続く大地に陽が呑まれようとしている。鬱金色うつこんいろの陽光が人類の叡智を集約し、築き上げられた咸陽を照らしている。

「視えるか、白」
 嬴蕩は眼を眇め、灼熱に燃える地平線を指さした。

「赤い大地が視える」

「違う。その先にあるものだ。中原―。いや、中華の広大な大地がある。ここ秦以外にも数多の国がある。今、中華は纏まりに欠けている。故に文化、思想の違いが生まれ争いが起こり絶えない。だが、仮に一つの国がー。この中華を統治すればどうなると思う」
 そっと小さな白の肩に手を乗せた。差異がある二人の影が後方に長く伸びる。

「全てが一つとなり、争いがなくなる」
 白のぎこちない答えに、嬴蕩は穏やかに笑む。

「そう。平和が訪れるんだ」
「可能なのか?そんなことが」

「大昔の話をしよう。かつてこの広大な中国の何処かに、という王朝があった。その時代には、今のように文字もなく、鉄でさえ普及していなかった」
 白は黙して耳を傾けている。

「夏を興したのは舜帝しゅんてい禅譲ぜんじょうされ、帝位を継いだだ。禹は河川の治水工事に血道を上げた。また争いを好まず、武具の生産も禁じた。夏王朝の記録はさほど多くは遺されてはいないが、禹に限らず古代の帝王は、徳という霊力によって、数百あったとされる諸侯を屈服させた」

「その時代には、戦がなかったのか?」

「小競り合い程度はあっただろうさ。だが、今の世の中のように、何万という兵や民が一度の戦で死ぬようなことはなかった。つまり、古代の方が遥かに平和であったという訳だ」

「信じられないな」

「ああ。そうだな。俄かには信じられない」
 嬴蕩も白も同様に、生まれてこの方、戦乱しか知らない。親を義渠に殺され、その奴隷となり、第一線で剣を振るってきた、白になど想像も出来ない話であろう。

「大王様には、その徳って力があるのか?」
 嬴蕩は大声で笑う。

「馬鹿言え。俺に徳など備わっていない」

「徳という力がなければ、諸侯を束ねることはできないのではないのか?」

「いや。ある」
 嬴蕩の巨眼に焔が灯る。白は横に並び、赤く染まる王の顔を仰いだ。

「武力だ」
 白は顔を歪めた。

「勘違いするな。世を掌握するほどの圧倒的な武力だ。俺を含め、今の諸侯に徳を備えた王などいない。古代と現代は違う。徳などもう時代の流れによって喪失された力だ。ならば、今ある力を遣うしかない。そして、秦には圧倒的な武力があり、俺にはそれを自由に操る力がある」
 苛烈な言葉を継ぐのとは、相対して嬴蕩は穏やかに笑みを浮かべる。

「俺の夢はな古代の王達がそうしたように、この中華を一つに束ねることだ。つまり、天下を奪うってことさ」
 白はただ表情を変えず、嬴蕩の話に耳を傾け続けている。

畢竟ひっきょう―。武でしか、今の世を変えるはできない。圧倒的な武で諸国を滅ぼし、国を一つにする。国が一つに纏まれば、争いは地上から消え去る」

「綺麗事だな。結局の所、手段は武力ってことか」

「ああ。その通りだ。戦乱を嫌っても、その実、武力に頼らざるをえない」

「都合の良い話だ」

「全くだ。だがな、俺は本気で思っている。俺にとって都合の良い話なのは、重々承知している。だが、俺は魂に刻みつけられた役割を理解している」

「役割?」

「そうさ。俺は王となった。王となり、何を成すか。その役割だ」

「それが天下を一つにすること」

「ああ。そうだ。そして、この眼で見てみたい。幾星霜と続いた、無益な戦乱が終わり、万民が泰平を享受する様を。きっと、その時には俺達の眼の前には理想郷が拡がっているはずだ」
 嬴蕩の眼は爛々と輝いていた。

「その為ならば、俺は天下の極悪人にだってなるさ」
 破顔する嬴蕩の顔を白はただ静かに見つめていた。余りにも馬鹿げた。それでいて、自分勝手な理想なのだろうか。なのにー。この屈託のない笑顔に惹かれるのは何故か。

「理想郷を築こうとする男が、天下の極悪人になるのか。矛盾しているな」

「そうだな。だが、その価値はある」
 理解できない。何故、それほどの覚悟を以って、他人に幸福を与えてやろうとするのか。西の大国―。秦の王者なのである。必要以上のものを背負わなくとも、己だけならば奢侈しゃしを尽くし、好き放題に生きることができる。

「理解できないって顔をしているな」
 白の渋面を見遣って、嬴蕩は相好を崩す。

「人に尽くして何になる?あんたが幾ら高尚な理想を掲げた所で、奴等は何も返してはくれないぞ」
 俺は知っている。誰もが己の為だけに生きている。奴隷として、家畜のように利用され続けた、白だからこそ分かる。人の本質は性悪である。

「そうではない。人の心を蝕んでいるのは、この荒廃した世だ。泰平の世が訪れれば、人の心は変わる」
 灼熱を宿した陽が、門を閉ざした咸陽宮の正門に影に隠れていく。一条の紅の剣の如き、鋭い射光が王宮へと届く。

「あんたには、武力で人の心も変えようっていうのか?」
 嬴蕩は破顔で返した。

「できる、できないの問題ではない。この俺がやらなければならないのだ。今の世に本気で世を変えようとしている者はただの独りとしていない」
 地平線の彼方には、既に蒼の宵闇が迫っている。だが、嬴蕩の双眼は炎を抱いたかのように雲英きらを放っている。

「なぁ、白よ。お前は何の為に剣を振るってきた?」
 逡巡する。振るってきた刃に意味などない。ただ無感動に振り上げ、命じられるがまま諾々だくだく無辜むこの民の命を奪ってきた。己の生―。そのものに意味がないのに、剣に意味などあるはずもない。

「今日から俺の理想の為に、剣を振るってみないか?」
 にっと笑う、嬴蕩の顔を見上げる。

「振るう意味を見出せないのなら、お前の剣を俺に預けろ。さすれば、お前の剣は役割を持つ」

「剣を預けるー」

「そうだ」
 そう告げると、巨躯を白の背に回す。佩剣に手を伸ばし、抜き去る。

「さぁ持ってみろ」
 言われるがままに、柄を掴んだ分厚い手に、己の掌を重ねる。紅い残照が、剣尖へと集約する。

「いいか。白。お前はこの腐った世界を断ち切る剣となれ。お前の放つ斬撃は、やがて一つの大道となり、俺の宿願へと続く」
 刃が震え、淡い燐光が宿る。視界が豁然かつぜんと開いた。宵闇に光輝が浮かぶ。その中に、白は理想郷を視た。戦乱が無い世界。人々の顔に笑顔が溢れていた。

「どうだ?」
 と問われた時、光輝は消えていた。どれほどの時を、剣把けんぱを握りしめ立ち尽していたのだろう。 
 残照も消え、刃は夜空に浮かぶ、真円の月を映し出している。

「…」直ぐには答えらなかった。
 浮世離れした、眼の前の出来事に戸惑っていた。

 だが、意味も無く、剣を血に染めるよりは良いとは思っている自分がいる。そして、己の四肢を巡る血潮が熱い。
 不思議だった。如何な理由であれ、選び取ろうとしている決断には、己の意志がある。そして、無機質な剣が感情を宿したように、淡い燐光を放っている。まるで、武断の王に役割を与えれたことに歓喜しているように。

「何人敵を斬れば、あんたは理想に手が届く?」
 手から剣が掠め取られる。剣を頭上で回し、嬴蕩は空に剣を突き上げた。

「星の数ほどだ」
 諧謔かいぎゃくを交えている様子ではなかった。彼は本気で言っている。

「なるほど。では、俺はあんたと同様に天下の極悪人となるということか」

「そういうことになるな」
 悪びれもなく太い笑みを刷く。

「いいよ。やってやる。あんたの剣になってやる」

「ろくな死に方はできんぞ」
 自嘲気味に嗤い返す。

「元よりそんなもの望んでいない。それを言うなら、あんたもだろ」
 嬴蕩の吐いた息が、闇夜に溶けていく。二人は並んで、煌々と輝く星の川を仰いだ。

「ああ。その通りだ。そして、今日より俺の剣であることが、お前の役割であり、俺の夢がお前の夢となる」

 白にはまだ、嬴蕩が語る、夢の輪郭を掴むことはできない。それでも、嬴蕩の夢の話は、空洞であり続けた、心のうろに、一滴の雫となって落ちた。たった一滴の雫なのかもしれない。だが、荒廃した白の心に、その雫は僅かな潤いを与えた。


 嬴蕩(後の武王ぶおう)と白の出逢いは必然であり、やがて、白は秦を無敵の大国へと変える。





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